【第69話】志望校決めたんですよね
晴明たちが館山リスタディに戻ると、玄関をくぐる前からカレーの匂いが漂ってきた。時刻は七時を回って、夕食にはちょうどいい頃合いだ。
大広間に行くと、既に移動式のテーブルが六つくっつけられている。中央には二つのボウルに山盛りのサラダが盛られ、人数分の小皿といくつかのドレッシングが用意されていた。
椅子に座って待っていた料理担当の四人が、晴明たちを見かけて、ぞろぞろと席を立つ。自分は何もしていないのに、桜子に「ハルもありがとね」と言われて、晴明の身体はまたひとつ火照った。
晴明たち三人が洗濯した衣服を部屋に持って帰り、再び大広間に戻ると、既にテーブルの上には人数分のカレーライスが用意されていた。
野菜が大きめに切られ、ルーは思っていたよりも黄色い。数種類のルーを混ぜ合わせたカレーは、エスニックな香りを放って、晴明の食欲を刺激した。
昼間とは違い、テーブルは長方形に並べられていたので、晴明の正面には渡が、隣には桜子が座った。
「では、いただきます」
『いただきます』
五十鈴のかけ声で食事は開始される。
晴明はすぐにカレーを口に運ぼうとしたが、隣の桜子は先輩たちにサラダを取り分けていて、晴明は浅慮な自分を恥ずかしく思った。
桜子に取り分けてもらったサラダを前にして、晴明は改めてカレーを口に運ぶ。とろけるような甘さと、パンチの効いた辛味が絶妙にマッチしていて、みんなで食べるというシチュエーションも合わさり、驚くほど美味しく感じられた。思わず口角が上がってしまう。
「よかった。気に入ってくれたみたいで。カレーは誰が作っても失敗はないっていうけど、ハルが美味しそうに食べてくれて嬉しいよ」
歯の浮くようなセリフを、何の衒いもなく口にできる桜子に、晴明は気恥ずかしくなってしまう。コップに注がれていた緑茶を口にして、顔が赤くなることをごまかした。
正面にいる渡も頬は緩んでいるけれど、スプーンを運ぶ手がどこかぎこちない。夕食後の台本の読み合わせに緊張しているようだった。
「そういえば、成先輩。この話ってしていいんでしたっけ?」
桜子がカレーを食べながら、正面に座る成に話を振る。成もすぐに何の話か分かったのか、「ああ、いいよいいよ」と米粒がついた口で答えていた。
カレーを作っている間にでも話したのだろうか。桜子の次の言葉を、晴明は耳を傾けて待った。
「成先輩、もう志望校決めたんですよね」
てっきり部活の話と思っていて構えていた晴明は、想定外の話に思わず面喰った。まだ受験までには一年以上あるというのに、早くはないだろうか。渡の横顔も驚いている。
だけれど、成は二人の信じられないという思いをよそに、にっこりと笑ってみせた。
「別にそんな驚くことじゃないよ。私一応二年だよ? この時期に志望校決めてたって何もおかしくないでしょ」
「で、どこ受けるんですか」
「千葉弥生大学」
その名前は晴明でさえも、すぐに分かる。食事に集中していた芽吹が「お前、弥生大受けんの!?」と聞いてしまうぐらいには、この地域では有名な大学だ。
国公立大学で偏差値は千葉県でも随一。学生数も群を抜く、まさしく千葉県一の大学である。
「えっ!? 南風原大丈夫かよ? 相当勉強しないと行けねぇんじゃねぇのか?」と聞く渡に、晴明も同感だった。
一学期の模試で、成はあまり良い判定を受けなかったはずだ。どの大学を書いたのかは知らないが、それが事実なら、おそらく成の成績はずば抜けて良くはない。
「まあ、ちょっと行きたい学部があってね。これからバリバリ勉強してがんばるつもり。あっ、でも部活もちゃんと続けるから心配しなくていいよ」
茨の道が待っているだろうに、早々と自らの進路を決めた成が、晴明には途端に頼もしく見えた。自分のことを考えると、不安な思いにも駆られる。
だけれど、朗らかに会話に花を咲かせている食卓にいると、不安も些細なことのように思える。
晴明は時折会話に参加しながら、カレーを食べ続けた。
快適な食事だったが、一番遠いところにいる勝呂がまた笑顔を見せていないことが、心の奥底で引っかかった。
後片付けは、先ほど洗濯に行った三人が担当した。皿を洗い、鍋に洗剤を入れた水を浸す。
レストランのバックヤードみたいな業務用の厨房は、晴明には未知の世界だったが、その非日常加減に少しだけ気分が高揚した。
泊が鼻歌なんて歌いながら、皿を洗っているから、どれだけこの合宿を楽しんでいるのかは、晴明には手に取るように分かった。
晴明たちが大広間に戻ると、机は昼食のときと同じ、コの字型に並び替えられていた。
中央に泊と桜子が座る。おそらくは演出家と脚本家という役割なのだろう。
