【第44話】何が楽しくて
「はい、じゃあこれリストバンドね」
成、渡、芽吹の三人は泊から、青緑色の小さなリストバンドを受け取る。成が手首に巻くと、プラスチックの滑らかな感触が肌に触れて、少しゾッとした。
この音楽フェスティバルは、入場券としてリストバンドを巻くことになっている。チケットは既に完売したようだから、三人にとっては役得だ。
「もうあまり時間もないけど、今日しか使えないから、よかったら楽しんできて」
「とま先輩はもう帰るんですか?」
泊の手首には、どちらにもリストバンドが巻かれていなかった。既にスクールバッグを、肩にかけている。
「私はいいかな。これ以上いると電車混んじゃうし」
ドアの側では佐貫と五十鈴が、こちらを見て待っている。成は泊を誘おうとも思ったが、早く後にしろという会議室の空気もあり、口にすることは憚られた。
「そうですか。今日はお疲れ様でした。よいお年を」
「うん! よいお年を!」
三人が帰っていく。芽吹と渡の仕方なしの「お疲れ様でしたー」を背にして。二人は未だお互いの顔を、見ようとはしていない。
どちらにも近づくことができずに、成はやや離れたところから、二人に向かって話しかける。
「ほら、私たちもそろそろ行かないと」
もう今日の活動は済んだのだし、なるべく早く会議室を後にした方がいいだろう。二人はしぶしぶ立ち上がり、バッグを持って動き出す。
ドアをくぐったのを見届けると、成は部屋の電気を消した。誰もいなくなった部屋には三体のマリメーだけが残されて、どこか異様な雰囲気があった。
「ねぇ、どこ行こっか。私はアジカン見たいんだけど」
成は前を歩く二人に話しかけた。何事もなかったかのように、なるべく平気なふりを装って。
関係者通路の照明はやたら眩しく光っていて、外が夜になったことを思わせる。
「南風原、よくそんな元気あるな。マリメーの中に入って疲れてねぇの?」
振り返って答えたのは芽吹だった。前を見ているばかりの渡とは違って、意外そうな目をしている。
「だって、せっかくリストバンド貰ったんだし、行かなきゃもったいないでしょ。今年の締めはパーッと盛り上がろうよ」
成は本当は、終始気まずかった今日を、楽しい思いで終わらせたかった。
芽吹も「それもそうだな」とポケットからリストバンドを取り出して、手首に巻いている。小さな仕草が成には、思いのほか嬉しく感じた。
勢いでさらに前を歩く渡にも、話しかけてみる。
「ねぇ、渡も一緒に見ない?」
「いい。俺は一人で見る」
そう言って、歩くスピードを上げる渡。ホールへつながるドアを開けて、振り返ることなく立ち去っていく。
二人がホールに出たときには、渡の姿はもう人混みに紛れて見えなくなっていた。成はラインを送ろうと、スマートフォンを取り出したが、芽吹に即座に制される。
「やめとけよ」と一言呟いて、ポケットに両手を突っ込む芽吹。歩調を速めていて、成はおずおずとついていくしかなかった。
FAREWELL TO 2019で、一番大きいLAND STAGEでは既に多くの観客が、ライブの開始を待ちわびていた。成と芽吹が下手側の最後方に位置どっても、次から次へと人が押し寄せてくる。
高まる熱気に成は運動着を脱いで、長袖Tシャツ一枚になった。
ざっと見渡してみても、渡の姿は見つけられない。ただでさえ小柄な渡はちゃんとステージを見ることができるか、成は少し心配になった。
「南風原はさ、アジカン好きなの?」
時間を持て余した芽吹が聞いてくる。頭一つ高い視界には、ステージが余すことなく見えていることだろう。
「まあね。アルバムも大体持ってるし。ライブにも何回行ったことあるよ。芽吹はアジカンよく聞くの?」
「いや、全然。リライトぐらいしか知らない」
「なるほど。まあ一番有名だもんね」
「その程度かって軽蔑してる?」
「いや、全然。ここにいる人だって、みんながみんなアジカンに詳しいわけじゃないし。今日はリライトやればいいね」
照明がついたステージでは、スタッフが楽器の最終確認を行っている。芽吹は成の言葉に頷く代わりに、頭を掻いてみせた。
