路地裏の邂逅
自分は、ごく平凡な人間のはずだ。
勉強はそこそこで。
運動はチームの足を引っ張らない程度。
友達は、多くもなく少なくもなく。
身長は高い方かもしれないけど、特別顔が良いわけでもない。
実際、大学のキャンパスやカフェのバイト中、たまに連絡先を聞かれて、そのままお付き合いするくらいの控えめな女性遍歴。
性格だって、奥手で引っ込み思案だ。
おまけに。
人生を賭してでもやってやる、とか。自分の力でこの国をより良く変えたい、なんて。
大げさな目標を掲げて、なりたい職業があるわけでもなく。
過ぎ行く毎日を、なんとなく怠惰に浪費していた。
気がつくと。
ある程度勉強さえしておけば、入ることにはたいして苦労しない、薬学部のある国立大学に入っていた。
とはいえ、特別な自分になりたいと思ったことはなく。 ましてや、自分の手で何かを成し遂げようとしてこなかった僕にとって、講義や研究の日々は苦痛そのものだった。
普通でいい。
適度につまらなくて、たまに刺激があって。
生活には困らないくらいに稼げる仕事をこなして、そこそこ可愛い彼女にプロポーズして。
家と車を買って、そのうち子どもが産まれて。
幸せな日々を過ごして年を重ねて、老人になって、最終的には子どもや孫に看取られながら寿命で死ぬ。
そんな、どこにでもありふれた人生を全うできれば良いと思っていたのに。
それなのに。
「正直に答えてちょうだい。 それは、欲望の奥底にあるあなたの本心? おかしいわ。……本当のあなたは、圧倒的な刺激を、身が焦がれるほど求めているというのに?」
雑居ビルや別の建物の間にある細い路地裏で。
薄っすらとしていてぼやけた輪郭の髑髏が、僕に語りかけてくる。
一声聞けば、鼓膜が蕩けてしまいそうなほどに綺麗な音色は、奇怪な化け物にはおよそつり合っていなかった。
何がどうして、こんな状況になってしまったのか。
カフェのバイトを閉店時間までこなしたあと。
店の締め作業を終えると、仲間と別れて帰路に着く。
出された課題を片づけながら食べる夜食は何にしようか、なんて考えていたところ、この髑髏の化け物につき纏われて。
散々な質問攻めをくらいながら、走って逃げた先がこの路地裏だ。
じめじめとしていて、かび臭くて。
辺りには、飲食店やコンビニなどから出たであろう廃棄物や、生ごみを包んだビニール袋が所狭しと並んでいる。
様々な臭いが混ざり合った、なんとも言えない腐臭が嗅覚を支配する。
とてもだけど、清潔とは言い難い環境。
できることなら、髑髏の化け物には退散していただいて、一刻も早くこの場から退散したかった。
「……刺激? なんのことかな。 そんなもの求めちゃいないよ。 僕は、普通に暮らせればなんの文句もないんだ」
遭遇してから、ずっと訳のわからない問いを投げてくる正体不明の存在に、僕はいい加減うんざりしていた。
正直なところ、この髑髏が本当の化け物だろうが、霊の類いだろうがどうだっていい。
早く家に帰って、課題を片づけることの方がよほど重要だ。
「あら、そう。 ……でも、何故かしら。 そこらに溢れているつまらない有象無象と、あなたは決定的に違うの」
髑髏のしなやかな指が、僕の首筋をねっとりと撫でる。
反射的に、ぴくり、と体が跳ねてしまう。
そんな僕の反応を見て、表情こそ見えないものの、髑髏の口角が吊り上がったような気がした。
「あなたの瞳が、私をたまらなくぞくぞくさせて、心を鷲掴みにする。 ……それって、あなたが異常者だという動かぬ証拠なの」
「もうやめてくれッ! きみのくだらない戯言に付き合っているほど、僕は暇じゃないんだ!!」
我慢の限界に達した僕は、握り拳で背後の壁を思いきり殴る。
じんわりと血が滲む。帰って風呂に入った時に、染みてしまうだろうな。
「本当の自分をさらけ出すことができなくて、苦しいでしょう? あなたの中で蠢く欲望を、思いのままに解放できたら……、それは、とても気持ちの良いことなのよ?」