晴明たち他の部員も適当な席を選んで座った。
なりゆきで晴明は、今度は勝呂の隣に座ることになってしまった。腕を組んで品定めするような視線を、勝呂は部員たちに向けている。緩衝材がない分気まずく感じられて、練習どころではなさそうだった。
泊から二〇ページほどの台本が配られる。表紙に「Sunny Bunny」と印刷されていて、晴明はタイトルをはじめて知った。
おそるおそる勝呂にも渡す。勝呂は軽く頭を下げただけで、特に礼の言葉は言わず、晴明はまだ自分たちが認められていないことを察する。
「それでは、夜練。台本の読み合わせを始めたいと思います。よろしくお願いします」
泊の改まった挨拶に、他の部員も続く。劇の練習は泊主導で行われるらしい。
「では、早速ですが、台本の二ページ目を開いてください。配役や担当を発表したいと思います」
言われるがまま晴明たちは、台本を捲った。整った文字が印刷されていて、その中には晴明の名前もしっかりと記されている。
「主演、ウサギのジョシュア役、佐貫陽輔」
名指された佐貫は、自然と立ち上がった。模範を示すように、深く礼をしていている。
桜子が拍手をして、全員が続いた。重なる拍手は、佐貫を足元から照らすライトのように晴明には思えた。
「続いて、クマのルーカス役、渡真仁」
椅子を引いて立ち上がった渡は、三方向に頭を下げている。短いお辞儀に、渡が感じるプレッシャーを晴明は思った。
「そして、キツネのミヒャエル役、似鳥晴明」
名前を呼ばれて、晴明の返事は上ずってしまう。だけれど、誰も茶化す者はおらず、優しい拍手で晴明を迎えてくれた。
渡を見習って、周りに小さくお辞儀をする晴明。勝呂も小さく拍手自体はしてくれていた。
「以上が、キャストになります。では、ここからはスタッフの発表になります。ステージに立つことはありませんが、劇を成功させるにはなくてはならない仕事ばかりなので、モチベーションを落とすことなく臨んでください。では、まず演出と、主人公ジョシュアの声。そしてナレーションは私、泊詩音が務めます」
今回の劇は着ぐるみの動きに合わせて、バックヤードから声を当てるという方式で行われる。二人の呼吸がどれだけ合うかが生命線だ。
その意味では、三年間を共にしている佐貫と泊のペアは最適解と言えた。
「続いて、ルーカスとミヒャエルの声、芽吹圭太」
芽吹が立ち上がると、反対側の島にいても、やはりそこはかとない迫力を晴明は感じてしまう。
一人二役には驚きもしたが、人数が足りていないので仕方がないだろう。芽吹が上手く演じ分けてくれることに期待するしかない。
「続いて、脚本兼音響。文月桜子」
動きに生で声を当てるのだから、音響はこの劇の鍵を握っていると言える。脚本を書いた桜子なら、どういった音楽を挿入するかイメージが出来ているという、泊の判断だろうか。
晴明は拍手で、任せるというメッセージを送った。
「最後に、舞台監督兼照明。南風原成」
成はこのなかで唯一の演劇経験者である。晴明には舞台監督の仕事はよく分からないが、監督とつくからには責任のある役職なのだろう。
成も「はい!」と高らかに返事をしている。その横顔は緊張よりも、期待に胸を膨らませているように晴明には見えた。
「そして、大道具や小道具など、劇に必要なものは全員で準備します。演技に疑問があったら私に、舞台関係の疑問は成に相談するようにしてください。みんなで力を合わせて、いい着ぐるみ劇を作りましょう」
『はい!』
部員たちの声が揃い、植田と五十鈴もつつましい笑みを浮かべる。
それは晴明に計り知れない安心感をもたらした。不安もあるけれど、このメンバーならなんとかなるという自信が湧いてくる。隣に座る勝呂の棘のある気配には、気がつかないふりをした。
最初に全員が一通り台本に目を通してから、読み合わせは始まった。全員が固唾を呑む中、泊の呼吸が晴明の席まで聞こえてくる。
『いつかの時代。どこかの場所。森には三匹の動物が暮らしていました』
泊はナレーションを言い終わると、ラララとハミングをしてみせた。クリアな高音が押し黙った大広間に響く。
台本には「ジョシュアが歌っている」としか書かれていない。
歌詞はまだ決まっていないのか、それとも本番もハミングで行くのか、晴明は読み合わせが終わってから尋ねてみようと考えた。
『こんにちは、ジョシュア。今日も元気に歌っているね』
芽吹の声は普段よりも低く、クマの巨体を表現しているように晴明には思われた。だけれど、威圧感は感じない穏やかな声だ。
晴明たちが体育館で練習している間、打ち合わせていたのだろう。芽吹のセリフは早くも板についていた。
『こんにちは、ルーカス、ミヒャエル。歌うのって気持ちいいよ。あなたたちも一緒に歌ってみない?』
