第1話 夜会へ向かう馬車 公爵令嬢と子爵令嬢の出会い
以前に公開していた作品の大幅加筆バージョンです。長くなったので連載にしました。
毎日2話ずつ公開していきます。
最初の部分だけはなるべくテンプレート通りにしていますが、その後からは大きく変わっていきます。
第一章 夜会へ向かう馬車
公爵令嬢ヴィヴィエンヌは、王宮へ向かう馬車の中で目を閉じていた。
夕刻の王都は混んでいた。馬車が何度も速度を落とすたび、窓の外から車輪の軋む音と馬の蹄の音が入ってくる。
「お嬢様、少しお顔の色が悪いようですが」
向かいに座る侍女が心配そうに身を乗り出した。
「大丈夫です。少し、急に思い出したことが多くて」
「思い出したこと、ですか?」
「ええ。ずいぶん昔のことです」
嘘ではなかった。
ほんの少し前まで、公爵令嬢には十五年以上にわたって積み上げてきた自分の記憶しかなかった。第一王子の婚約者として幼いころから王妃教育を受け、礼儀、語学、歴史、宮廷儀礼、外国使節への応対を覚え、失敗すれば翌日までに直してきた。その人生へ、突然もう一つの人生が流れ込んできた。
日本で生まれ、大学へ通っていた女子学生の記憶だった。
そして何より困ったのは、今いる世界を知っていたことだった。
「……この夜会だった」
「何かおっしゃいましたか?」
「いいえ」
前世で遊んだ乙女ゲームには、開始時に二人の主人公が用意されていた。
一人は、身分の低い家から王子の心を射止めていく少女。
もう一人は、幼いころから第一王子の婚約者だった公爵令嬢。
公爵令嬢側を選べば、王妃教育を受けながら婚約を守るルートにも、婚約を失った後に別の道へ進むルートにも分岐した。攻略情報まで何度も読んだ。
今夜は、その大きな分岐点だった。
「お嬢様、本当にお戻りにならなくてよろしいのですか?」
侍女がもう一度尋ねた。
「戻っても、たぶん間に合いません」
「何に、でしょう お嬢様」
「心配いらないわ ありがとう」
第一王子は、もう子爵令嬢に心を移している。
ゲームのイベントが現実になっているなら、今夜の婚約解消そのものを止めるのは難しい。公爵令嬢は窓の外を見ながら、そこだけは受け入れた。
だが、ゲームの筋書きには、受け入れられない部分があった。
彼女は子爵令嬢へ暴力を振るっていない。物を盗んでもいない。危険な薬物にも関わっていない。
馬車が王宮の車寄せへ入った。
「行きましょう」
「はい」
公爵令嬢は背筋を伸ばした。
前世のゲーム知識が戻ったからといって、何十年も王妃を務めてきたわけではない。今夜できることは、今まで受けた教育と、自分が覚えているゲームの展開を使って、必要なことを必要な順番で話すことだけだった。
◇ ◇ ◇
夜会の会場には、すでに多くの貴族が集まっていた。
第一王子エミールは中央にいた。
その隣に、淡い色のドレスを着た子爵令嬢シャルロットがいる。
彼女は今の子爵家で生まれ育った娘ではなかった。
父アンリ子爵が以前、妻以外の女性との間に作った子どもだった。正妻の娘が伝染病で亡くなった後、家へ引き取られ、子爵令嬢として社交界へ出るようになった。
それ以前の暮らしを知っている者は、貴族社会にはほとんどいない。
子爵令嬢は、公爵令嬢が入ってくるのを見つけると、第一王子の袖へそっと指を添えた。
「殿下」
「分かっている」
第一王子は小さく答え、それから公爵令嬢へ向き直った。
「来てくれてありがとう。君に話したいことがある」
「伺います」
ざわめきが静まっていく。
公爵令嬢は、その静けさまでゲームで見た覚えがあった。
「私は、真実の愛を見つけた」
第一王子は隣の子爵令嬢を見た。
「だから、君との婚約を解消したい」
会場の視線が一斉に公爵令嬢へ向いた。
彼女は一度だけ息を整えた。
「承知しました」
第一王子がわずかに目を見開いた。
「……それだけか」
「殿下が私との結婚を望まれない以上、婚約を続けても良い結果にはならないと思います。王家と公爵家で必要な手続きを進めてください」
「君は」
第一王子は言葉を切った。
ゲームなら、ここで公爵令嬢が激昂する場面だった。
だが彼女には、もっと重要なことがある。
「ただ、殿下」
「何だ」
「私が子爵令嬢へ行ったとされていることについては、ここで否定します」
空気が変わった。
「嫌がらせだけではない。彼女の物を盗んだこと、危険な薬物を所持していたこと、彼女の命を狙ったことも含まれている」
