誠次郎
周囲からセイジロウと呼ばれるその男は、絵に描いたような好青年だった。
バイトの残業や、急な交代などの頼み事。
果てには、友人から金銭の無心をされても決して断ることなく。
電車やバスなどでは、いついかなる状況であっても年寄りや妊婦に必ず席を譲り。
相手が重い荷物を抱えているのであれば、そのまま一緒に下車して、家まで運んであげるほどの一貫したお人好しぶり。
やや自己を過小評価する傾向があり、図に乗る行動は皆無。
常に落ち着いて、冷静。
清潔に切り揃えられた黒髪は染めない。華美な服装に身を包むこともない。
ピアスや装飾品なども一切身につけておらず、質素な腕時計が巻かれているくらいだ。
友人に誘われれば。
飲み会なるものに一応参加はするようだが、基本的に夜遊びや女遊びはしない。
年齢のわりには礼儀をわきまえており、気配りがしっかりできるようで。
百七十後半の身長に、やや控えめだが物腰柔らかな性格。
そして、上品で甘い顔立ち故に、多くの女からそれなりの好印象を得やすい。
彼に好意を抱いている女に押し切られ、仕方なしに一夜限りで性行為をすることも、多々あるようだった。
まあ、彼もまだ二十そこらの学生。
年相応に、そういう戯れだってするだろう。
ここまで見てみれば。
なんの面白みもない、つまらない男だなと興味を失っているところだ。
別の標的を探そうとは思っていた。 が、ひとつ気がかりだったのは、張りついたような彼の笑顔。
それは、感情が微塵も動いていない、作り物の笑顔だった。
何故、わざわざ仮面を被ってまで笑っているのだろうか。
その笑顔の仮面の向こう。
隠された本性がなんとなく気になって、再び観察を始めてからほどなくした頃。
本当の彼を初めて垣間見た時に、私は心を鷲掴みにされて、この人に夢中になってしまった。
ある日の早朝。
彼が駅のホームで、ぼんやりと電車を待っていた時のことだ。
電車が到着する直前。
身なりの薄汚い男が、おぼつかない足取りで線路に飛び込む。
次の瞬間には、電車に撥ねられて肉塊となり、辺りに血の雨を降らせた。
その風貌から見るに。
膨大な借金を抱えて首が回らなくなり、絶望の果てに飛び込んだ、といったところだろうか。
まあ、そんな些細なことはどうでもいい。
電車を待っていた人間たちの悲鳴と嗚咽で、たちまちホームが阿鼻叫喚のありさまとなる。
携帯を片手に、興奮した様子で忙しなく現場の写真を撮る者。
駅のホームの隅で、胃液を吐き出している者。
凄惨な様子を眺めることしかできず、呆然と立ち尽くしている者。
各種各様な反応が織りなす、混沌が繰り広げられている中で。
我関せずの彼は、爛々と瞳を輝かせて、地面にこびりついた肉片を見つめていたのだった。
その様はまるで。
欲しくて欲しくてたまらなかった玩具を、ようやく買い与えてもらった子どものようで。
なんて純粋で、邪悪なのだろうか。
そんな彼の姿が視界に入った瞬間。
私の胸がどうにもならないほど高鳴り、奪われた視線が彼に釘づけとなってしまった。
たった一人。
至福の表情を浮かべる彼——セイジロウ。
人の命が儚く散る光景。
生々しくも美しい、肉と血が描きだす断末魔。
それらすべてをこよなく愛し、筆舌に尽くし難い興奮を感じる異常者。
これが、張りついた笑顔の向こうにあったセイジロウの本性だったのだ。
ああ、セイジロウ。
セイジロウ、セイジロウセイジロウ。
なんて素敵で、私の心をひきつける魅力的な男。
その名前を口にする度。
電流が走ったかのように全身を駆け巡るのは、とてつもない背徳感と爽快感。
今すぐにでも、彼が欲しくて仕方ない。
本性を剥き出しにした彼と共にありたいと思った。
そうして私は、窮屈な繭に包まれたセイジロウを、必ずや羽化させてあげようと決意したのだった。
※
誠次郎。
この名前には、一応意味がある。
誠実な人間であれという願いと、単純に二番目の子だったから、それらを組み合わせて誠次郎。
苗字をくっつけると、諸星誠次郎
それが僕の名前だ。
父は小さいながらも会社を経営しており。
経営が軌道に乗っていたおかげで、比較的裕福な家庭で育った。
そのおかげで、この世に生を受けてから今の今まで、金銭面で困った事は特になかった。
会社の経営が右肩上がりになるまで。
散々に苦労してきたという父は、兄と僕が幼少期の頃から礼儀作法や学業、その他習い事を含めて非常に厳しい教育を施した。