「……僕の中に、蠢く欲望? はっ、なんだよそれ。 僕にはね、欲望なんて無い!」
なんだ、この感覚は。
「……自分で言ってて悲しくなるけど、本当に無いんだ。 僕は、空っぽなんだっ!」
心臓が鷲掴みにされたかのような圧迫感。
浅い呼吸しかできないからか、息苦しくて頭が重い。
最早、体が暑いのか寒いのかわからなくて。
情けないほど笑っている膝のせいで、思わず尻餅をついてしまいそうになった。
眼前に漂う、髑髏の甘美なる深淵への誘惑が。
僕を闇の底へと引きずり込まんと、脚に絡みついてどうしたって離れてくれない。
「なんて可哀想。 自分の素晴らしい本質をまだ知らないのね。 ……あなたは差し詰め、鳥籠の中に閉じ込められた哀れな小鳥だわ」
「僕が、小鳥?」
「そう。 生まれながらに大空へ羽ばたける力を持っていながら、窮屈な鳥籠の中で啜り泣いているだけの小鳥なの」
ずいぶんと詩的な言い回しをする髑髏だと思った。
顔を見て感情を読みとることはできない。
それなのに、僕への献身的な姿勢がありありと感じられて、つい心が絆されてしまいそうになる。
しかし、心を傾けてしまえば最後。
二度と後戻りなどできない、闇の世界へと連れられてしまうだろう、と本能が危険信号を発していた。
なんて考えていると、髑髏の指が僕の手に絡みついてくる。
「私が、あなたを救ってあげる。 ……皮を剥いであげる」
「皮を、剥ぐ……!?」
突拍子もない発言に、声が上擦ってしまう。
瞬間。
背筋が凍てつくような気分をまざまざと味わいながら、絡みつく髑髏の指を引き離そうと懸命に暴れた。
冗談じゃない!
生皮なんか剥がされでもすれば、激痛の二文字で済まされるはずがないのは想像に容易い。
脳が、体へ信号を送る。 逃げろ、と。
しかし、悲しいかな。
脳から信号を受け取ったものの、髑髏の指を振り解くことは叶わず、そもそも両足が言う事を聞きそうになく。
情けなく、震えているだけだった。
終わった。
ただ平凡な人生すら送ることさえ叶わずに、僕は目の前の化け物に惨たらしく殺されて死ぬ。
なんて、つまらなくて呆気ない最後だろうか。
「心配しなくても大丈夫よ。 私ったら、言葉足らずだったわ。 本当にあなたの皮を剥ぐわけではない。 いえ、結果的には剥ぐのだけれど」
遠くから聞こえるのは、足音だ。
髑髏の視線が、ぐるりとそちらへ移る。
数メートル先に男が立っていた。
皺のある色褪せたスーツに、乱れた髪の毛と、くたびれた顔面。
見たところ。
まるで絵に描いたような、冴えない中年のサラリーマン、といったところか。
ひどく酔っ払っているのだろう。
ぶつぶつ独り言を垂れ流しながら、千鳥足で壁にぶつかっては離れたりを、一人で笑いながら繰り返している。
僕は、心の中で必死に叫ぶ。
だめだ。 ここに来てはだめだ。
もといた場所に、早く引き返せ。
じゃないと殺されるぞ、と。
けれど、虚しくも僕の叫びが届くことはなかった。
「剥ぐっていうのはね」
髑髏がそう言ったのを鼓膜で捉えてから、事が済むまでの流れは本当に一瞬で、鮮やかだった。
突風の様な衝撃に、たまらず僕は顔を腕で覆う。
辺り一面のゴミ袋が、重力を無視したかのように揃って宙を舞う。
「こうやって剥ぐのよ……!」
先ほどまで隣にいた髑髏の姿はなく。
辺りを見回すと、数メートル先にいたサラリーマンの腹部を、確かな輪郭と実体を得た右腕で容易く貫いていた。
「……は?」
人間という容器から、大量の血液が勢いよく吹き出ている。
その様は、昔縁日で取って遊んだ水風船が、そのまま地面に落下して破裂した時のようだ、と。
それほどチープな表現が似合うくらいに、人間の命がいとも容易く奪われようとしているのだ。
「あぁ……なんッ、だ!? ……ひ、おぉぉッ!?」