「はい。そのいずれも、私は行っていません」
公爵令嬢は第一王子を見たまま続けた。
「婚約の解消と、犯罪への関与は別の話です。婚約の件は受け入れます。犯罪に関する疑いについては、調べてください」
「調べれば、君に不利なことも出るかもしれない」
「それでもお願いします」
子爵令嬢が小さく首を振った。
「殿下、もう……。私は大丈夫です。これ以上、大きなことにしなくても」
公爵令嬢は、その言葉を聞いて子爵令嬢を見た。
柔らかい声だった。
相手を直接責める言葉は使わない。
ゲームのヒロインも、こういう話し方をしていた。
「私が求めているのは、事実の確認です。していないことまで認めるつもりはありません」
「私は、公爵令嬢様が全部したなんて……」
「あなたがどうお考えかは、調査の中で確認されるでしょう」
そこで公爵令嬢は口を閉じた。
これ以上は今夜話すことではない。
ただ、彼女には一つだけ、ゲームを知っている者特有の確信があった。
この筋書きには続きがある。
公爵令嬢側のルートなら、次に同じ種類の事件が起きる。その時に現場を押さえれば、状況がひっくり返る。
彼女は、それを露骨に言わないよう言葉を選んだ。
「これから先、同じようなことが起きるなら、今度はその場で確認できるようにしておきます。私の関与がないことも、その時なら分かるはずです」
子爵令嬢の顔から、ふっと血の気が引いた。
「どうした?」
第一王子が隣を見る。
「殿下……少し、めまいが」
「座れるか?」
「たぶん……」
言い終わる前に、子爵令嬢の身体が崩れた。
「おい!」
第一王子が抱き止める。
会場が一気に騒がしくなった。
公爵令嬢は、その場から動かなかった。
ゲームでは、ここでヒロインが倒れるイベントはなかった。
第二章 離宮の部屋
シャルロットが目を開けた時、天井は見慣れたものだった。
第一王子用の離宮。その中に用意された自分の部屋である。
寝台の横には水差しが置かれていた。侍女も医師もいない。
本人が目を覚ますまで静かに休ませるよう、第一王子が人払いをしたらしい。
子爵令嬢はしばらく天井を見つめた。
「……二十八歳」
声に出してみる。
頭の中に、今までの人生とは別の二十八年間がある。
前世は日本人だったが、学生時代からフランスで暮らしていた。その二十八年間の記憶が、今世の記憶へ一気に重なっていた。
「若い」
子爵令嬢は自分の手を持ち上げた。
指も手の甲も、二十八歳だった自分より明らかに若い。
「……得した」
そこまで考えてから、すぐに顔をしかめた。
「いや、そこじゃない」
身体を起こし、枕を背に入れる。
まず、今の自分が何をしてきたかを確認しないといけない。
この身体の記憶は消えていない。
むしろ二つの人生が重なり、どちらも自分の経験として思い出せる。
子爵家へ引き取られる前。
雨が降ると壁際が湿る部屋。薄いスープ。固いパン。誰かが誰かの財布を盗んだという話。金を貸した、返さない、殴った、逃げた。そんな会話が珍しくもなかった。
大人たちの話は、聞いていないふりをして聞いた。
誰と誰が揉めているのか、誰の機嫌が悪いのか、今夜はどの道を通らない方がいいのか、酒に酔うと手を上げるのは誰なのか。そんなことを一つずつ覚えた。
それを知らずに暮らす方が危なかった。
毒の話も、遠い世界の出来事ではなかった。
「まだ死んでないの?」
「量が少なかったんじゃないか」
「次は食わせ方を変えるってさ」
そんな会話を、子どものころから耳にした。
実際に人が死んだこともある。
子爵令嬢自身も、昔、置かれていたものをほんの少し舐めたことがあった。すぐ吐き出し、大人にひどく怒鳴られた。
その経験は、今も舌の奥に残っている気がした。
もう一つ、忘れられない男がいた。
ガブリエル。
子爵家へ引き取られる前、シャルロットが本気で好きだった、かなり年上の男だった。日に焼けた肌に、黙って立っていれば牧師のようにも見える落ち着いた顔をしていた。それでいて港では普通に荷を担ぎ、肩も腕も港湾労働者らしく太かった。付き合っている仲間には、まともとは言いにくい者も多かった。
「今日はあの連中と行かないで」
「何だ。心配してくれるのか」
「当たり前でしょう」
「じゃあ、帰ったら顔を見せる」
そう言って笑う男だった。善人だったとは思わない。それでもシャルロットにとっては、打算で近づいた相手ではなかった。男女として付き合い、本気で好きだった。
