【第85話】できれば下の名前で
「君たち、もしかして上総台高校のアクター部の人?」
興味深げなその表情に嘘をついても仕方ないと、二人は頷いた。桜子も女性の所属元が分かっているようだ。
ロビーには三人しかいない。階段を下りてくる足音さえ、聞こえてこなかった。
「二人とも分かってると思うけど、私はAC沖縄のクラブ職員ね。鬼平栞。気軽に下の名前で呼んでくれたら嬉しい」
鬼平は友好的な表情を浮かべていた。沖縄のクラブ職員にしては、訛りが全くなく自然な標準語だった。
見た目は二〇代に見えるが、いずれにせよ二人より年上なのは間違いない。桜子が慎重に口を開く。
「あの、鬼平さんって……」
「ごめん。できれば下の名前で呼んでもらえるかな。鬼平ってなんか仕置き人みたいで怖いでしょ」
「はい。栞さんって着ぐるみに入られる方ですか?」
「そう。沖縄のマスコット、ジンベッチ知ってるでしょ? 去年できた頃から、ずっと入らせてもらってるんだよね」
鬼平は周囲を気にする素振りも見せず、あっけらかんと言った。
天井から話し声と足音が聞こえてくる。間もなく先輩たちも下りてきそうだ。
「身長からすると、着ぐるみに入るのは、男の子の方かな。君、名前は?」
「似鳥晴明です。一応、ライリスに入らせてもらってます」
「ライリスに!? 凄いね。見た目もしっかりしてるし、やっぱ最近の高校生は違うなぁ。まあ私も八年くらい前は高校生だったんだけど」
「って興味ないか」と笑いながら、鬼平は一人でつっこむ。
しかし、晴明には鬼平を目にした時から、ずっと疑問が居座っていた。
「あの、栞……さんって沖縄の方なんですよね。試合、明日ですよね?」
「うん、明日。でも、ウチのクラブって他のクラブから遠いじゃん。遠征は一〇〇パーセント飛行機だし。だから、なるべく試合前日に到着するようにしてるんだ。その方が選手も現地で練習できて、良いコンディションで試合に臨めるしね」
晴明と桜子が納得したのとほとんど同時に、まず渡と芽吹が階段を下りてきた。さらに、成、佐貫、泊がすぐ後ろに続く。
五人は鬼平を見て、ロビーで足を止める。成と渡はすぐ気づいていたが、他の三人はいまいちピンと来ていない様子だった。
「フミ、この人誰?」と、泊が小声で桜子に聞いている。おそらく耳に届いているのだろうが、鬼平はその間も相好を崩してはいなかった。
「明日、千葉と対戦するAC沖縄の栞さんです。明日、着ぐるみの中に入るそうです」
「栞です。皆、アクター部の人?」
「はい。そうですけど、どうしてそれを……?」
「筒井さんから聞いたんだ。最近はここで活動してるって。ちょうど終わったところでよかったよ」
確かに成や泊と筒井は、こまめに連絡を取っているから、不思議ではない。それでも、わざわざ前日に会いに来るとは。
「思ってたより大所帯だね。ハニファンド千葉は他にも二人マスコットがいるけど、明日誰が入るとかは決まってるの?」
それは機密情報の類だったが、同業者の鬼平になら伝えても構わないと判断したのか、成と渡は一歩前に出て晴明の横に並んだ。
「南風原成です。明日は、ピオニンに入らせていただきます」
「南風原!? 沖縄に多い名字だ! えっ? お父さんとかお母さんは沖縄の人なの?」
「はい。父の両親が沖縄に住んでいて、年に一度は沖縄にも行ったりします」
「そうなんだ! 今度沖縄に来た時はよかったら、県総でやってる沖縄のホームゲームにも寄ってみてね!」
「ぜひ!」と笑顔で話を合わせる成に、さすがだなと晴明は感じた。
蚊帳の外に置かれた渡は、二人をただ見るだけだ。
「で、カァイブに入るのは、君?」と名指されて、緊張したように背筋を伸ばしていた。
「は、はい。明日、カァイブに入らせていただきます渡真仁と申します。明日はどうかよろしくお願いいたします」
「うん、よろしく。君はもしかして一年生? まだ高校生になったばかりなのに偉いね」
「あっ……一応、二年生です。この二人の先輩です」
渡が手で晴明と桜子を指すから、二人は軽く会釈をした。
