【第45話】いるだけでいいから
教室のドアをくぐると飛び交う挨拶が、新年を迎えたことを成に、一週間遅れで実感させた。上総台は二年になると文理にクラスが分かれる。進路選択が迫っているからか、談笑もどこかぎこちない。
一六才は気楽なようで、見えない手に首根っこを掴まれている。
「ちょっと、南風原さん。何ボーっとしてんの」
手塚の声で、成は我に返る。弁当の中身は、それほど減っていなかった。根岸が紙パックのカフェオレを飲みながら、成に心配そうな眼差しを向けている。
気を遣われていることに気づいて、成はごまかすように笑ってみせた。
「ごめん、ごめん。何の話だったっけ」
「かおるんが正月、彼氏と一緒に代々木体育館に、超特急のライブを観に行った話でしょ」
「ああ、そうだったね。で、どうだったの? 楽しかった?」
「楽しいなんてもんじゃないよ! もう本当に興奮したんだから! 前の方の列だったから、もう何度も目が合っちゃって! もうここで死んでもいいなって思った!」
「いいなー、私も行こうと思ってたんだよね。でも、チケットが取れなくて。あんなに大きいキャパなのに凄いよね」
「あーちゃん、8きっぷ入ってないの!? チケット取りたいなら絶対入ったほうがいいよ!」
「うん、今度ね。で、どんな曲やったの?」
「Burn! とかSecret ExpressとかKiss Me Babyとかやってた! あとアンコールのラストにアバンチュールやってくれたのは、泣きそうになっちゃった!」
「えっ、それ最高じゃん。いいなー、私も行きたかったなー」
「でしょ! 今度機会があったら、絶対に行くべきだよ!」
成そっちのけで、アイドルグループの話題で盛り上がる手塚と根岸。誰が好きだとか、聞いたことのない名前が飛び交っている。
成は弁当を食べ進めた。自然解凍の冷凍食品が、まだ少し冷たかった。
「で、南風原さんはどうだったの? 冬休み何してた?」
今度は根岸が聞いてくる。興味しかない純粋なな質問に、成は笑ってごまかした。
「部活以外はあまり外に出なかったよ。ほら、やっぱり外って寒いじゃん」
ありのままに答える。年が明けてからアクター部は、今日が最初の活動日だ。渡や芽吹ともずっと会っていない。
あの夜の出来事は、年が変わってもまだ尾を引いている。
「分かる。私も部活以外はほとんど外に出なかったもん。でも、南風原さんはアクター部なんだから、部活でいろんなところに出かけてたんでしょ?」
「うん、まあメッツェとか行ったよ」
「えっ? メッツェって凄いじゃん! よく行く機会あったね!」
「FAREWELL TO 2019って音楽フェスがあって、そこで着ぐるみの中に入った。二人とも知ってる?」
問いかけてみたものの、二人の反応は「あーなんか聞いたことある」という淡白なものだった。少し落胆はするものの、めげずに成は話を続ける。
「朝から夜までずっと交代で、着ぐるみの中に入ってたんだけど、終わってからようやくライブに行けて。アジカン見れて楽しかった」
という報告にも、二人の反応はイマイチだ。あまり音楽フェスティバルに興味がないのだろうか。無理して笑ってくれているように思えて、成の心に小さな波が立つ。
おそるおそる「アジカン知ってるよね?」と聞いてはみたものの、目を丸くされて、聞かなければよかったと感じた。
「そういえばさ、南風原さん、今日は渡君や芽吹君と一緒にいなくていいの?」
手塚の質問は、成の心の柔らかい部分を無遠慮に突く。取り繕う余裕さえなくて、返事は素っ気なくなってしまう。
「えっ? なんで? 別に誰といようと私の自由じゃない?」
「いや、それはそうなんだけど、南風原さん、今日二人と一言も喋ってないでしょ。去年までは仲良さそうだったのに、急にどうしたのかなって」
今、成の視線の先には芽吹の机がある。しかし、そこに芽吹はいない。チャイムが鳴り終わって、すぐにどこかに行ってしまったからだ。
成が振り返ると、渡が机に突っ伏していた。肩がピクリとも動いていない。石になって昼休みをやり過ごそうとしていて、その姿が成にはもの悲しく見えた。
「別に何でもないよ。冬休みの間もラインでしょっちゅう話してたから、会っても特に話すことがないだけ」
嘘だ。あれから三人のラインは、動いていない。アクター部のラインも、連絡事項以外は音沙汰なしだ。
