【第40話】お前に入ってほしいんだって
着ぐるみを脱ぐとすぐに、成はパイプ椅子に座りこんだ。全身から汗が噴き出して、ズボンさえもぐっしょりだ。椅子の座面が自分の汗を押しつけてきて、少しだけ鳥肌が立つ。
はじめての本番は、練習よりもずっと大変だった。体は楽しんでいたけれど、心はやはり緊張していて、脱いだ瞬間に、疲労がどっと成に押し寄せる。練習と本番では、疲労の種類が違う。より肩にのしかかってくる感じだ。
だけれど、一つ成し遂げたという快感もある。演劇部で舞台に立っていた同級生が、本番終わりに誇らしげな顔をしていた理由が、成には分かる気がした。
「お疲れ、成。はじめてとは思えないくらいよかったよ」
成が顔を手で扇いでいると、泊が歩み寄ってきて、タオルを渡し、声をかけてくる。第一声が褒め言葉であったことに、成の心は和らぎ、また汗が流れる。
「本当ですか?」
「本当、本当。もっとガッチガチになると思ってたもん。成、けっこう舞台度胸あんじゃん」
先輩から認められて、成は心に羽が生えたように感じた。顔を上げると、泊の爛々とした目が眩しい。
「ありがとうございます。緊張はしましたけど、またがんばれそうです」
「うん。次もよろしくね。じゃあ、私たちアンコール聴きに行ってくるから」
ホールでは一定のリズムで、手拍子が鳴っている。観客がアンコールを待ちわびているのは明白だ。
「私も行きます」
「成、はじめての本番で疲れてるでしょ? それに舞台袖に座れるところはないし、ここでゆっくり休んでてよ」
確かに舞台袖は狭く、物が多かった。それに、この楽屋にいても演奏は聴くことができる。また、行くとは言ったものの、成は椅子から立ちたい気分ではなかった。だから、成は泊の提案を受け入れた。
すると、呼吸が少し落ち着き、部屋を見回す余裕ができる。
そして、渡がどこにもいないことに気がつく。泊も首を動かしていて、先輩に許可を取っての外出ではなさそうだった。
泊が出口に向かおうとしたその瞬間、ドアが開いて、渡が入ってくる。
泊と佐貫に申し訳なさそうにしながらも、成のもとへと向かってくる渡。両手にはペットボトルの麦茶を二つ持っていて、片方を成に渡してくる。
成が受け取ると、それは氷のように冷たかった。
「お疲れ様。着ぐるみの中どうだった?」
成が蓋を開けるよりも先に、渡が聞いてくる。渡が着ぐるみに入るのは、ゴールデンウィークが明けてからだ。きっと、興味が湧いて仕方がないのだろう。
「たぶん、渡が思ってる以上に暑いと思うよ。それと暗い。一度入っちゃえば自分からは出られないから、心細さもあるかな」
成の返答に、渡は分かりやすく肩を落とした。
まずい。まるで自分が脅かしているみたいじゃないか。
成は麦茶を半分ほど飲んでから、不安がっている渡に声をかける。
「でもさ、動くのは楽しいよ。普段だったらそんなにしないような動きができて、面白かった」
「俺、大丈夫かな」
「大丈夫だって。渡ちょっとずつランニングにもついていけるようになったし、パントマイムだって慣れてきたじゃん。そんなに心配しなくてもいいんじゃないかな」
そう成が答えると、渡は「うん、ありがと」と言って、向かい側に座る芽吹の方へと、向かっていった。
感謝の言葉を告げられると、成にはなんだかこそばゆい。
正面では、渡と芽吹が話している。成に聞いた内容と、ほとんど同じことを芽吹にも聞いているのが、おかしかった。
顧問の五十鈴が、佐貫と泊と渡を引き連れて、楽屋の外へと向かっていく。四人の後ろ姿を成は、羨ましく見送った。
ドアが閉まってから、成はもう一度麦茶を口に運ぶ。深く息を吐くと、かすかに眠気に見舞われた。
うつらうつらしはじめる成の頭上で、拍手が歓声に変わる。どうやらオーケストラが、再び登場したらしい。
ふと気づくと芽吹が自分の隣にいて、成の目は一気に覚めた。
まだ開けていない麦茶を傾けて、成の目の前まで持ち出している。成はその仕草を乾杯の合図だと受け取って、すっかり軽くなったペットボトルを、芽吹のそれとつき合わせた。
芽吹も一気に半分まで飲み干して、「くはぁー」と、大きなため息をついている。
「ああ、疲れた。本番ってこんなに疲れるもんなんだな」
「分かる。私も一〇〇が最大だとしたら、今八〇くらいまでいってるもん。本当、お疲れ」
「ああ。お疲れ」
外は一瞬静まり返り、今度は緩やかに音楽が始まった。しっとりとした雰囲気に、成の眠気は蒸し返される。
つい反射的にあくびをして、目を擦ってしまった。
「どうした? 眠い?」
「うん、まあちょっとね。昨日とかドキドキして、あまり寝れなかったんだ」