サラリーマンの男は、状況を把握することさえ許されず。
陸に上げられた魚のように口をぱくぱく開閉させて、びくんっ、と体を何度も跳ねさせる。
声にならない声を上げて失禁すると、ほどなくして絶命してしまった。
魂を失い、肉の塊となった身体が力を失う。
死してもなお滴り落ちる大量の血液が、真っ赤な水たまりを地面に作っていた。
凄惨な一連の光景に、僕はたまらず目を背けて、両手で口を覆う。そうでもしないと、こみ上げる胃液をぶちまけてしまいそうだったから。
強烈な吐き気と目眩。全身から汗の粒が一気に噴き上がる。
命というものは、こんなにも儚いものなのか。
こんなにも簡単に、散ってしまうものなのか。
「な、なんで、殺した? ……なんの意味があって、罪の無い人を殺したんだ!?」
吐き気をこらえながら叫ぶ。
髑髏はこちらへゆったりと振り向くと。
いまだ腕に食い込んでいる、サラリーマンの男であったものを軽々とこちらに投げて寄こした。
鈍い音を立てて、地面に叩きつけられる死体。
飛び出た臓物が、一緒にバウンドする。
数メートル離れているというのになんて腕力だ。
最早、人の力とは比べようもない。まさに、化け物じゃないか。
胎児のように体を折り曲げた亡骸は、折れた枝のようにくの字になっていた。
「さあ、いい加減化けの皮を剥がしなさいな。 その死体をよおく見てごらんなさい。 どう? さっきまで生きていたのよ?」
「どうって……、人の死体を見て、なにを感じろっていうんだ!?」
「まだ温かい、でも次第に冷たくなっていく。 儚い命が散る光景。 貴方はそれを、どう思う?」
なんともいえない色気を孕んだ髑髏の声。
恍惚とした音色は、人の命を奪う事こそが最上の喜びとでも言いたげであった。
「……く、狂ってる!」
こちらへ手を伸ばして、ゆっくりと近寄ってくる髑髏。
僕は、必死に後ずさりをしてかわす。
寄られれば下がってを繰り返した結果、最終的に背後の壁が後退を阻んだ。
行き止まりだ。
それでも。
うしろに歩を進めようとする僕の姿を見かねた髑髏が、呆れたように大きなため息を吐き捨てる。
「これでも自分を偽るのね。 強情な男だこと」
生憎だが、こちらには呆れられる筋合いなんてないだろうが。
「偽るもなにも、これが僕だっ。 僕は平凡だ! 特別になりたいわけじゃない!
死体を見てどう思う? どうもこうも、思うわけないだろ! 怖いよ……、今すぐここから、逃げ出したいくらいなんだッ!!」
「怖い? なら、あなたは何故笑っているのかしら? そんなにも楽しそうに」
「え?」
わざとらしく、首を傾げさせる髑髏。
なんだその戯言は。
そんなわけないだろう、と。
慌てて自分の口元に、手を這わせてみる。
そして、言葉を失った。
自分でも驚くほどに、口角がつり上がっていて。
犬歯まで露出するくらいに、歯が剥き出しになっているなんて。
自分の両手で触っている顔面は、本当に自分のものだというのか。
悪魔の顔を触っているのではないのか?
「……なんで、僕は笑っているんだ? 人が死んだっていうのに、僕はそれを楽しんでいるのか!?」
「それが、あなたの本質なのよ。 その証拠にほら、見てごらんなさい?」
指さされた方へ、素直に視線を向ける。
愕然とした。
自分の性器が信じられないくらいに怒張し、ズボンの中で激しく脈をうっているではないか。
女性を抱く時でも、これほどまでに太く、硬くなったことなんてない。
「ああっ、なんて素敵なのかしら」
うっとりとした声音の髑髏が、僕の立てたテントを軽く手で触れた。
なんだっていうんだ。
こうなってしまえば、もう否定のしようがないじゃないか。
僕は、異常者だ。
普通という仮面を必死に被って、自分の本質から目を逸らして。
人間の皮を纏っただけの、異常者だったのだ。
「……これが、本当の僕なのか」
亡骸の双眸が、恨めしそうに僕を睨みつけていた。