右手に巻かれているリストバンドは自分と同じもの。だけれど、手首が太い分強く巻かれていて、成ははたと黙ってしまう。
スマートフォンで時間を確認してから、成は芽吹を今一度見上げる。
「あのさ、別に責めてるわけじゃないんだけど、教えてくれる? 今日どうして遅れてきたの?」
質問に、芽吹は口元を歪ませた。視線はステージに掲げられた幕に向いている。ぶらんと垂れ下がった手には、何の力もこもっていない。
「南風原の想像通りだよ」
「……動画?」
ラインがつながらなかったときから、薄々感づいてはいた。だけれど、いざ言葉にしてみると、重くのしかかってくるようだ。
芽吹はもう一度頭を掻いた。長い髪の毛が、一本肩に落ちる。
「編集ってすげぇ時間かかるんだよな。たった三分の動画でも、八時間とかは普通にかかるし。昨日終わったのが大体夜の四時ぐらいで、ちょっと休もうって思ってたら、寝坊しちまった。迷惑かけて本当にごめん」
「いいよ、別に。次から直してくれれば」
これから始まるライブにわだかまりは持ち込みたくない。納得のいっていない心に嘘をついて、成は許す言葉を口にした。
しばらく黙っていれば、自動的に開演するだろう。
二人は口を閉ざす。一秒が何倍にも引き延ばされたように、成は感じた。
「怒らないんだ」
頭上から降ってきた言葉が、成の心の柔らかい部分に触れる。返事に棘がこめられてしまう。
「怒ってほしいの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、なんか素っ気ないように思えたから」
「だって、頭ごなしに叱ったらあまりいい気しないじゃん。お互いに」
「そうだな」
呟く芽吹の表情に漂うかすかな無念さを、成は感じ取る。二人の間だけ、空気の色が違うようにすら思えた。
「あまり一人で抱え込まないでさ、私にできることがあったら何でも言ってね」
成が言葉を結んだ瞬間、ステージの照明が消え、会場には落ち着いた洋楽が流れ始めた。あちらこちらから一気に歓声が上がり、芽吹の返事を掻き消す。あまりにも小さく呟かれたので、唇の動きから言葉を読み取ることは成にはできなかった。
バンドメンバーが登場すると、盛大な拍手が会場全体を包み込む。二人もおのずと手を叩いた。
成は楽しもうと構えたけれど、心が体に追いついていなかった。
ライブが終わって、三人は出口で待ち合わせをした。成が送ったラインに渡は返信をしなかったが、壁に寄りかかり、腕を組みながら待ってくれていた。駅までは一緒に行ってくれるらしい。
暗い空に煌々と落ちた明かりに沿って、三人はデッキを歩いていく。海の方から吹く風が寒さを運んできて、成は体を縮こまらせた。
前を歩く渡と芽吹はお互いを見ることもなく、ひたすらに足を動かしている。揃わない足音が、不協和音のように成には聞こえていた。
駅の構内に差しかかって、三人は落胆する。
改札の向こうには人がごった返していて、ホームへ向かう階段からは入場規制がかかっているのか、メガホンを通して警備員が呼びかける声が、しきりに聞こえてくる。満杯の湯船のようで、一本や二本では帰られないことは、簡単に予想がついた。
想像以上の混雑具合に、成は呆気にとられてしまう。横を見ると、二人も立ち尽くしていた。
「どうする? 中入って電車来るの待ってよっか?」
そうは言っても改札の向こうは、すし詰め状態だ。人々の話し声が飛び交う空間では、余韻もあったものではない。
渡の渋い横顔は、おしくらまんじゅうを歓迎していない。
「それとも、どっかでご飯食べてホームが空くまで待ってる?」
「どっかってどこだよ」
芽吹が改札の向こうを眺めながら口にした。人が動く気配はない。
「それは駅前なんだから色々あるでしょ。お昼から何も食べてないから、二人ともお腹空いてるでしょ?」
先に渡が頷き、その様子を見た芽吹が続いて頷いた。立って待つには、自分たちは疲れすぎている。
「決まりだね。じゃあ行こっか」
今度は成を先頭に三人は、また歩き出した。北口は駅構内よりはがらんとしていて、その分、寒風が成に年の暮れを感じさせる。
少し歩くと、見覚えのある黄緑と赤の明かりが目に入る。安さで人気のファミリーレストランだ。