『僕はいいよ。ちょっと恥ずかしい。それより、ジョシュア。明日は街に出て歌うんだろ? 緊張しているかい?』
芽吹は今度は気持ち高めの声を出して、キャラクターの違いを表現している。
本番はここに晴明のジェスチャーが加わるのだ。息が合うように、今からしっかりと確認しておかなければと、晴明は耳を凝らした。
『ううん。ドキドキはしているけれど、どんな楽しいことが起きるんだろうっていうドキドキよ。今からたくさんのお客さんの前で歌うのが楽しみで仕方ないの。ルーカスとミヒャエルも一緒に来ない?』
『僕はいいかな。動物がたくさんいるところって苦手だし、少し怖い。ミヒャエルと一緒に行ってきてよ』
『ああ、任せといて。俺は何と言っても街の生まれだからね。あそこは僕の庭みたいなものさ』
『ありがとう、ミヒャエル。私、街に行くのははじめてだから、頼りにしているね』
ページを捲る音とともに、読み合わせは進んでいく。誰もが真剣に聞いていて、劇への意気込みをうかがわせる。
晴明の隣に座る成は、読み合わせを聞きながらでも、シャープペンシルを動かしている。
自分も何か書かなければと思ったが、今はセリフを頭に入れて、動きを模索することで精一杯だった。
読み合わせはきっかり二〇分で終わった。着ぐるみに入った状態でスタンバイする時間も考えると、これ以上は体力的に厳しいという間際まで、桜子の書いた脚本は詰めこまれていた。
泊が最後のセリフを口にすると、大広間の空気はふっと和らぐ。
喋り通しだった泊や芽吹はもちろん、全員が同じタイミングで水分補給をしていて、その集中のほどを晴明に思わせる。
「では、第一回の読み合わせが終了したわけですが、何か感想のある方はいらっしゃいますか?」
晴明は歌の件を質問しようと、手を上げようとする。だが、先に隣の勝呂が動いたのが気配で分かった。積極的な姿勢に誰もが戸惑いを隠せていない。
泊に当てられて、勝呂は立ち上がることもなく言い放つ。
「これは、今はじめて聞いた人間の意見ですが、いささか子供向けすぎませんか? 小学生が学芸会でやるような劇のように私には思えました」
「子供向けって。私たちまだ子供ですよ」
勝呂が指摘してすぐ成がそう呟くから、空気は一瞬にしてひりつき始める。間に挟まれた晴明は仲裁することもできずに、おどおどするしかない。
「あなたたちはもう高校生じゃないですか。あと数年もすれば大人になるんですよ。この劇を見に来るのは誰だと思いますか? 同級生やあなたの親御さんたちですよ。その方々に、こんな幼稚な劇を見せていいんですか?」
「幼稚って。フミは今回、はじめて脚本を書いたんですよ? もう少し労ってくれてもいいんじゃないですか?」
「どんな名作でも、はじめて書いた脚本でも、舞台の上では同じことです。初脚本の拙さは、お客さんには何の言い訳にもなりません。もっと学生向けの戯曲集から自分たちができそうな台本を選んで、アレンジして上演してみてはどうですか?」
対案を出してくるから、勝呂は劇のことを真剣に考えてくれているらしい。
だが、それは何ら成を納得させる材料にはならず、机に手をついて立ち上がったから、晴明は慄いてしまう。
見下ろす目は何かを訴えかけようとしていたけれど、口を開く前に隣に座っていた佐貫がすぐに宥めていた。「南風原、落ち着けよ」の声は効果てきめんだったらしく、成は再び腰を下ろす。
しぶしぶ発せられた「すみません」に、勝呂は眉一つ動かしていない。晴明は明日の夜練では、誰かに席を替わってもらおうと心から思った。
「勝呂さん、ご指摘ありがとうございます。ですが、時間の関係もありますし、文月にも経験を積ませたい。もちろん改稿してブラッシュアップはしていきますが、基本的には文月の脚本をもとに演じたいと私たちは考えています。どうかご理解いただけないでしょうか」
場を収めようとする泊に、成が頷く。きっと桜子が悪戦苦闘しているのを、側で見てきたのだろう。冷静な声色に熱がこもっていた。
「分かりました。そういうことならしょうがないですね」
しょうがないという言葉を選ぶあたり、勝呂がまだ納得していないのは明らかだったが、これ以上蒸し返したくないという雰囲気もあり、誰も反論することはなかった。
自分たちに愛想を尽かしていないことを晴明は願う。見切りをつけられてはいないと思いたかった。
「では、他に何か感想がある方はいらっしゃいますか?」
再び泊が問う。大広間には手を挙げることをためらうような空気が流れていた。晴明もしばし迷う。
だが、佐貫が手を挙げていたので、後に続くことができると感じた。
(続く)




