【第39話】お互い見えないけど
日々は瞬く間に流れ、五月になった。
今日は五月五日。新入生たちは高校生になってはじめて迎えるゴールデンウィークに喜びを爆発させていたが、部活に入っているとそうもいかない。
アクター部はこの日、三日連続の活動日だった。
あれから成たちは仮入部期間を終えて、本入部に移行していた。
ランニングや体幹トレーニング、パントマイムといった練習は想像以上に過酷だったが、先輩たちが声をかけ、メニューも調整してくれたので、三人は何とか乗り切ることができている。渡の消極的な性格にも、成はあまり苛立たなくなっていた。
午前一一時前。本千葉駅で電車を降りた成は一路、東へと向かう。目的地は県の文化会館だ。
小中と芸術鑑賞会で訪れたことはあるものの、そのときはバス移動だったので、歩いていくのはこれがはじめてだ。
少し暑い陽気に、成の鼓動は逸る。喉が渇いて、信号を待っているときもしきりに水を飲んだ。
この日は成と芽吹の、スーツアクターデビューだった。
千葉ティーンエイジオーケストラ。文字通り、千葉県の学校に通う一〇代の少年少女で結成される楽団だ。
毎年こどもの日に定期演奏会を行っていて、そこに文化会館の所在地である中央区のキャラクター、チューマくんとラトカちゃんが登場することが恒例となっている。
さすがに佐貫を四連投することもできず、成と芽吹が入ることになったのだ。
出番は終盤の一〇分ほどだが、ステージに立って注目を浴びる。今まで裏方しか経験のない成は、手が震えるほどの緊張を覚えた。
階段を上がるたびに、見えてくる文化会館。成は怯えを消すように、颯爽と足を動かした。
灰色の建物の下には、佐貫と泊、それに顧問の五十鈴が待っていた。紺色の運動着を着ている二人と、ミルク色のフリースを羽織った五十鈴が、楽しそうに話している。
最初に成に気づいたのは泊だ。成を見かけるやいなや、駆け寄ってくる。喜ぶ姿はしっぽを振る大型犬を成に思わせた。
「成ー! 待ってたよー! どう? 迷わなかった?」
手を取ってくる泊に、成は思わず口元をほころばせた。握っている手は、成のそれよりも少しだけ温かい。
「スマホを見ながらだったので大丈夫でした。それより、渡と芽吹はまだ来てないんですか?」
「うーん、まだみたいだね。成、ラインしてみたら?」
言われるがまま、成はアクター部のグループラインに、渡と芽吹の現在地を尋ねるメッセージを送った。
スマートフォンをスクールバッグにしまって、二人は佐貫と五十鈴のもとに向かう。挨拶をすると、二人ともにこやかに応えてくれて、緊張は和らがないが、成の呼吸は少し落ち着いた。
四人で少し話していると、スマートフォンが振動した。成が見てみると、芽吹からラインの返事が来ていた。今二人一緒にいて、あと五分ほどで着くらしい。集合時間ギリギリだ。
三人にそれを伝えると、佐貫から「次からはもっと早く来るように言っといて」と、伝言を託される。
いつの間にか、成は一年生三人の、リーダー的立ち位置に納まっていた。
「どう? 成? 緊張してる?」
成が所在なく視線を泳がせていると、泊が覗き込むようにして聞いてきた。
「そりゃ緊張しますよ。だって、今日はじめて着ぐるみを着て、人前に出るわけですし」
「だよね。でも、練習通りやれば大丈夫だよ。成ならできるって」
泊は力強く口にする。実際、ここ数日は学校のマスコットに入って、演奏される歌に合わせて動く練習をしていた。リズムに合わせて横ノリをしていれば、基本は大丈夫というアドバイスも受けている。
それでも、ラトカちゃんの着ぐるみを着るのは、本番がはじめてだ。成は無理して笑ったが、泊にこわばった表情だと見抜かれる。
「ねぇ、緊張が解けるおまじない教えてあげよっか?」
「教えてください」
「アマリリスって花あるでしょ? それを一〇回唱えるの」
「なんでアマリリスなんですか?」
「アマリリスの花言葉は『おしゃべり』だからね。ほら、緊張すると喋れなくなるじゃん?」
「別に今日は喋るわけじゃないんですけど」
「いいからいいから、ほら言ってみて」
成は少しだけ不審に思ったものの、泊の言う通りにアマリリスを、一〇回唱えてみる。その間、佐貫と五十鈴も自分を見てきて、成の緊張は解けるどころか増していった。
だが、何とか唱え終わる。「終わりましたけど」と成が言う前に、泊が矢継ぎ早に聞いてきた。
「劇作家、オスカー・ワイルドの代表作といえば?」