二階のデッキには、既に何人かが寄りかかっていたが、成は思い切って「あそこにしよう」と告げる。二人とも同意してくれたので、成は脇目も振らず、その建物へと向かった。
店内はやはり人でごった返していて、座るところは当然なかった。名簿に名前を書いたはいいが、まだ前に一五組ほどいる。寒空のもと、長時間待つことを覚悟しなければなさそうだ。
成は再び外に出て、二人にその旨を伝える。芽吹は少し迷った後に待つと言ってくれたが、渡は何も言わずにデッキにもたれかかって、駅前を見下ろした。すぐに帰る気は見られず、成は渡の行動をYESと解釈した。
芽吹がデッキに寄りかかる。渡とは不自然な距離が開いている。人一人分は優に入れそうなスペースに、成は思いきって割りこんだ。
二人を無視する勇気も出ず、思わず切り出してしまう。
「今日のアジカンさ、良かったよね」
どちらを向けばいいか分からなかったから、成はガラス窓を見て言葉を放った。ブラインドが下ろされていて、中の様子は分からない。
「リライトしか分かんなかったけど、楽しかった。特に二番目の曲が好きだったな」
「Re:Re:ね。リライトと同じアルバムに入ってる。よかったら、今度貸そっか?」
「ああ頼むわ」
音楽の趣味が近づけば、今よりも話しやすくなるだろう。成は芽吹と共通の話題が増えることを、嬉しく思った
「渡はさ、どこのステージ行ってたの?」
渡の右手首にはまだリストバンドが巻かれている。
「俺もアジカン見てたよ」
「そうなんだ。どの辺にいたの?」
「ギターの方だよ。後ろだったからあんまステージ見えなかったけど」
確かに成でさえ、ステージは見えづらかったのだから、より小柄な渡にはなおさらだろう。疲れていただろうに、無理してつま先立ちを続けていたに違いない。
成の心には、同情が芽生えた。だけれど、今の渡に「大変だったね」という言葉は、適切でないように思われる。
結果、成の口をついたのは、いつでも聞くことのできる質問だった。
「渡はさ、普段どんな音楽聞いてんの? ほら私たち意外とこういう話したことないじゃん」
何を聞いても渡の表情は変わらない。話題に興味を持っていないように、成には思われる。
「別に普通だよ。マカロニえんぴつとか、Shiggy Jr.とか。あとSUPER BEAVERもよく聞くな」
「へ、へぇ」と相槌を打ったものの、成にはいずれのバンドにも聞き覚えがなかった。芽吹に尋ねてみても、首を振っている。
渡の知らない一面を見た気がして、成は素直に感嘆を口にした。
「す、凄いね。私も今度聞いてみたい。よかったらさ、これからも時々教えてくれないかな」
「別にこのくらい誰でも知ってるよ。ネットにミュージックビデオがあるから、帰ったら聞いてみれば?」
「う、うん。そうする」と成が答えた途端、三人とも話題をなくして黙ってしまった。駅前は無音ではないのに、三人の周囲には奇妙な静寂がたゆたう。
ドアが開いて、ようやく一組のカップルが店内から出てきた。まだまだ先は長い。
「圭太さ」
呟いたのは渡だった。視線も口もしっかりと芽吹のもとを向いている。成は言葉を挟むことができない。芽吹も顔を渡に向けた。
二人が対面するのを、成はこの日はじめて見る。
「今、フォロワー何人いんだっけ?」
「それって俺? 黒崎? どっち?」
「さあ、どっちだろうな」
渡の目の奥に、黒ずんだものを成は感じる。夜よりも黒い何かを。
「俺は九八人だけど、黒崎は六万人くらいだな」
「六一七八三人の間違いだろ。謙遜してんじゃねぇよ」
虚を突かれたように、芽吹は口を閉ざしてしまう。渡はいったいいつ、黒崎ダイアの正確なフォロワー数を把握したのだろう。
「で、どうだよ? 大勢の注目を浴びる気分は?」
「ああ気持ちいいよ、とでも言ってほしいのか? あいにく、現実はお前が思っているほど良いもんじゃねぇよ。そりゃ確かに有名になったことでできることも増えたけれど、今は動画を投稿すると否定的なコメントもいくつか来るからな。あそこが違うとかここが違うとか、知ったような口利いて。こっちは書道を全く知らない人に向けてやってんだから、評論家ぶってごちゃごちゃ言ってくんなって毎回思うよ」