ガブリエルには薬を使う癖があった。使った後の様子が嫌で、ある日、シャルロットは残っていた薬をこっそり隠した。
「どこへやった?」
「知らない」
「お前、隠しただろ」
「知らないって言ってるでしょう」
ガブリエルは疑ったが、その時はそれ以上追及しなかった。シャルロットは、彼から薬をもらったわけではない。使わせたくなくて隠し、そのまま手元へ残した。
その関係は長く続かなかった。ガブリエルは街で撃たれて死んだ。
港から少し離れた通りで銃声がしたという話を聞いた時、シャルロットは誰のことか分からないふりをした。下層では、余計なことを知っている顔をするだけで危険になる。後から名前を聞いて、ようやく一人になって泣いた。
危ない人間と付き合えば危ない目に遭う。好きであっても、それで相手が善人になることはない。そういうことも、今世のシャルロットはもう知っていた。
そして子爵家へ引き取られ、別の人生が始まった後、その時に隠した薬を公爵令嬢の匂い袋へ入れた。
「……やったな、私」
子爵令嬢は額を押さえた。
子爵家へ来てからの自分は、下層で覚えた生き方を上流社会向けに変えていた。
相手の顔を見て欲しい言葉を読み、自分で断言するより先に、相手の方から結論を言わせる。そういうやり方が身についていた。
父親は、結婚している間に別の女性との間へ自分を作った。
父を完全な悪人だと決めれば、自分の存在そのものまで嫌になりそうだった。
だから男女関係について、厳格な線を引かなかった。
自分も好意を持った相手と関係を持ったし、ときには距離を縮めるために身体の関係を利用した。
そのころの自分には、それほど大きな矛盾がなかった。
子爵令嬢は、今世の記憶を一つずつたどった。
第一王子。
王子の近くにいる少年たち。
自分へうっすら恋心を持っていた同年代の貴族たち。
誰と何を話し、誰にどこまで近づいたか。
誰にどんな顔を見せたか。
「……妊娠はしてない」
そこは、かなり大きかった。
もし妊娠していても、この世界にDNA鑑定はない。第一王子とも関係がある以上、最悪の事態を避ける余地はあった。
だが、妊娠していないなら、その問題自体を考えなくていい。
前世の知識が戻った今、もう一つ怖いものがある。
「病気」
子爵令嬢は小さくつぶやいた。
今までの相手を一人ずつ思い出す。
明らかな症状の記憶はない。
それでも、これ以上手広く広げる理由はなかった。
「今日からはやめよう」
王子との関係だけを続ければ、それで足りる。
昔の相手たちも、自分が第一王子の相手になった今、過去を吹聴するとは考えにくい。将来王妃になるかもしれない女性との昔の関係を自慢するほど愚かなら、身分社会では本当に命に関わる。
対人関係も、いったんは大丈夫そうだった。
次に、公爵令嬢のことを考えた。
「……あの人」
婚約解消の場での発言を思い返す。
先の展開を知っているとは言わなかった。
だが、知らなければ出にくい言葉があった。
今度はその場で確認できるようにする。
同じことが次に起きると知っているような言い方だった。
「これ、よくある話なら、私がヒロイン側だよね」
前世の自分は、その乙女ゲームを遊んでいない。
題名すら知らない。
ただ、前世では似た構図の小説や漫画をいくつも知っていた。
公爵令嬢が前世持ちで、何かの物語を知っている可能性。
証拠はない。
試す必要もない。
「これ以上、あの人に何かするのはやめる」
公爵家は元王族で、家格が違う。
今は第一王子を自分の側へ引き寄せるところまで来た。ここからさらに公爵令嬢へ仕掛けて、たった一度でも失敗する方が損だった。
子爵令嬢は、過去の工作も点検した。
窃盗の件は、自分一人の虚偽だった。
偽の目撃者は作っていない。
シャルロットは、自分の持ち物がなくなったと一つずつ訴え、その品を学院内の四つの部屋にあるロッカーや収納へ入れておいた。どれも見つかればシャルロットの物だと分かる品だった。清掃や次の利用者が見つければ、忘れ物や落とし物として管理側へ届く。
四つの部屋はそれぞれ利用者が違う。ところが、その四部屋すべてを利用している人物はヴィヴィエンヌ一人だった。
一件だけなら、誰がそこへ入れたか分からない。
二件、三件、四件と重なるうちに、周囲の方が共通点を見つけた。
薬物の件では、ガブリエルから隠したまま持っていたものを、ヴィヴィエンヌの匂い袋へ忍ばせた。