「俺も。なかなか眠れずにずっと起きてて、途中で寝落ちしたんだけど、目を覚ました時には一〇時半になってた」
「それで来るのギリギリになったんだ」
「うん、ごめん」
「いいよ。間に合ったんだから」
「よくやったよな、俺たち。佐貫先輩も褒めてくれてたし」
「うん。撮影禁止だから、後で確認できないのが残念だけど、よくやったと思うよ」
「なんかさ、着ぐるみの中は暗かったけど、南風原が隣にいて、同じような思いをしてるんだと思うと、心強かった」
「私も。チューマくんの姿は見えなかったけど、気配だけで一人じゃないって思えた」
二人の視線は交差せず、平行線だ。だけれど、成の心はほのかに温められる。呼吸もかなり落ち着いてきた。
演奏は相変わらずゆったりとしていて、バイオリンが子守唄のように響く。
眠気に負けないよう、成は体を伸ばした。
「眠いんだったら、寝れば。先輩たちが戻ってきたら、俺が起こしてあげるからさ」
甘言のように成の胸に入り込む言葉。「うん、じゃあそうする」と、成は芽吹の勧めを受け入れた。机に突っ伏して、鼻で息をする。
演奏はピークを迎えてもなお穏やかだ。音に身を預けている感覚が心地いい。
成は心底安心して、目を瞑ることができた。意識が深く落ちていく感覚が、気持ちよかった。
制服が夏服に変わった。練習時間も三〇分延びた。変わりゆく季節とともに、成たちは着ぐるみに入る回数を増やしていた。
渡もスーツアクターとしてのデビューを果たし、共通の話題ができたことで、三人の仲はますます深まっていた。勉強はともかく、それ以外はおおむね順調。
三年間、楽しいことばかりが待っているように、成には思えた。
だが、三人にも変化は訪れる。それははっきりとした形を持って現れた。
「芽吹、背伸びたんじゃない?」
ある日の朝、成は前より抱いていた違和感を芽吹にぶつけた。四月の頃は成よりも小さかった芽吹が、二ヶ月ほど経った今では、成の背を追い越している。男子三日も会わざれば刮目して見よという言葉を、体現しているようだ。
「まあな。本当何でなんだろうな。特別なことは何もしてないのに」
「成長期なんじゃない? そんな珍しいことでもないでしょ」
「でもさ、それで入れなくなる着ぐるみとかも出てきそうだよな」
渡が、読んでいる本を閉じて、会話に入る。その目は心配そうに瞬いていた。
「確かに。このまま伸び続ければ、いずれは着ぐるみに入れなくなるかも……」
成も口に手を当てて考え込んでしまう。まだ先生が来ず騒がしい教室の中で、深刻そうにしている二人を芽吹は一笑に付した。
「そんな心配すんなって。どうせ今に止まるよ。ウチは父ちゃんも母ちゃんも、あまり背が高くないんだ。だから俺も小柄に決まってんだから」
成は芽吹の両親に会ったことはないので、その言葉は説得力を持たない。
だけれど渡が頷いていたので、嘘を言っているわけではなさそうだ。
「あっ、でもさ、今日の昼、佐貫先輩に呼ばれてんだった」
「それって大丈夫なのかよ」
渡に成も頷いて同意する。これまで部活以外で先輩が、成たちを呼んだことはない。嫌な予感が成の胸に芽生える。だけれど、当の芽吹は全く深刻そうなそぶりを見せない。
「まあ大丈夫だろ。朝会ったとき、佐貫先輩そんな重い表情してなかったし」
「でも……」と成が言いかけたところで、教室のドアが開く。担任が入ってきて、席に着くように促す。
だけれど、席に着いてからも、成の心には一筋の雲が立ち込めていた。
昼休み。手塚や根岸と一緒に昼食を摂った成は、そのまま二人と雑談を続けていた。話している間は楽しかったが、それでも芽吹のことが引っ掛かる。
昼休みになってすぐに教室から出ていった芽吹は、三〇分経ってもまだ戻ってきていない。もしかして、佐貫に怒られているのだろうか。
気が気でなく、成が振り返ると、渡もそわそわと手を動かしていた。
さらに五分ほど経った頃、ようやく芽吹が教室に戻ってきた。両手に購買のパンを持ち、二人を見ると、少しバツが悪そうに視線を逸らす。
席に着いたのを見計らって、成は手塚と根岸に断り、芽吹のもとに向かう。すでに渡もそこにいた。
「どうだった? 佐貫先輩、なんて言ってた?」
成は話している二人に割って入り、渡が避けていた本題を、すぐさま聞き出す。もたもたしてはいられない。
「週末さ、俺たち幕張のイオンモールに行くじゃん?」
「ああ、アパレルに頼まれてるやつでしょ」
「うん、それ。で、犬の着ぐるみに俺が入ることになってたんだけど、なんか打ち合わせよりも小さいのが届いたみたいで。入れないって言われた」