朝、声をかけようとはしたものの、二人とも別々に登校しては一直線に自分の席についてしまったため、成に話しかける隙をくれなかった。
展開されたバリアを突き破るほどの勇気も出ず、気まずさはあの夜よりもさらに増している。
追及されたらどうしようかとも思ったが、根岸が「うわー、現代人ー」と軽く茶化してきただけだったので、成は「それな」と笑って流すことができた。
心の底では全く笑えなかったが、二人は見抜くことなく、また別の話題に花を咲かせた。少年漫画の新刊が面白かったという話は、成にはさっぱり理解できなかったが、それでも懸命に相槌を打ってくらいついた。
渡や芽吹との不和に話が向きさえしなければ、何でもよかった。
閉め切ったカーテンの向こうから、下校する学生たちがめいめいに話す声が聞こえてくる。
成は一人部室で、身体を小刻みに震わせながら、他の部員の到着を待つ。暖房の効いた教室よりも、寒い部室で先輩たちと話すことに、成は心の平穏を求めていた。
少しすると、佐貫と泊がやってくる。一〇日ぶりに会った泊は、髪留めを鮮やかなオレンジ色に変えていた。同じクラスだからか、二人は大体一緒に来る。見慣れた光景が、成の心を落ち着けた。
聞き飽きた「あけましておめでとう」の言葉を二人からじかに聞くと、正しく今年一年が始まった気がした。
長椅子に座って話す三人。
着ぐるみにオフシーズンはなく、いつでも需要がある。先に伝えられていた一月の予定を確認する成。今月も土日はほとんど活動日だ。「いけそう?」と泊が心配してきたが、あくまで「大丈夫です」と成は答える。ちゃんと週二日は休ませてくれるし、体は持ちこたえてくれるだろう。
渡と芽吹が来るまでの間、成は二人に話を振り続けた。
インフルエンザの予防接種はしただとか、新しく始まるテレビドラマが面白そうだとか、他愛のない話をし続けた。とにかく会話を途切れさせないことに、躍起になった。
佐貫と泊の声を聞いていると落ち着くし、渡や芽吹の方向に話を向けたくなかった。成が次から次へとまくし立てても、二人は不審がることもなく、成の話に応じてくれた。
渡が部室にやって来たのは、三人が揃って一五分が過ぎた頃だった。
ドアを開ける手は弱々しく、入室してくるときもどこか遠慮がちだった。まるで入部当初に戻ってしまったようだ。少し伸びたはずの背は、小さく縮こまっていた。
「お疲れ、渡。改めてあけましておめでとう」
佐貫に泊も続く。ぼそりと「おめでとうございます」と返す渡に、覇気は一かけらも感じられない。
「どうしたの? 具合悪い?」
「いや、大丈夫です」
泊の心配にも、淡々と答える渡。空いている成の隣にも座らず、立ちつくしている。
「渡、芽吹と一緒じゃないんだな」
佐貫の疑問は当然だろう。成だって何も知らなければ、同じことを聞いているに違いない。
渡の返事は、案外早かった。まるであらかじめ用意していたかのように。
「芽吹なら、今日は気分が優れないっていうんで早退しました」
小さく呟かれた言葉に、成は耳を疑う。話さなかったものの、芽吹はホームルームまでちゃんと教室にいたからだ。
頭も心も理解が追いつかない。「えっ? そうなの?」と、泊がきょとんとしていて、自分の気持ちを代弁しているように成には感じられた。
渡は頷いていたけれど、眉毛が下がっていて、平気な顔はできていなかった。
「まあ、いいけど。それならさ、成、なんで言ってくれなかったの?」
泊の質問の矛先が変わる。これも当然の疑問だ。成はひとまず言葉を濁す。慌てふためている内心を、悟られてはならない。
ふと渡を見上げると、光のない双眸が自分に向いていた。成の頭の中で金切り声が鳴り響く。
耐えるように出した声は、一音一音の感覚が短い。
「いや、それは言うタイミングがなかったというか……。やっぱり言った方がよかったですかね……」
「うん。今日はいいけど、次からはちゃんと言ってほしいかな」
ただ注意しているだけの泊の口調にも、成は少なからず萎縮してしまう。肩をすぼめると、寒さが再来してきて、軽くせき込んでしまった。
「大丈夫?」と聞いてくる泊の気遣いが、成にははじめて怖く感じた。渡の唇がかすかに震えているのは、寒さだけのせいだろうか。
二人を見かねたのか、佐貫が立ち上がって告げる。
「じゃあ、芽吹はいないけれど、部活やるか。しばらく動いてなかっただろうから、今日はいつもより軽めにな」