「え? 何ですか、いきなり?」
「いいから答えて」
「えっと……、アマデウス、ですか?」
成が答えると、泊はにっこりと笑って、腕で体の前にバツ印を作った。
「ブッブー! 正解はサロメ、もしくは幸福な王子などでーす! アマデウスは別人が書いたものでーす!」
にやにや笑う泊の一方で、佐貫と五十鈴も小さく唇を持ち上げていた。そのリアクションに、成は自分がはめられたのだと気づく。
「って、ただの一〇回クイズじゃないですか! 私を騙したんですか!?」
「うん、そう。でも、成。今そんなに緊張してないでしょ?」
確かに、今の自分は呆気にとられたとしても、自然に笑うことができている。泊はそこまで考えていたのだろうか。
そのまま、四人が笑っていると、ぽかんと突っ立っている渡と芽吹が見えた。成と泊は笑顔のまま近づく。男子二人の顔は引きつっていたけれど、成の心はいくらかリラックスできていた。
通された楽屋はなかなか広く、成はかすかな感動を覚えた。机の周りに椅子が人数分だけ用意されていて、その向こうには、チューマくんとラトカちゃんの着ぐるみが見える。
白く、首元に蝶ネクタイがあるのがチューマくん。少しピンクがかっていて、頭にカチューシャをつけているのがラトカちゃんだ。
成が椅子に座ると、横の鏡に反射して二体の着ぐるみが映る。入ってくれるスーツアクターを待っていて、成は背筋が伸びるような思いがした。
今、ホールでは既にコンサートが始まっていて、天井から音の塊が降ってきている。曲は荘厳だが、奏者のパーソナリティーによるものなのか、音に瑞々しさがあるような気がする。指揮者の岡部も、熱心に指揮を続けているのだろう。
アクター部の面々が挨拶に行ったときも、岡部は快く応じてくれたし、楽団員たちは席を立ってまで、一斉に挨拶を返してくれた。
その対応に、自分が失敗すれば、取り返しのつかないことになってしまうと、成はよりいっそうプレッシャーを感じた。
演奏が止んだホールでは、代わりに拍手が降ってきて、出番まであと三〇分を切ったことを成たちに伝えてくる。芽吹はあちらに行ったり、こちらに行ったり忙しないし、着ぐるみに入るわけでもない渡さえ、うつむいて足を揺らしていた。
室内は黙って、音楽を聴こうとしている。沈黙を破るのは勇気が要ったが、耐えきれなくなり、成は近くに寄ってきた芽吹に話しかけた。
「ねぇ、芽吹はどう? 不安?」
なるべく小さく呟いたつもりの声は、MCの時間と重なって、予想以上に部屋に広がった。
他の四人が聞かなかったふりをしてくれることが、成にはありがたい。
「うーん、どうだろ。なるようになるんじゃねぇの」
平坦な口調。だが、その声はかすかに震えていて、虚勢を張っているのだと成には分かった。
不安なのが自分だけでないことを改めて知り、成の鼓動は少しだけ緩やかになる。
「それにさ、俺たちちゃんと練習してきたじゃん。先輩からのアドバイスももらって。大丈夫だって。絶対にできるよ」
「そうだね。余計なことを考えず、音に乗って動いていれば、なんとかはなるよね」
自分に言い聞かせるように口にした言葉に、芽吹は「ああ」と頷いてくれた。
再び音楽が鳴りだす。今度の曲は成にも分かった。『威風堂々』だ。自分たちを勇気づけてくれるような、壮大な演奏。
成は息を吐き、おもむろに立ち上がった。そして、右手を握って驚いている芽吹に突き出す。
「がんばろう。お互い見えないけど、一緒に」
芽吹は成の意図に気づくと、かすかに口元を緩める。同じく右手を握って、成の前に出してきた。
「ああ、がんばろうな」
二人は拳を突き合わせた。音楽に消されて、触れた音はしなかったけれど、一瞬でも自分ではない誰かの肌に触れると、不安が和らいでいくのが成には分かる。
二人は小さく笑みをこぼした。成はこの日はじめて、成功するイメージを描くことができた。
「二人とも、もうすぐ時間だ。そろそろ着ようか」
立ち上がった佐貫が二人に告げてくる。二人は迷惑にならない程度に、「はい!」と返事を重ね合わせた。
舞台袖からメッシュ越しの目で見るステージは、光に満ち溢れた神聖な空間のように成には見えた。中学校までの安っぽい照明と違う本物の照明は、ステージに立つ人間を気高くさせる。
岡部が指揮棒を振るう手を止め、演奏は終わりを迎える。一瞬無音になったのち、盛大な拍手が会場を包んだ。