恐れていた時は、成が思うよりも早くやって来た。芽吹は平気な様子で、パンの袋の口を開けている。だが、同じようなケースはこれからどんどん増えていくはずだ。
「何それ、急すぎない?」
「だよな。でも、先輩たちも昨日いきなり言われたんだって。今回ばかりはしょうがねぇよ」
「じゃあ、どうすんだよ? 犬は欠席か?」
渡の質問に、芽吹は手を止めた。まっすぐ渡を見据えて、何の衒いもなく口にする。
「そのことなんだけど、佐貫先輩はお前に入ってほしいんだって」
「俺が? マジで?」
「そりゃ二体よりも、三体の方が目を引くからな。というか先輩たち、お前が入るって、もう向こうに伝えちゃったらしいぞ。お前、週末入る予定なかったしちょうどいいだろ」
相談せずに決めた先輩たちも、軽い調子で言う芽吹も勝手だ。だけれど、消極的な渡に経験を積ませるには、多少強引なほうがいいのかもしれない。
いや、それにしてもだ。知らないところで既成事実を作られた渡の心情はどうなる。着ぐるみに入るのが、嫌になったりはしないだろうか。
そう思うくらいには、成は渡のことを理解しはじめていた。
「分かったよ。俺にしかできないことなんだろ」
「ああ、助かるよ。今日部活が始まる前に、先輩たちから説明があると思うから、詳しくはそのときにな」
そう言うと、用件は全て伝えたと言わんばかりに、芽吹はパンを頬張りはじめた。早くも夏休みの予定について聞いてくる。成と渡は適当に話を合わせた。
ただでさえ暑い着ぐるみの中は、夏はよりいっそう大変だろうと成は感じたが、穏やかな空気を汚したくなかったので、言わなかった。
最後の出番が終わったとき、成と渡はすっかり疲れ果てていた。三〇分を四回という長丁場に、思わず椅子にへたりこむ。
成が持参したスポーツドリンクを補給すると、また汗がぶわっと噴き返した。
午後六時。バックヤードの休憩室の一角に成たちはいた。
名前のない着ぐるみに入り、立って時折手を振り、客を呼び込むという、活動としてはシンプルなものだったが、それでも成にはやや辛く感じられた。
いくら手を振っても、店内に入ってくれる客はごく少数。無視をされることだって、少なくなかった。
味方しかいなかったコンサートでのデビューが、いかに恵まれたものか、成は重ね重ね感じていた。
それに今回の着ぐるみは年代ものだったから、通気性もそれほどよくなかった。熱はこもりにこもり、宇宙服を着たままサウナに入っているように成は感じた。
体力がまだまだの渡にとっては、さぞかし大変だっただろう。着ぐるみを脱いで見た渡の顔は汗にまみれていて、目にはうっすら光るものが見えた。
ともに出番を終えた佐貫が渡を励ましている。自分も疲れ切っているだろうに、佐貫はそんな素振りを全然見せていなかった。
しばらくして、担当者が休憩室にやってくる。アクター部の五人と、五十鈴は深く礼をした。労う言葉をかけられると、疲労が少し軽くなるようだ。
ようやく帰ることができると思ったが、先輩たちは担当者と話していて、まだ少しは休憩室にいなければならないらしい。
することのない芽吹が、成と渡に声をかけてくる。
「ごめんな。大変だったろうに、代わってやれなくて」
二人の目の高さにまで、芽吹は膝を曲げている。必要がないのに、自分を責めていて、成は否定したくなった。
「別にいいって。芽吹のせいじゃないんだからさ。それにこれもいい経験だよ。次入るときはちょっと楽に感じられそう」
成は真っすぐ芽吹の目を見て、優しい表情とともに言った。
休憩室には他にも人がいたが、全員が三人のことを気にかけないようにしていて、成は胸がすく思いがした。
「ああ、南風原。サンキューな。マトも今日一日疲れただろうにありがとう」
芽吹は渡を「マト」と呼ぶ。中学からの習慣で、変えるつもりはないらしい。
渡は耳馴染みのある呼び方に、かすかに笑ってみせた。
「そんな気にすんなって。俺もそろそろ場数増やさないとって思ってたから、ちょうどよかったよ」
「そっか。本当ありがとな。今度ジュース奢るわ」
「それだけ?」
「じゃあ購買のパンもつけるよ」
「ああ、クリームパンで頼むわ」
どうでもいい話をして、三人は笑い合う。笑顔でいれば自分たちの結びつきが、また一つ強くなるような気が成にはしていた。疲労もいくらか軽減される。
佐貫が三人に声をかけてきた。本当に帰るらしい。
六人は荷物を持って、担当者に再びお礼を言ってから、休憩室を後にした。緑色の廊下が続くバックヤードを歩く。
明日も活動日だ。大変という危惧よりも、また五十鈴も含めた五人に会えるのが嬉しいという思いが、このときの成のなかで上回っていた。
(続く)