「でも、何の反応もないよりはマシだろ」
「お前、何が言いたいんだよ」
芽吹の穏やかでない言葉に、渡はデッキにもたれかかるのをやめて、身体ごと芽吹の方を向く。半分だけ照らされた口がゆっくりと動いた。
「お前、本当はもう部活なんてやる気ねぇんだろ」
放たれた言葉が芽吹の喉元に、突きつけられる。人一人殺しかねない言葉に思えた成は、思わず渡を睨む。だけれど、渡は怖じ気づく様子は全く見られない。
だったらと、成は渡のもとへと踏み出す。だが、背後からの「やめろよ」という声が成にブレーキをかけた。
三人が動きを止めると、店内の談笑が克明に響く。吹く風が氷柱のように冷たい。
「なかったら、ここに来てねぇよ」
芽吹の返答はトーンが低く、どうにか絞り出しているように成には思える。
「どうだか。惰性で来てるんじゃねぇの。本当のことを言って、怒られるのが嫌なんだろ」
「本当のことってなんだよ」
「もうスーツアクターに対する興味を失くしましたってこと。そりゃそうだ。だって今お前がやってんのは裏方の裏方だもんな。誰にも顧みられない。黒崎ダイアで注目される喜びを知っちまったから、今やってることが、虚しくて仕方がねぇんだろ」
「お前に何が分かんだよ」
「否定しねぇんだな」
渡と芽吹は成をよそに睨み合いを続けている。まるで視線を外した方が、負けだと言わんばかりに。
だけれど、この言い争いに勝者なんて存在しない。だから、傷がこれ以上深くなることは避けなければならない。
成は再び、二人の間に割りこんだ。
「ちょっと、二人ともやめなよ。喧嘩なんかしたってどうにもならないでしょ」
「別にどうにかしたいわけじゃねぇよ。ただ我慢の限界だってだけ」
成の仲裁にも渡は全く釣れない。ただ、ポケットに手を突っ込んで、果たし眼を向けているだけだ。
「だからって、もっと優しい言い方できないの? そこまできつく言うことないじゃん」
無視。反感の表明。取り付く島もない。成は芽吹に体を向けた。
芽吹もカビを見るような目で、渡を見下ろしている。
「芽吹、とりあえずここは謝っときなよ。ギスギスしたまま部活したくないでしょ」
「とりあえずって何だよ。謝ったら許してくれんのかよ」
「なに意固地になってんの。これから直しますって言うだけでしょ」
「やっぱりお前も、俺が悪いと思ってんだな」
吐き捨てるような口調に、成は答える言葉を見つけられない。一歩たじろぐと、すぐに渡の険悪な視線に当てられる。今は辛うじて均衡がとれているが、少しでも触れると、おおげさに崩れてしまいそうだ。
視線のやり場がない。成は目線を下げることしかできなかった。
「お前、何が楽しくて部活やってんだよ」
均衡を破ったのは渡だった。こめられた悪意を、成は敏感に感じ取る。
芽吹は拳を握った。乾燥した肌は、今にもひび割れそうに成には見えた。
「本当、何が楽しかったんだろうな」
その言葉を最後に、芽吹は踵を返して、階段へと歩き出してしまう。大きな影は夜よりも、一段と黒い。
成は追いかけようとした。だけれど、またしても後ろから言葉で刺される。
「お前、どっちの味方なんだよ」
電源を切られたみたいに、成は急に動けなくなる。芽吹が階段を下りていくのを、瞳はただ映していた。
芽吹の姿が見えなくなってもしばらく動けず、立ち尽くす。
力を振り絞って振り向くと、渡が階段とは反対方向に歩き出していた。
「ちょっと、そっちは駅とは逆方向だけど」
「分かってるよ。でも、もう飯食う気なくなったから」
「これからどうすんの」
「適当に時間潰すよ。終電になるぐらいには駅も空いてんだろ」
そう言って、渡は去っていってしまった。成は追いかけることはしなかった。追いかけても結果は変わらないと、悟ってしまったからだ。
一人取り残された成は、デッキに寄りかかって、ぼんやりと店内を見つめる。こぼれてくる光は不気味なほどに暖かく、聞こえてくる話し声はゾッとするほど、きらめいていた。息を吸うと、凍てつく空気が肺に入りこむ。
閉店時間までに名前を呼ばれることはなさそうだと、ふと感じた。
(続く)




