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【第70話】笑わない?



 二二時を過ぎて、道路にほとんど車通りはなくなった。空気は少しも涼しくならず、肌に絡みつく。


 さざ波さえの音さえ聞こえてきそうな静寂の中を、晴明はひたすらに歩いていた。前を歩く佐貫の背中が、やたらと大きく感じられる。


 夜練は二二時よりも少し早く終わり、二三時の消灯まで、部員たちには自由時間が与えられた。


 翌日に向けて、体を休めるもよし。消灯まで話をするのもよし。


 だが、晴明はまだ学校の課題が終わっていなかった。布団も敷かず、部屋のテーブルの上に課題を開く。


 勉強道具を持ってきたのは佐貫も同じで、二人は斜向かいに座って勉強を始めた。


 しかし、始まって五分も経たないうちに、佐貫が「あーダメだ」と言って身体を伸ばす。


「似鳥さ、コインランドリーの横にコンビニあったらしいじゃん。そこ行って、アイスでも食わね?」


 唐突な提案に晴明は、最初は驚いたが、すぐに同意した。晴明も眠気がひどく、勉強に集中できなかったからだ。火照っている体を冷やしたいという思いもある。


 勉強道具を片付け、部屋を後にする二人。


 大広間には五十鈴と植田がいたが、佐貫が用件を説明すると、意外なほど簡単に許可が得られた。自由時間は本当に自由だった。


 しばらく歩くと、コインランドリーとコンビニエンスストアの明かりが、はっきりと晴明たちの目に入ってくる。重たい足を何とか前に運び、店内に入るとご褒美みたいな冷房の風が晴明たちを癒やした。


 どうやらアイスクリームコーナーが、店内中ほどにあるタイプの店らしい。


 しかし、向かおうとするとすぐに晴明の目には、棚から少し飛び出す頭のてっぺんが見えた。店内放送にもまぎれず、声も届いている。


 あの二人がいることに、晴明は瞬時に気がついた。


 そして、アイスクリームコーナーまで行ってみると案の定、そこには泊と桜子がいた。桜子の手には既にペットボトルの炭酸飲料が握られている。


 前を歩く姿も見えなかったし、玄関が開いた音も聞こえなかったのに、一体二人はいつここに到着したのだろう。


 佐貫が声をかけたので、二人も晴明たちに気がつく。実にあっさりとした反応をされて、晴明は泊や桜子も疲れていることを知った。


「南風原はいねぇの?」


「ああ、成なら疲れて寝ちゃった。まあ、あれだけ張り切ってたんだから仕方ないよね。それより佐貫たちも何か買いに来たの?」


「勉強しようとはしたんだけど、集中できなくてな。アイスでも食べて気を紛らわそうって話になった」


 「なぁ」と佐貫が聞いてきたので、晴明は首を縦に振る。


「そう。佐貫は偉いね。私たちなんて、勉強道具一つも持ってきてないもん」


 「ねぇ、フミ?」と泊の声に桜子が頷いている。晴明にはそれが少し意外に思えた。


 課題を終えている桜子はともかく、泊だって受験生のはずだ。合宿に勉強を持ちこみたくないのだろうか。


 晴明のかすかな疑念もよそに、桜子は「これなんてどうかですか」とカップアイスを手に取っている。泊は「それ、ちょっと高くない?」とつっこんでいて、自然とアイスクリームを選ぶ雰囲気ができあがっていた。