今でこそ、子どもに同じ苦労をさせないため、という親心は理解できなくもない。
でも、当時の僕にとって、それは生き地獄のような毎日だったのだ。
だってそうだろう。
父の意向に沿えば褒められ、反すれば叱られて罵られる。
時には激しい暴力を振るわれて、食事を抜かれることすらあったのだから。
兄と僕は、父の命令に死に物狂いで従い、人工の優等生を目指して頑張る羽目となる。
成績優秀で、スポーツが出来て、友達から信頼される。絵に描いたような優等生像。
それを目指して、兄と僕は互いに手を取り合って、血眼で努力する毎日。
結果として、必死の思いで優等生にはなれたものの。
その代償に、僕たちは自分の意思と感情を失くしてしまった。
父の描いた理想像を追い求めるだけの、機械仕掛けの人形に成り果ててしまったのだった。
最早、生きているのか死んでいるのかさえもわからない。
命令だけを忠実に守って、ぼんやりと生きる人形だ。
しかし。
一緒に優等生にはなれたものの、兄と僕の頭脳には決定的な差があったらしい。
兄は一流の大学に受かり、僕は受からなかった。
跡取り息子の将来が明るい今。
呆れられて見放されて、父に勘当された僕は、当面の金を渡されるや否や、家から追い出された。
実に呆気ない縁切りではあったが、なにより父の呪縛から解放された事実に、心底ほっとしていた。
それからというものの。
空虚な毎日が過ぎていく中で、一人暮らしを始めてからしばらくが経った頃だ。
駅のホームで電車を待っていると、突然、目の前で人間が肉の破片になった。
美しかった。
僕は、心の底から感動した……!
これまで、生きているのか死んでいるのか、定かではなかった人形。
そんな人形は、人の美しい死を間近で目撃したことによって、ようやく自分が生きているという実感を得る事ができた。
もっと見たい。もっと感じたい。
人が死ぬことで得られる、自分が生きているという安堵感と心地の良い快感。
しかしながら。
やがてそれは、非人道的な嗜好で、最悪の価値観だと己を恥じる。
同時に、僕はその感情に蓋をして仕舞う。
そして再び、人形に戻ったはずだったのだが。
※
「……んん?」
心地の良い倦怠感と柔らかな感触。
そして、どこか甘い香りに包まれながら、僕は極上の目覚めを迎える。
格安マンションの自室。シングルベッドの上。
今の僕は一矢纏わぬ全裸の状態であり、それは腕の中で眠る髑髏の彼女も同様だった。
髑髏とはいえ。
異形の化け物然とした外見はどこへやら。
契約という儀式のようなものを終えたあと、彼女は髑髏から綺麗な女性に変貌を遂げたのだ。
微かに波打っている、黒い絹のような長く美しい髪の毛。
上向きのまつ毛を蓄えた、どこか冷たい印象を与える切れ長の目。
この世すべての男を虜にするであろう、細すぎず、しっかりとした丸みのある魅惑的なボディライン。
控えめに表したとしても、彼女は美しい。
僕は、一目で心を奪われてしまった。
人生で初めての、一目惚れというやつだった。
そんな彼女は、隣で可愛らしい寝息を立てながら、いまだ夢の中らしい。
無理もない。
僕だって、昼過ぎの起床だというのに、二度寝をしたい衝動に駆られているのだから。
昨晩。
本来の自分へと羽化したあとも、どうしたって興奮さめやらぬ、激しくとめどない感動。
理性では抑えられないほどに高ぶっていた熱情を、このベッドの上で一身に受けとめてくれた。
そして、優しく抱きしめてくれた。
もしかすると、見透かされていたのだろうか。
本当の自分に生まれ変わった喜びとは裏腹に、戸惑いや不安、未知なる己への恐怖が無かったわけではない。
それでも、彼女が親身になってくれたおかげで、結果的に救われたのだ。
簡潔に言うと、僕は一晩中彼女を抱いた。
本能と欲望の赴くまま、激しく、乱暴で、かつ情熱的に抱きまくった。
それでも、彼女は嫌がる素ぶりや、要求の拒否をひとつもせずに、僕のすべてを受け入れてくれたのだった。
こちらの自尊心を損ねることは決してせず。
僕を最大限に気遣い、時には奮い立たせてくれて、うって変わって彼女から激しく求めてくる場面もあった。
それはもう。
最高の女性だと言う他ないだろう。
これまで、それなりの女性を抱いてはきたものの、所詮は遊びの延長線。
まるで、おままごとのような。そう、くだらないごっこ遊びだったのだ。
夜明けまで行っていた行為こそが、本当の性交というものなのかもしれない。
