第2話 本当のノーフォーク農業導入
第四章 砂の土地
一方その頃、子爵令嬢のシャルロットは、エミールの側近たちの話をよく聞いていた。
前世の記憶が戻る前からそうだった。
下層で暮らしていたころ、人の会話を聞くことは身を守る方法の一つだった。
子爵家へ引き取られた後も、その癖は変わらなかった。
中等教育まで十分に受けていない彼女へ、王子の側近たちは親切だった。
「この地方は小麦が中心です」
「こっちは羊毛ですね。海沿いなので港の収入もあります」
「公爵領には鉄もあります。王国内ではかなり経済力がありますよ」
「そうなんですね」
子爵令嬢は素直に聞いた。
側近たちは、ときどき彼女には難しいだろうと思っている話を、そのまま目の前で続けた。
「今年はあそこ、収量が少し落ちたらしい」
「でも土がいい。戻るだろう」
「輸送費の方が問題じゃないか」
子爵令嬢は、分からない顔をする必要さえなかった。
本当に分からない部分もある。
ただ、聞いたことは覚えた。
前世の記憶が戻ってからしばらくたったある日、子爵令嬢は第一王子へ尋ねた。
「殿下、少し変なことを聞いてもいいですか?」
「君の変な質問には慣れてきたよ。何?」
「小麦があまり取れなくて、海や川からつながるような砂の土地で、堆肥を入れてもすぐに流れてしまう広い場所ってありますか?」
第一王子は瞬きをした。
「砂地?」
「はい。広いところです」
「あるよ。王家の直轄地に、どうにも使いにくい場所がある」
「どれくらい使いにくいですか?」
「砂だと小麦は育ちにくい。うまく作れても、二年くらいで厳しくなるところもある。堆肥を入れても抜けていくから、領地として渡しても受け取った貴族が困る」
「だから王家が持っているんですね」
「そう。欲しがる家がなかった」
子爵令嬢は少し身を乗り出した。
「砂の下に泥灰土はありますか?」
「泥灰土?」
「粘りのある土です。砂の下に層があるかもしれません」
「調べれば分かると思う」
「もしあるなら、砂に混ぜて保水性を上げます。そうすれば堆肥も残りやすくなります」
第一王子が黙った。
子爵令嬢は続けた。
「すぐには畑になりません。安定するまで数年以上かかります。それでも、土が落ち着いたら六つに分けます」
「六つ?」
「小麦、大麦、カブ、大麦、クローバー、クローバーです。六つの畑で一年ずつずらして育てます。畑を囲って、クローバーのところでは牛なども飼います」
「牛まで?」
「草も食べますし、糞も使えます。砂地でも、何年も続ければ畑に変わっていきます」
第一王子はしばらく子爵令嬢を見つめた。
「誰に教わったの?」
聞かれると思っていた質問が来た。子爵令嬢は、倒れた夜から考えていた答えを使った。
「倒れたときに、神様から教わりました」
「神様」
「はい」
「ずいぶん具体的な神様だね」
「私もそう思います」
第一王子は笑った。
「分かった。研究所に聞いてみよう」
「お願いします」
その日のうちに話が王立研究所へ回った。
◇ ◇ ◇
数日後、王立研究所の農業技官エティエンヌが離宮へ来た。
「殿下、原理としてはおかしくありません」
エティエンヌは土壌の見本を机へ並べた。
「問題の直轄地には、砂層の下に泥灰土がある区域があります。混和は大仕事ですが、保水性は改善できるでしょう」
子爵令嬢が尋ねた。
「堆肥も残りやすくなりますか?」
「今よりは大幅に良くなるはずです。六圃式についても、試す価値があります」
第一王子が地図を見た。
「どのくらいから始める?」
「一圃あたり2km²でどうでしょう。六圃で12km²です」
「そんなに?」
子爵令嬢が少し驚いた。
農業技官は笑った。
「元がほぼ生産ゼロです。失敗しても既存農地の減収はありません。小さすぎる試験より、用水と区画整理まで含めて評価できます」
「では、それで」
第一王子が決めた。
子爵令嬢は、そこで別のことを思い出した。
「殿下、特許も先に出してください」