 晴明も佐貫と一緒に、棚に視線を落とす。道中で「俺が奢ったげるから」と言われていたけれど、晴明はそこまで高いアイスクリームを選ぼうとは思えなかった。


 結局、四人は棒アイスを買った。同じ銘柄。異なる味。晴明と桜子はソーダ味で、佐貫と泊はコーラ味だ。


 コンビニエンスストアの外に出ると、入る前と寸分違わぬ蒸し暑い熱気が晴明たちを包んだ。店内の明かりをバックに四人は横一列に並ぶ。


 佐貫に礼を言ってから、アイスクリームを口に入れると、求めていた通りの冷たさが晴明にもたらされた。爽やかなソーダの味は、すぐに溶けでも、まだ口の中に残っていた。


「フミさ、さっきも言ったけど、勝呂さんが言ったこと気にする必要ないからね。私はフミが書いた脚本、面白いと思ってるから」


 一口食べて、さっそく泊は口にしていた。「さっきも」ということは、道中でもフォローを入れていたのだろう。


 泊の気遣いに、桜子もさほど深刻めいた表情はしていなかった。強い明かりに横から照らされて、ショックからすっかり回復したように晴明には見える。


「佐貫たちもそう思うよね?」


 またアイスクリームを一口かじって、泊は顔を晴明たちの方へ向けていた。


「ああ。俺も勝呂さんが言うほど幼稚じゃないと思う。むしろ大人にも届く話で、演じがいがあるなって思ったよ」


「似鳥は?」


「僕もそう思いました。ぜひ演じてみたいです」


 三人に肩を持たれて、桜子は完全に復活したらしい。礼を言う声にもハリが戻っていて、とりあえずは心配なさそうだと晴明は感じる。


 他愛もない話をしながら、四人はアイスクリームを食べ進める。コンビニエンスストアの周囲に人はいなかったから、晴明は自分たちが世界からぽっかりと浮かんでいるような感覚を味わった。


「泊さ、さっき勉強道具持ってきてないって言ってたじゃん。来年にはもう受験なのに、勉強しなくていいの?」


 くさびを打ち込むように佐貫が尋ねた。声で聞くと、違和感は無視できないほど大きくなる。


 だけれど、泊は少しも切羽詰まることなくアイスクリームを口に運んでいた。


「私も、それ気になってました。たしかとま先輩、一学期に進路聞いたときに『教えない!』って言ってましたよね。えっ? 本当はどこ行こうとしてるんですか?」


 湿った空気が足元から上昇して、浮遊感を漂わせている。もう来ないであろうコンビニエンスストアで、並んでアイスを食べている。現実なのに非日常にいるみたいな。


 泊が「笑わない?」とアイスクリームから口を離して言って、三人は口々に「笑わない」と答えた。どんな答えでも晴明は受け入れるつもりでいた。


「私ね、実は東京の方にある、映画の専門学校に行きたいと思ってるんだ」


 その言葉は晴明のどの想定とも違っていたから、すぐに返事をすることはできなかった。佐貫も桜子も唖然としている。


 溶けはじめたアイスクリームが一滴地面に滴った。


「やっぱびっくりするよね。何言ってんだこいつって感じだよね」


「そんなことないですよ。とても素敵な進路だと思います。私応援します」


 自虐的になりはじめた泊に、桜子がすかさずフォローを入れた。効果はあったようで、俯きかけていた泊は再び顔を上げている。


 顔が少し赤らんでいるのは暑さだけのせいではないと、晴明は感じた。


「入試はいつごろあるんだ?」


「早い人では九月からもう選考をしてるけど、願書は三月まで受けつけてるからじっくり考えるつもり。最近、カメラも買って、空いた時間に少しいじったりもしてるんだ」


「ってことはとま先輩、将来映画監督になりたいってことですよね。凄いじゃないですか! もしなれたら、私に声をかけてくださいね。喜んで出ますから」


「うん。フミは背も高くてカッコいいから、カメラ映えすると思う。入試の前にちょっと練習もしておきたいなって思ってるから、そのときはよろしくね」


「はい! 任せてください!」


 重くなりかけた空気が会話によって、軽妙なものに変わった。笑い合っている女子二人を見て、晴明は心配はいらないだろうと思う。


 四人は話しつつ、アイスクリームを食べ進めた。気づけば晴明のアイスクリームは、残り二口ほどで食べ終えてしまいそうだ。


 ふと隣を向くと、佐貫が残り一口となったアイスクリームを見つめていた。


「そっか。泊はもう自分の夢を見つけて、進んでるんだな」


 その口調が少し寂しそうで、晴明は思わず「どうしたんですか?」と尋ねる。「いや、なんでもない」と佐貫は答えていたけれど、自分と泊を比較していることは明らかだった。


「別に、この年でなりたいものややりたいことが、決まっている人の方が珍しいでしょ。皆これから迷いつつも見つけていくんだろうし」


「そうだな」


「佐貫はさ、進路どうするか決めてるの? どの大学行きたいとかあるの?」


 この期に及んで泊がそう聞くということは、二人は進路の話をしていないのだろうか。同じクラスにも関わらず。二人の仲を思うと、晴明にはそのことが少し不思議に感じられてしまった。