鬼平は驚いて、その後少しバツが悪そうな表情をした。
「ごめんごめん。人を見た目で判断しちゃいけないよね。気悪くした?」
「いえ、大丈夫です。実際より年下、中学生みたいに見られるのには慣れてますから」
渡の声は平坦で、さほど気にしてはいなさそうだった。実際渡は顔つきも童顔だし、鬼平の感覚はごく一般的なものだろう。
それでも、鬼平は手を合わせて謝っていて、かえって渡に気を遣わせていた。
「それで、君たちは今何してたの? なんか待ってる間、喋ってる声が聞こえてきたけど」
渡が申し訳なさそうに許すと、鬼平はけろりと元の表情に戻って聞いてきた。目つきは興味津々だ。
「普段は走ったりパントマイムしたりしてるんですけど、今は月末の文化祭で上演する劇の練習をしていました」
佐貫の返答が、晴明の背後から聞こえてくる。
すると、鬼平は身体を前に乗り出して、晴明たちとの距離をさらに詰めた。爛々とした目に、晴明はどちらが子供だか分からなくなってしまう。
「君、部長さん? えっ? 部活でそんなことまでしてんの?」
まとめて放たれた二つの疑問に、晴明は後ろを振り返る。
佐貫が首を縦に振ると、すぐ鬼平の自由闊達な声が聞こえてくるから、目のやり場が忙しい。
「えっ、凄いじゃん! 私なんてただ動くだけでいっぱいいっぱいなのに、ストーリーに沿ってお芝居までするなんて! いや、最近の高校生侮りがたしだわ、本当に」
シンプルに褒められて、晴明は少し照れくさくなった。第三者から劇をすることを称賛されたのは、初めてだった。
入り口にある受付から、係員の視線を感じる。
だけれど、鬼平は全く気にしていないかのようにまくし立てる。
「誰か教えてくれる人はいるの? どんな感じの劇? というか、着ぐるみの劇ってそもそもどうやんの?」
矢のように飛んでくる質問には、佐貫と泊が協力して答えた。
その度に鬼平は率直なリアクションを示していて、ここまで興味を持てるのが晴明には不思議なほどだった。
呼び止められてから既に、少なくない時間が経っている。これは明日も大変そうだと、晴明は感じていた。
「ねぇ、似鳥くんだよね。君もステージに立って演じるの?」
おそらく鬼平が聞いたのは、晴明が一番自分の近くにいたからでしかないのだろう。
それでも晴明はどきりとして、答えるまでにやや時間を要する。
「あの、僕は今回出なくて、渡先輩と二人の三年生の先輩がステージに立つんです」
視線で三人を指す晴明。
「そっか、じゃあ三年生にとっては時期的に最後の活動だよね? 悔いを残さないようにがんばってね。部活での不完全燃焼感は、けっこう大人になってからも尾を引くもんだから」
「はい! お見せできないのが残念ですが、精一杯がんばりたいと思います!」
語気を強める泊に、全員の視線が注がれていた。
恥ずかしげに笑うこともしない凛々しい表情。その場しのぎで言っているわけではないことが晴明にも分かった。
「うん、がんばってね。じゃあ、私そろそろお暇しよっかな。疲れてる中、あまり立ち話を続けるのもなんだしね」
「はい! 明日はどうかよろしくお願いします!」
「うん、よろしくね。余力があったら明日また話そうね」
軽く手を振ってから、鬼平はコミュニティセンターを後にした。ロビーには糸が緩んだような空気が流れ込む。
気がつかないうちに、鬼平のペースに持っていかれ、晴明の疲労はより大きくなっていた。
明日の話し相手は、成や桜子が務めてくれるだろう。三人の会話を眺める自分を、晴明はふと想像していた。
翌日。昨日涼しかったのは束の間の錯覚だったのではないかと思うほど、スタジアム周辺には暑く眩しい日差しが降り注いでいた。
それは一五時になっても何ら変わることなく、ライリスに入っている晴明を間接的に苛む。
とはいえ、大勢のファンやサポーター、琉球のえんじ色のユニフォームも少なくない、を目の当たりにすれば、弱った姿なんて見せられない。
筒井に手を引かれながら、晴明は空いているほうの手をサポーターに向けて振った。シーズンが始まって半年が経つというのに、毎回新鮮なリアクションを返してくれる。