「まだ成功していないよ」
「原理は確認できて、実験にも入ります。正式に認められるのが十年後でも、先に出した記録に意味があります」
農業技官が子爵令嬢を見た。
「そこまで神様が?」
「はい」
第一王子が吹き出した。
「便利だな、その神様」
「私も助かっています」
第五章 鉄は国家なり
砂地の実験が始まって間もなく、子爵令嬢はまた第一王子へ話を持ち込んだ。
「殿下、鉄を増やしたいです」
「今度は鉄?」
「鉄は国家なり、です」
「それも神様?」
「そこも神様です」
第一王子は机へ頬杖をついた。
「聞こう」
子爵令嬢は紙を取り、簡単な流れを書いた。
「木材ではなく、石炭からコークスを作ります。鉄鉱石は細かいまま入れず、焼き固めます。その時に石灰岩も使います」
「待って。最初からもう分からない」
「王立研究所の人を呼びますか?」
「呼ぼう」
その日の午後には、冶金主任のマルセルを中心に、冶金と鉱山の技官が集められた。
子爵令嬢は同じ説明を繰り返した。
「高炉の中では、コークスを燃やして熱と一酸化炭素を作ります。鉄鉱石の酸化鉄から酸素を奪って鉄へ還元します。石灰岩は不純物をスラグへまとめるために使います」
マルセルが身を乗り出した。
「還元反応まで分かるのですか」
「分かります」
「高炉から出るのは銑鉄になります」
「その次に転炉です。炭素を落として鋼にします。鋼になったら、冷やしてしまう前にできるだけ熱いうちに圧延へ回します」
「圧延?」
「板や棒、形鋼にします。あと、高炉ガスとコークス炉ガスは捨てずに燃料へ回してください。熱風や加熱にも使えます」
部屋が静かになった。
第一王子が子爵令嬢を見る。
「君、本当に誰なんだろうね」
「子爵令嬢です」
「それは知ってる」
マルセルは紙を手に取った。
「全部をすぐに作れるとは言えません。ただ、個々の考え方は検討できます」
「国家事業でお願いします」
子爵令嬢が言うと、第一王子が目を丸くした。
「ずいぶん大きく出たな」
「高炉だけ作っても意味が薄いです。コークス、焼結、石灰岩、転炉、圧延、ガス利用までつながらないと」
「分かった。父上にも上げる」
こうして、王家側では製鉄の大規模な研究と建設が始まった。
第六章 王妃教育
子爵令嬢は、技術の話なら驚くほど具体的に話せた。
だが、王妃候補としての会話や所作は、なかなか同じようにはいかなかった。そこへ王族内部のいびりまで重なった。
ある夕方、以前の教師から「西の回廊奥の小広間へ」と教えられ、子爵令嬢は指定された時刻より早く到着した。ところが、扉は開かない。人も来ない。
「場所、ここですよね?」
同行した侍女も困った顔をした。
「私は、そのように聞いております」
二人が待ち続けていると、三十分以上たってから第一王子直属の警備責任者リュシアンが走ってきた。
「こちらにいらしたのですか。会議は南の小広間です」
「西だと教わりました」
「どなたからです?」
名前を答えた瞬間、警備役の顔つきが変わった。
南の小広間へ着くと、すでに王族たちは席についていた。
「また遅刻ですか」
女性王族の一人が冷たく言った。
「王妃になる方が、場所も覚えられないのでは困りますね」
別の王族が笑う。
皇后陛下マリーは止めなかった。
「申し訳ありません」
子爵令嬢は頭を下げ、空いている席へ座った。
その日の夜、第一王子が教師を呼んだ。
「西の回廊と教えたのか?」
「南の小広間と申し上げました」
「本人と侍女は西と聞いている」
「聞き違いでしょう」
教師は最後まで認めなかった。だが似たことが何度も続き、警備役が伝達経路を調べ始めると、嘘を教えた者や指示を出した者が少しずつ浮かんだ。問題のある教師は数人、第一王子の判断で職を解かれた。
その後に来たマドレーヌ先生は辛抱強かった。
「今の挨拶は少し早いですね」
「早いんですか?」
「相手がお言葉を終えるまで、ほんの少し待ってください」
「はい」