 佐貫は残りのアイスクリームを食べてから、おもむろに口にする。


「まだ決まってはいないんだけど、千葉弥生大学に行けたらなとは思ってるよ」


 のっぺりとした空気に一筋の風が吹いたような気が、晴明にはした。佐貫の学力は、晴明には分からない。


 だけれど、泊は閉口していないから、あながち突飛な目標でもないのだろう。


「なるほどね。佐貫は弥生大で何かやりたいことあんの?」


「いや、全然ない。行ってる間に見つけられたらなと思ってる」


 佐貫はアイスクリームを食べ終わったこともあって、手持ち無沙汰にしていた。成と同じ志望大学だとはすぐに気づいたものの、場にそぐわない気がして、晴明は言わなかった。


 意外だったのは、桜子もそれを指摘しなかったことだ。同じ大学を目指すことは、珍しくないと思ったのだろうか。泊と話しながら、残りのアイスクリームを口にしている。


 泊と桜子が二人の世界に入ってしまい、晴明は佐貫に何かを聞くこともできずに、残っていたアイスクリームを飲みこんだ。


 消灯時間までは、あと三〇分ほどに迫っていた。




 晴明たちが館山リスタディに戻ったとき、消灯時間まではあと一〇分もなかった。晴明と佐貫は机を片付け、布団を敷く。柔らかい布団の寝心地が、改めて非日常を晴明に思い起こさせる。隣に佐貫がいると緊張して寝られないのではという心配は大きなあくびがかき消した。


 それを見た佐貫が微笑みながら、話しかけてくる。


「どうだ? 今日一日疲れたか?」


 寝そべっているまま答えるのは失礼な気がして、晴明は起き上がった。「そこまでしなくていいのに」と佐貫の穏やかな表情が言っている。


「正直、疲れました。練習もハードだったし、勝呂さんにもいろいろ厳しいことを言われて、心身ともにくたくたです」


「そっか。じゃあコンビニ行かない方がよかったかな」


「いえ、そんなことないです。おごってもらったアイス美味しかったです」


「たかだか七〇円だけどな」


 そう言って、佐貫は体を起こす。晴明が寝たままでいいですよと言っても、聞いていなかった。


「これさ、誰にも言わないでくれる?」


 あからさまに声のボリュームを下げた佐貫に、晴明はただならぬ雰囲気を感じてしまう。自分の口の堅さを信じて、佐貫が言っているのはすぐに分かったから、晴明は決意を込めて力強く首を縦に振った。


「俺さ、まだ迷ってんだよね」


「弥生大に行くかどうかですか?」


 声を潜める二人。昼間の蝉はもう鳴いていない。


「いや、大学に行くかどうか」


 一瞬口を結ぶ佐貫の表情が、晴明には深い葛藤を帯びているように感じられる。


「ほら、ウチの学校って大学行けって雰囲気あんじゃん。校長先生も入学式の挨拶で進学率をアピールしたりして。でも、大学に行くことが本当にいいことなのかって最近思うんだよな。周囲に流されてるだけなんじゃないかって」


 大学進学を是とする雰囲気は、晴明も入学してからずっと感じていた。今の自分はまだ答えを出さなくてもいいが、佐貫はそうもいかないのだろう。


 平気に振る舞っているが、その言葉は深刻に思え、晴明から言わなくてもいい言葉を引き出す。


「それは、佐貫先輩が一人暮らししてることと、何か関係があるんですか?」


 言葉を発した瞬間、全ての音が消えたかのような沈黙が、二人に降りた。


 佐貫はじっと晴明の顔を見ている。晴明は謝ろうとしたが、それより先に問い質す声が飛んでくる。


「それ、誰に聞いたの?」


「文月から聞きました。文月はたぶん泊先輩から聞いたんだと思います」


 名前を出すと桜子を売っているようで申し訳なかったが、他に晴明が取られる手段はない。


 おそるおそる口にすると、佐貫は一つため息をついた。


「まあいいや。皆知ってることだから。今さら似鳥に言われたってどうってことないよ」


 佐貫は笑ってみせる。だけれど、晴明は佐貫が何かを心の奥に押しやったように感じられた。


 スマートフォンが振動して、消灯時間であることを知らせる。「そろそろ寝よっか」と言って、佐貫は照明を消すために立ち上がろうとする。


 だが、晴明はまだ完全に納得できたとは言いがたかった。


「佐貫先輩ってどうして一人暮らししてるんですか?」


「別に距離的な問題だよ。俺実家が鴨川の方にあって、普通に通学しようとしたら二時間はかかるんだ。定期代もあるし、それなら学校の近くに部屋借りた方が早いよなって。そんだけだよ」


 佐貫の説明は、一応は晴明にも納得できるものだった。


 だけれど、それならなぜ佐貫は遠く離れた上総台を選んだのだろう。家から近い高校はあるだろうにどうして。


 だが、晴明が考えている間に照明は消され、隣の佐貫の顔すら見えなくなった。もう会話は終わったのだ。


 晴明は布団をかぶって、目を瞑るしかなかった。疲れがたまっていた分、すぐ眠りに落ちることができた。


 無意識の暗闇の中では、何も心配しないでいられた。



(続く)

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