それは晴明にとって、ありがたいという言葉では言い切ることができず、グリーティングを乗り切れるだけの活力を与えていた。
晴明たちがスタジアムに到着したころには、既に鬼平は椅子に座って待っていて、会議室に晴明たちが入るやいなや、人に慣れた犬みたいに、晴明たちのもとへと近寄ってきた。
佐貫と泊は別の現場に行っていて不在であることを伝えると、鬼平は少し残念がったものの、すぐに調子を戻して、引率の植田も含む六人と握手を交わしていた。
ぎゅっと手を握られ、晴明はその握力の強さに少し驚く。それだけジンベッチに入ることに、熱意を持っているのだと思うと、気はより引き締まった。
サポーターの前にたどり着くと、まずはカメラマンから集合写真を求められる。
晴明は鬼平と手をつなぐために、ジンベッチに向き直った。
ジンベッチはほかのマスコットとは違って、角が丸い長方形のフォルムをしている。白いお腹と背中に浮かぶ藍色の水玉模様は、モデルとなったジンベエザメそのものだ。
ライリスの右手とジンベッチの左手が握られると、小さなどよめきと、カメラのフラッシュ音が聞こえた。
ピオニンとカァイブも参加して、四人は横一列になり、腹の高さまで手を持ち上げた。友好的を地で行く光景に多くの人間がカメラを構えている。
いくつものレンズが自分たちに向けられることに、晴明は少なからず慣れてきていた。
ファンやサポーターとの個別のグリーティングに移ってからも、晴明は大きくわかりやすい動作と、丁寧な対応を心がけた。
試合の三時間前に来ているような熱心なファンやサポーターは、多くが顔ぶれが固定されている。
だから、一方的ではあるが顔なじみの人間と接することは、晴明の胸にまた来てくれたという安心感をもたらす。疲労もいくらか軽減される。
また、遠路はるばる沖縄から来たであろうサポーターを迎えていると、暑く暗い着ぐるみの中でも、晴明の口角は自然と持ち上げられた。
ちんすこうやサーターアンダギーを贈られ、琉球弁で話しかけられる。ニュアンスから意味を察して、手を差し出すと、相手もライリスの手を握って、弾けるような笑顔を向けてくれた。
一年に一度しか会えない相手に、悔いが残らないよう晴明は全力でグリーティングをした。それが今自分にできる唯一のことだった。
グリーティングは進み、肌感覚で終盤に差しかかったのが分かった頃、ライリスの目の前にようやく由香里と莉奈が現れた。
いつもはグリーティングの開始時間には、スタジアムについているのに、どうしたのだろうか。もしかして、キックオフの時間を間違えたとか?
由香里は変わらず握手をしたり、ライリスに声をかけていたが、一方の莉奈は俯くとまではいかずとも、目に生気が欠けているように晴明には思われた。口では笑っているものの、心の底からは笑えていないような。やはり何かがあったのだろうか。
心配する晴明の思いは、莉奈に届くはずもない。ツーショット写真を撮るときに腰に回された手が、記憶していたよりも小さくて、晴明は少し感傷的な気分になった。
だが、二人がライリスのもとから離れたタイミングを見計らって、ジンベッチが近づいてきたので、晴明は立ち止まってはいられない。
打ち合わせていた通り、身振り手振りで会話をするライリスとジンベッチ。もう少しでグリーティングも終わるから、残っている力を駆使して晴明は身体を動かして、ライリスを演じる。
ジンベッチのヒレのように小さい手をテキパキと操る姿は、晴明に溌剌とした印象を与えた。鬼平は疲れを感じていないのだろうかと思うほど、ジンベッチはグリーティングの終盤になっても、明るく元気だった。
ライリスはジンベッチの腰に手を回して、最後にもう一度だけシャッターチャンスを作る。
ピオニンとカァイブも二人に寄り添うように近づいてきて、長くなり始めた日陰にシャッター音がいくつも鳴り響く。
晴明は由香里と莉菜に視線を向けた。スマートフォンを掲げる莉菜の目は、やはりどこか落ちこんでいるように晴明には見えた。
(続く)