僕はもう、二度と人間の女を抱くことはできないだろう。
「……セイジロウ? もう、起きてたの」
彼女は、自分のことを死神だと言っていた。
噂では聞いたことがある。
全国で目撃情報の飛び交う、黒いローブを羽織った髑髏の怪物だ。
契約を交わせば、死神は主人の願いを叶えるために働き、その代償として魂を喰らう異形の存在。
僕の腕の中で。
寝ぼけ眼な愛らしい彼女が死神だなんて、俄かには信じ難い。
ぷっくりと実った尻だって、こんなに柔らかいというのに。
「あんっ……、もう、セイジロウったら! まだし足りないの? またする?」
まあ、死神だろうがなんだろうが、いいじゃないかそんな瑣末なこと。
魂を喰らう、か。
それなら好きなだけ喰らえばいい。
それで、彼女を僕の所有物にできるのなら、いくらでも差し出そう。
「抱きたいか、抱きたくないかと聞かれれば、もちろん抱きたいさ。 ……けど、今は無理そうかな。 さすがに羽目を外し過ぎたよ」
僕の情けない発言に、彼女はくすくすと笑いながら、ゆったりと上半身を起こす。 と同時に、形の良い双丘が揺れる。
淡い赤の痕。僕のつけた痕が刻みこまれた白い果実。
つられて起き上がる僕の肩に、彼女は頭の重みを預けながら、
「ねえ、セイジロウ。 私に名前をちょうだい? 名前が無いと、言葉を交わす時に不便だし、もどかしいわ」
と言った。
「……名前、か。 確かに、名前があれば、更にきみを好きになれそうだ」
「でしょっ?」
「でも参ったな。 僕は、いわゆるネーミングセンスってやつが欠けているんだ」
あれは、小学生の頃だったか。
クラスでうさぎを飼うことになって。
みんなで名前の候補を出し合っている中、僕の挙げた名前だけが嘲笑された。クラスの全員から。
それくらい、名前をつけるセンスが無いらしいのだ。
そんなわけで。
美麗な彼女に相応しい名前なんて、僕に考えつくわけもなく。
ただ、腕を組んで首を傾げているだけになってしまう。
「そんなに思い詰めなくてもいいのに」
「そうは言っても、きみに下手な名前をつけるわけにはいかないよ……、ん?」
ベッドの隣、小さなテーブルの上に置いてあるファッション雑誌の表紙。
レジーナ。
この文字に惹きつけられた。
確か、レディースファッションの有名なブランドの名前だ。
手頃な価格のわりには、高級感がそれなりにあって。
このブランドの服を着て、街を歩いている女性をよく見かける。
レジーナの意味は、イタリア語で「女王」、「王妃」だったか。
うん。
華やかな彼女にぴったりじゃないか。
「……レジーナ、はどうかな?」
「レジーナ……? レジーナ……うぅん」
自分としては、手応えのある命名だったと思う。
けど、彼女は難しい顔をして、一文字ずつ咀嚼するようにレジーナを連呼している。
気に入らなかったか。
落胆して、肩を落としそうになる僕を横目で見ると、
「ふふ、気に入ったわ! 最も、セイジロウがくれた名前なら、なんだって受けいれるつもりだったけど」
そう言って、レジーナは悪戯っぽく笑った。
胸がときめいてしまった。
ああ、だめだな。
どこまでも深みに落ちていってしまう。
「よかった。 よろしくね、レジーナ」
「ええ、セイジロウ」
レジーナの肩を抱き寄せて、唇を重ねる。
そのまま、再び彼女を押し倒して抱き合う。
「んぅっ……。 ねえ、セイジロウ。 これから、どうするつもり?」
「……どうっていうのは?」
「契約を交わしたのだから、私はあなたの欲望を叶えるために、全力で手助けするわ」
レジーナはそう言うと、細い指で僕の頬を撫でる。
呼応するように、僕は首筋を舐めてみた。
「そうだな……。 まずは、人間を一人、殺してみようか。 それで満足できないのなら、また一人。 ……実践あるのみってやつだね」
「んふっ、……楽しみね。 狂乱の始まりだわ」
甘ったるい行為が行われている場に似つかわしくない、殺伐とした会話だ。
契約を交わす際に。
僕は、レジーナに己の欲望をひとつ曝け出した。
たくさんの人間を殺して、自分の生を実感したい、と。
僕はもう、自分を偽るなんて馬鹿な真似はしない。
思うがままに、望むがままに人生を謳歌しようと決めたのだ。
目の前で、快楽に喘いでいるレジーナと共に。
「……と、その前に、レジーナの服を買いに行こう」
「んっ。 服……?」
「ああ。 やっぱり、きみには綺麗で可愛くいてもらいたいから」
さあ。
狂乱に満ちた、楽しい宴の始まりだ。




