羽を広げ
ギアは全神経を注いでトリシアの帰宅を待っていた。人間の持ちえる全ての感覚を駆使して、ひとりベットで身を起こして待っていた。
本を読むでもなく、最近知ったウォークマンなる音楽を自由に聴くことのできる機械をいじるでもなく、週末に届く一週間分の新聞に手を伸ばすこともなく、頭を空にして待っていた。
ローリエは自分をベットまで送り届けるた途端に家を飛び出て、いつも一緒にトリシアの帰りを待っているシュトもおらず、物音一つしない家の中で待っていた。
はたしてそこまでして待つ必要があるのかと問う声もあるが、自分には「待つ」他の選択肢が見当たらなかった。
ただ呆然と何もない虚空に見入り、まるでマネキンのように生気のない様は誰もが人間とは違う物の気配を感じ取っただろう。
血にまみれ傷ついた愛しい少女の顔が目に、まぶたの裏に、脳に、記憶に、ありとあらゆるところに焼きついて離れなかった。
ぼんやりと、ああこれは一生おれの中から消え去らないものなんだと思い知った。
うすぼんやりとした感覚でありながら、正常な脳や冷静な心のどこかではそれは確定した事実であった。
後悔の波が押し寄せて止まらない。
つーっと頬を涙が何度も通っていった。
何様のつもりだ、この塩気のある生理的食塩水は涙の分際で自分の頬に道路でも建設するつもりなのか。何度も何度も同じ道を通っていく涙を腹立たしく思った。
荷物をまとめようかな…。
ふと、「待つ」以外の選択肢が脳裏をよぎった。
自分には責任という物があるし、トリシアを傷つけたくせに傍に居座ろうなどというほどいい根性はない。
100年ほど、この土地を離れればいいのだ。
さほど長い年月ではない。シュトはきっとたくましく育ち一人前のドラゴンになっているだろう。
でも、その時には彼女はこの世から消え失せているだろう。
何故だか、トリシアの事を考えないように考えないようにしていたはずなのに結局彼女の事ばかり考えている。
そして涙の通行量は増えるばかりで、胸は痛みを伴い苦しくなる。
空っぽにしようとしていた頭の中がトリシアの事でいっぱいになる。
いいや、正確にはトリシアと出会ってからトリシアが見せてくれた世界で頭蓋が溢れるほどいっぱいに満たされる。
人間になんてさして感心などなく、本部から下される雑務をこなしてきた。
でもトリシアに出会ってから、人間という生き物にはじめて興味がわいた。一度興味が出れば愛しさが溢れた。
じっと見ているだけで心が満たされもした。最近は見ているだけでは物足りなくなって話したり関係を深めたいという意欲もでてきた。
トリシアは…ギアにとっての世界の鍵だった。人間の象徴とも言えるし、ある種の区別しがたい感情を持つ特別な存在だった。
「消せるわけねえよ…」
ああもう、何でこんなに自分は人間臭くなってしまったのだろう。
自分の不貞腐れた声なんて、はじめて聞いた。
涙なんて流すような性格ではなかったし、そんなもの人間についている生理的機能だとしか思っていなかった。
「くっそう」
悔しいが頭の中にはレイとの些細な会話もくだらない衝突も漏れなく入っていて、イライラしたりむかついたり、こそばゆくもあるけれどそんな関係が心地よかった。
「私」、という揺るぎない一人称が時々彼に影響されて「おれ」になってしまう。
まだ1年も経ってないのに。
たった1年が1万年をこんなに大きく揺さぶる。
窓の外で、感覚を研ぎ澄ませるまでもなくにぎやかな気配がする。
小鳥がにぎやかにさえずっているような、幸せも不幸せも連れてくるにぎやかなぬくもり。
あーあ、このままとんずらこいたら姉さんは地の果てまで、いやこの世の果てまで追いかけてくるだろうなあ。そしたらきっと「一族の恥さらし!」と罵って殺されるかもしれない。
そもそも、あの姉をトリシアの側に置いておいていいはずがない。情操教育上たいへんよろしくない。何のためにもならない。
「人づきあい」が極端にへたくそな姉に任せることに不安しか感じない。
がちゃんと勢いよく玄関が開け放たれた。
「…ただいま!」
明るい表情の少女が視界に飛び込んできた。
「お、おかえり…」
そして、破顔一笑。
「…心配かけてごめんね、ちょっと怪我しちゃった!」
何でか、目に映るもの全ての彩度が鮮やかになって世界が生まれ変わったような気がした。
「トリシア、それはちょっとどころじゃないだろう…」
かろうじて、言葉が口から出てきた。
「うん、ちゃんと話すから。でも私生きてるしいいじゃない…どうせまたくよくよ考えてたんでしょう?責任とか難しいこと考えないでよね」
松葉づえをついておぼつかない足取りでギアの枕元にある椅子までえっちらおっちら進んだ。
見ているこっちがもどかしくなるような姿に、思わず苦笑する。
「私は足こんなんになっちゃって、ギアも片腕動かなくて、五体満足なのレイしかいなくなっちゃたね」
レイは、突っ立ってまっすぐギアを見ていた。
トリシアがレイに笑いかける。
ギアの姿を見てスッと気負っていたものやもやもやした気持ちがレイから消え去った。
「しょうがないからお前の世話見てやるよ」
「お前の世話になるなんていう情けない事態に陥った己の不甲斐なさに涙が出る」
ふいっと拗ねた子供みたいにレイから顔を背けた。
「どいつもこいつも人の親切心を何だと思ってやがるんだ!」
ギアが背けた顔でばれない様にこっそりとクスリと笑いをこぼした。
ギアの変化をちょこちょこ書いてきたかったのだけど
微妙な変化過ぎて分からなかったり
もしくははじめから笑に走る傾向がややあるので
ドラゴンとしてのギア、という姿が見えなかったりして…
さて、たぶん次の話くらいで羽化は終わるだろうと思います
最後の最後で、羽化とはどのような事かと示せればいいのだけど
たとえ羽化したとしても、羽化した後どのようにはばたいていくのか
トリシアとシュトを見守ってあげてほしいです
次の章では、ドラゴニスタの内部、とか書くつもりです
でもどんなふうに内部を書いていくのか、というところは
期待して…とまでは言いませんが楽しみにしてもらえるとうれしいです
では次話も乞うご期待☆