誰が入れたかを示す目撃者はいない。
殺人未遂の訴えも、自分に対するものだった。こちらにも目撃者はいない。
公爵令嬢がやった証拠は薄い。
同時に、自分が仕掛けた証拠も薄い。
「もう足さない」
子爵令嬢はそう決めた。
ここで止めるのが一番安全だった。
第三章 来ない事件
翌日から、公爵令嬢は待った。
ゲームなら、もう一度事件が起きる。
公爵令嬢側のルートでは、そこで準備を整えて現場を押さえる。
攻略情報にも書かれていた。
この時点まで疑惑を完全に晴らすのは難しい。次のイベントで逆転する。
公爵令嬢は侍女を増やし、学院での移動にも気を配った。
「西棟へ行かれますか?」
「今日は行きません」
「図書室はいかがします?」
「午後にします。あなたも一緒に来てください」
「はい」
何日たっても、何も起きなかった。一週間が過ぎ、さらに二週間が過ぎても状況は変わらない。
公爵令嬢は、廊下の角を曲がるたびに周囲を見た。
子爵令嬢は第一王子のそばにいる。
時折こちらを見ることはあっても、近づいてこない。
「おかしい」
自室で、公爵令嬢は小さく言った。
侍女が紅茶を置く。
「何かございましたか?」
「来るはずのものが来ません」
「お手紙ですか?」
「手紙とは違います」
説明できない。
ゲームなら、ここで終わらない。
だが現実では、ゲームの次のイベントが起きなかった。
そのまま期限が来た。
学院側から正式な通知が届いた。
公爵令嬢は、貴族学院を退学する。
学院内での騒動、第一王子との婚約解消、王妃候補から外れたこと。いくつもの事情が重なり、以前から決められていた猶予期間が終わった。
「荷物はすべてまとまりました」
「ありがとう」
「領地へ戻られた後は、どうされますか?」
公爵令嬢は少し考えた。
「できることをします」
ゲームでは、領地へ戻った後にも選択肢があった。
農業、鉄、商業。画面では、それぞれが選択肢として並んでいた。
いくつかの選択をすると、時間差で数字が上がる。
現実でも同じようにいくとは限らない。
それでも、今の彼女にはゲームと攻略情報の記憶がある。
何もしないよりは、そこから使えるものを探したかった。
◇ ◇ ◇
公爵領へ戻ると、父シャルル公爵は娘を玄関広間まで迎えに出ていた。
「おかえり、ヴィヴィエンヌ。長い道中だっただろう。まずは無事に戻ってきてくれて安心したよ」
「ただいま戻りました、お父様」
「王都では、ずいぶん落ち着かない日が続いたと聞いている。婚約の件は、もう正式に話がまとまったのだね」
「はい」
「夜会で持ち出された疑いについては、調査が続いているのかな」
「調査は続いています。ただ、今のところ疑いをきれいに晴らせる材料が足りません」
「そうか。話してくれてありがとう。こちらでも必要な記録は残しておくよ。今日はその話ばかりを続けるより、少し休んだ方がいいだろう」
公爵は娘の顔を見て、穏やかに笑った。
「それで、落ち着いたら何をしてみたい。領地へ戻ってきたのだから、ヴィヴィエンヌが以前から考えていたことを聞かせてほしい」
「以前、農業技官と話していた件を進めたいです」
「4圃式の試験だね。前から資料を集めていたものだろう。技官たちとも相談して、無理のないところから始めてみるといい」
「はい」
ゲームでは、ノーフォーク農業を選ぶと、数ターン後に農業生産が増えた。
公爵領の農業技官たちも、輪作と飼料作物の利用について以前から検討していた。
会議室では、女性の農業技官が図面を広げる。
「試験区はここです。土壌はもともと平均以上ですから、急激な増収は期待しにくいと思います」
「それでも、やってみたいです」
「費用はかかります」
「父にも話しました。進めてください」
「承知しました」
もう一つ、ゲームで強かった選択肢が鉄だった。
領内には鉄鉱石がある。
製鉄関係の技官もいる。
ただし、この公爵領で使える技術は、木材を燃料にした高炉と、そこから得る銑鉄までだった。
「炉を増やせますか?」
「増やせます。ただ、木材の確保が先です」
「費用は?」
製鉄を担当する女性技官が少し言いにくそうな顔をした。
「かなりかかります」
「それでも、鉄は増えるのですね」
「銑鉄は増やせます」
公爵令嬢は頷いた。
ゲームでは、鉄の生産を選ぶと後から数字が伸びた。
それを信じて、こちらも実行に移した。