「視線も、もう少しだけ上へ」
「こうですか?」
「それで結構です」
マドレーヌ先生は、事情を理解している。シャルロットの所作がまだ上位貴族の水準に届かないところは、曖昧に褒めて済ませず、一つずつ直した。それと同時に、誰かが故意に間違った情報を流している時は、本人の失敗として扱わなかった。
「次の王族の集まりについて、衣装の指定を確認しました」
「何色ですか?」
「黒です」
「昨日、黄色だと聞きました」
「誰からです?」
子爵令嬢が名前を答えると、教師は一度目を閉じた。
「黒です。私が文書も確認しました」
「ありがとうございます」
「集合場所は南の小広間です。西の回廊という話は誤りです」
「そっちも違うことを聞きました」
「……今回は間に合いましたね」
教師は静かに言った。
こういうことが何度もあった。
◇ ◇ ◇
ある王族だけの集まりの日。
シャルロットは、渡された黄色いドレスを見ていた。
「マリー皇后陛下からです」
侍女が言った。
「今日はこちらを、と」
生地も仕立ても上等で、子爵令嬢がこれまで持ったどのドレスより高価なのは、触っただけで分かった。
「黄色なんですね」
「はい」
その日は、教師が別件で席を外していた。
子爵令嬢は黄色いドレスを着た。
会場へ入って、すぐに分かった。
女性王族は全員、黒だった。
視線が集まる。
一人が扇の陰で笑った。
「まあ」
「春の感謝祭には少し早いのでは?」
子爵令嬢は足を止めなかった。
席へ着き、必要な挨拶をして、言われた役割を最低限こなした。
終わった後、第一王子が早足で来た。
「誰にそれを着ろと言われた?」
「皇后陛下からいただきました」
「母上が?」
「はい。今日はこちらを、と」
第一王子の顔が硬くなる。
子爵令嬢は裾を少し持ち上げた。
「でも、これ、とてもいいドレスです」
「君は怒っていいんだよ」
「怒っても、黒にはなりません」
「そういう問題じゃない」
「死ぬわけでもありません」
その言葉に、第一王子は黙った。
子爵令嬢にとって、下層で暮らしていたころと比べれば、色を間違えて恥をかく程度は耐えられる。
やられたことは、きちんと覚えていた。
◇ ◇ ◇
数日後、春の感謝祭が来た。
子爵令嬢は、また同じ黄色いドレスを着た。
「それを着るの?」
第一王子が尋ねた。
「今日こそ、この衣装の日でしょう?」
「そうだけど」
「皇后陛下にいただいたものですから、着用する回数を増やしています」
「増やすんだ」
「私はドレスをあまり持っていません。この衣装が一番、生地も仕立てもいいんです。気に入っています」
子爵令嬢は本当にそう言った。
感謝祭の席で皇后陛下へ会うと、きれいに頭を下げた。
「皇后陛下、素敵な衣装をいただき、ありがとうございます。とても気に入っています」
マリー皇后陛下の口元が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……よく似合っていますよ」
「ありがとうございます」
それから子爵令嬢は、黄色をよく着るようになった。
王族の外にいる者たちは、最初の事情を知っている。
黒の中で一人だけ黄色だった一件も、集合場所を何度も違えて教えられたことも、もう宮廷では広く知られていた。
王族の外から見れば、子爵令嬢が王族内部で繰り返しいびられていること自体は疑いようがない。公爵家が元王族で、公爵令嬢も長く王妃候補としてその輪の中にいたため、「公爵令嬢も同じ側だったのだろう」という見方まで固まり始めていた。調査で公爵令嬢本人につながる伝達経路が出なくても、過去に一度も関わらなかったことを後から証明する材料は残りにくい。周囲では、そういうことだったのだ、と受け取る者が増えていた。
それでも彼女が黄色を着続けるうちに、意味が少しずつ変わっていった。
最初は間違った色、いじめに使われた色として知られた黄色が、いつしか彼女自身の色として見られるようになった。