反射的にした返事は大きくなり、冷たい空気を震わせた。成は自分の声量が大きすぎたのではと、周囲を見回す。三人とも目を瞬かせていたが、何も言ってこなかった。
泊と一緒に運動着に着替えるために、成はいったん部室を後にする。
ドアを閉める間際に見た渡の表情には、鈍色の影が落ちていた。
年が明けてから、すでに半月が過ぎていた。めずらしく降った雪が、校庭を白く染め上げている。
部活が休みの日の放課後、成は西校舎の裏にいた。普段アクター部が活動しているこの場所も、手入れが行き届いていないので、寄りつく者は少ない。
成は立ち止まって向き直ると、バッグから黄色いレジ袋を取り出した。
「はい、これ。この前言ってたアジカンのCD。リライトが入ってるソルファと、デビューアルバムの君繋ファイブエムが入ってるから」
「おお、サンキュな」と、二つの大きな手がレジ袋をつかむ。かすかな感触が信じがたいほど滑らかで、思わず息を呑んでしまう。
「さっそく帰ったら聞くわ。いつまでに返してほしいとかある?」
「ううん、ないよ。気が向いたときにでも、返してくれればいいから」
「分かった」
そう言って、相手はバッグにCDをしまい、「じゃあな」と言って、足を踏み出す。二度と話せる機会が訪れないような気がして、すれ違った瞬間、成は思い切って口を開いた。
「芽吹さ、今度部活いつ来るの?」
振り向いた芽吹の目には、かつての小動物みたいな人懐っこさはもうない。「は?」と威嚇するような声。獲物を見つめる肉食獣のような眼差しが、成を襲う。
「芽吹、今年に入ってから一回も部活来てないじゃん。先輩たちには体調不良で早退してるって言ってるけど、そろそろ通じなくなってきてるんだよね」
あえて強い口調で語りかける成。強硬な態度をとらないと、芽吹を引き戻せない気がしていた。
「私としては、特に何もしなくても、いるだけでいいから、部活に戻ってきてもらいたいんだけど」
「それってさ、つまりは飼い殺しってことだろ。『いるだけでいい』って言葉がどれだけ残酷か、お前分かってる?」
はじめて芽吹に「お前」と言われたショックで、成の頭は瞬時に真っ白になった。ブレーカーを落とされたみたいに、どこも動かない。遠く開いた距離のほどを、絶望的に思い知る。
「『いるだけでいい』って全然優しくないから。何もかも奪われて、牢屋に入れられてるのと大差ないから」
「違う。私はそんなつもりで言ったんじゃなくて……」
「それは何もできなくてもいいからって意味?」
芽吹の言葉に、成は黙り込んでしまう。
「俺は何かしたいんだよ。着ぐるみには入れないし、アシスタントは泊先輩一人で十分回せるし。俺にできることなんて何にもないんだよ」
「そんなことないって! 私も一緒に何ができるか考えるから! お願いだから部活に戻ってきて!」
懇願は放課後の静寂によく響いた。気がつけば手を握っている。成は自分が、もう脈のない彼氏に必死で縋る、みっともない女のように思えた。
だけれど、どれだけ無様だっていい。芽吹を部活に戻せるなら、頭でも何でも下げてやる。
成はそう決めていたが、芽吹の返事は成の意気も期待も、根こそぎ剥ぎ取った。
「俺が部活に戻ったところで、何か変わる?」
「また三人で楽しく話ができる」
「それって、部活じゃなくてもできるだろ」
あっさり切り捨てられて、成は返す言葉を見つけられない。
「戻ってきてほしい理由はそれだけか?」との追いうちに、成は頷くこともできなかった。目を合わせたらそれまで。二度とこうして話せないと直感する。
俯いている成を見かねたのか、芽吹は少しも眉を動かさずに言う。
「分かったよ。考えとく。今日はCDありがとな」
そう言って、芽吹は雪を踏みしめながら、校門へと向かって歩き出した。成が辛うじて顔を上げると、離れていく後ろ姿が、夕日に照らされてオレンジ色に輝いていた。
「考えとく」は、遠回しにNOと言っているに等しい。そんなことは成にも分かっていた。だけれど、誰もいなくなった西校舎裏で、一人祈る。
すぐに回復しなくても、すこしずつ関係を再構築していけばいい。どれだけ時間がかかろうとも、また関係を戻すことができると、成は信じて疑わなかった。
佐貫から、芽吹が休部届を提出したと聞いたのは、翌日のことだった。
(続く)