その一つ一つに成の呼吸は速まっていく。ラトカちゃんの中に入ってしまえば、もう逃げ場はない。覚悟はしていたけれど、いざ出番が近づくと、口から心臓が飛び出そうな緊張に見舞われた。
一足先に司会の女性が、ステージに向かっていく。その後ろ姿を成は祈るような思いで見つめた。
「ただいまお聴きいただいたのはエルガー作曲、オーパス12『愛の挨拶』でした。皆さんいかがでしたでしょうか」
女性が言うと、会場には今一度拍手が起こる。
成たちから見て、一番近くにいるコントラバスの少年が、小さくお辞儀をしたのが見えた。
「さて、第二十三回千葉ティーンエイジオーケストラコンサートも、いよいよ残すところあと一曲となりました。私もこの素晴らしい演奏をずっと聴いていたいのですが、こればかりはしょうがありません。では、ここで今年もこのコンサートにいらしてくれたゲストを紹介したいと思います」
女性はしゃべり続ける。ざわつく暇を与えないように。
「こちら、千葉県文化会館のある千葉市中央区からいらした、チューマくんとラトカちゃんです。皆さん温かい拍手でお迎えください」
視界の端に映る佐貫が右腕を振って、ゴーサインを出す。前にいるチューマくんが一歩目を踏み出した瞬間、成の緊張は最高潮に達した。
漏れ聞こえてくる拍手が、耳をつんざくように感じられる。だが、もう退くわけにはいかない。
こうなったらままだと、成は心の中で唱え、慎重に第一歩を踏み出した。
はじめて上がった本番のステージは、想像していたよりもずっと広かった。照明が床に反射して、足元から温められているような。一歩一歩が雲の上を歩いているみたいに、現実感がなかった。
チューマくんの隣に立って、正面を向く。拍手の印象よりも観客は多く、静まってもラトカちゃんの頭部の中では、しばらく残響があった。
隣にいる芽吹の顔すら見えず、成は孤独を感じてしまう。文化祭でステージに立っていた同級生や後輩たちも、こんな気分を味わっていたのだろうか。
「私の隣にいるのがチューマくんで、その向こうにいるのがラトカちゃんです。今年も忙しい中、わざわざ駆けつけてくれました。どうだった? チューマくん。皆の演奏は?」
成の視界の一番外側にいるチューマくんは、腕を軽く振り回したかと思うと、オーケストラの方を向き、右手を突き出して親指を立てた。練習であらかじめ決めておいた動きだけれども、芽吹がやると、心の底から喜んでいるように見えるから不思議だ。はじめてとは思えないほど堂々としている。
漂う雰囲気で、観客にも受け入れられたと成は分かった。
「うん、すごく楽しかったみたいだね。ラトカちゃんはどうだった?」
自分のターンに成は息を呑む。「よし」と心の中で呟いてから、かすかに首を傾げ、両頬に手を当てた。ゆっくりと二回頷いて、オーケストラの方を向き、三〇度のおじぎをした。
顔を上げると、何人かの笑顔が見えて、成は心底ほっとする。拒絶されないことが、こんなにも嬉しいなんて。
「ラトカちゃんはうっとりしてたみたいだね。じゃあ、これから最後の曲が始まるんだけど、一緒に聴いてくれるかな?」
チューマくんは右腕を上げ、ラトカちゃんはまた二回頷く。それぞれの同意のサインだ。
「うん、ありがとう。それでは、最後の曲に移りたいと思います。ラストを飾るのは、皆さんご存知、ヨハン・シュトラウス作曲、ラデツキー行進曲です。どうぞお聴きください」
正面を向いているので見えこそしないものの、成には楽団員が楽器を構えたことを直感した。
心構えの上から、音の波が一斉に押し寄せてくる。耳馴染みのあるメロディだから、乗るのはそれほど難しくない。体を自然に揺らせばいいのだ。
成は手を首の高さまで持ち上げて、リズムに合わせて左右に揺らした。機嫌のいいメロディと軽快な演奏に、心は浮かび上がっていく。
着ぐるみの中にいることは片時も忘れられない。だけれど、成は演奏を一番近くで聴くことのできる特権に酔っていた。
四分にも満たない曲は、あっという間に終わった。ホールには拍手がこだまし、成は誇り高い感慨を全身に浴びる。
それでも客席に向かって、動きを続けることは忘れない。上から降りてくる緞帳が閉まるその瞬間まで、成は手を振り続けた。
ふと横目で見ると、チューマくんは客席が見えなくなるまで、元気よくアクションを続けていた。
自分が微笑んでいるのと同様に、芽吹も口元を綻ばせているのだろうと、成は確信にも似た思いを抱いていた。
(続く)




