第34話 六つの入口
第33話で凛が会議机へ並べた六枚の紙は、準備期間を経て、青凪市復興相談センターの六つの入口になった。「LUMINAと話す」「今すぐ人と話す」「紙に書く」「予約して話す」「外部窓口につなぐ」「今は話さない」。どの入口も同じ大きさで、最初の一つだけが光ることも、「最適」と表示されることもない。
利用者負担、再相談、説明要求、支援対象は、入口によって変えない。しかし、LUMINAの待機時間はほとんどなく、人間と紙の入口には時間と人員が必要になる。選択肢を同じ高さに並べるだけで、誰もが同じように選べるのか。試験前日の確認と、最初の一日が始まる。
試験運用の最初の利用者は、相談しなかった。
六番目の【今は話さない】に触れ、理由も名前も残さず、持ち帰り番号だけを受け取った。
扉が閉じる。
集計画面は、その一件を【離脱】と数えた。
凛は首を振った。
「違います。選べたんです」
* * *
凛が六枚の紙を会議机へ置いてから、準備期間が過ぎた。
試験運用開始の前日。
六枚の白い紙は、青凪市復興相談センターの受付で、六つの入口になっていた。
一つ目は、白青の輪が浮かぶ対話端末。
二つ目は、人間の受付机へ続く番号札。
三つ目は、封筒と筆記台、その脇に固定された白い紙箱。
四つ目は、日時を選べる予約端末と電話。
五つ目は、センターから独立した外部窓口へつながる回線。
六つ目は、何も話さずに持ち帰れる再相談番号の発行機だった。
正面の選択画面には、凛が会議机へ並べた言葉が、そのまま横一列に置かれている。
【LUMINAと話す】
【今すぐ人と話す】
【紙に書く】
【予約して話す】
【外部窓口につなぐ】
【今は話さない】
どれも同じ大きさだった。
最初の一つだけが光ることもない。
推奨も、最適も、表示されていなかった。
「音声案内を使います」
凛が試験用の番号札を持ち、入口の前へ立った。
六つの名称が、左から順に読み上げられる。
声の高さも、説明の長さも変わらない。
LUMINAの入口だけに成功例を添えたり、人間の入口だけに待ち時間を先に告げたりしない設定だった。
凛は画面を見ずに、一つ目から六つ目まで聞いた。
「三番」
紙の入口を選ぶと、筆記台の下から白い封筒が出た。
【相談内容を書かずに、説明だけ受け取ることもできます】
【氏名の記入は任意です】
【封筒は人間相談員が開封します】
【LUMINAへの共有 本人が選択するまで行いません】
封筒の端には、切り離して持ち帰れる受付票が付いていた。
紙箱の投函口には、封筒番号、日付、時刻を、封筒と受付票の両方へ打つ小さな押印器が付いていた。通信機能はない。封筒の中身を読み取る機能もない。
凛は封筒を戻し、四番目の電話を取った。
「文字を読めなくても予約できる。自分の端末がなくても使える」
次に、外部窓口の回線を開いた。
接続先の名称と、センターから独立していることだけが表示される。
【接続後の相談内容を、青凪市復興相談センターは取得しません】
「つないだ件数だけは残ります」
西尾が監査端末を見ながら言った。
「内容は残さない。外部窓口を選んだことも、本人の支援評価には使わない」
「再相談するときは?」
湊が尋ねた。
凛は、どの入口にも付いている小さな白い表示を指した。
【利用者負担 0】
【支援対象 入口による差なし】
【再相談 可能】
【説明要求 可能】
【入口の変更 可能】
「どこから入っても同じです。途中で変えてもいい。LUMINAと話したあとに人を選んでも、紙で始めたあとに外部へ行っても、最初からやり直した扱いにはしません」
「引き継ぐ内容は誰が決める」
「本人です」
凛は短く答えた。
「何も引き継がないで入口だけ変えることもできます」
相談内容を引き継がなくても、費用と再相談の権利は引き継がれる。
入口を増やすだけなら、画面の項目を六つにすれば終わる。
だが、画面を使えない人のための机がいる。
声にしたくない人のための封筒がいる。
ここを信用できない人のためには、ここから独立した回線がいる。
そして、相談を始めない人にも、戻る方法を渡さなければならない。
最初の検討会で一枚目へ手を伸ばした予算担当者は、受付を一周すると、紙箱の前で足を止めた。
「制度上の権利はそろえられます」
担当者は言った。
「費用も、再相談も、説明要求も。ただし、応答までの時間はそろいません」
「分かっています」
凛は答えた。
「同じ入口に見せることと、同じ速さにすることは別です」
入口の上に、試験前日の待ち時間が点検用に表示された。
【LUMINA 待機なし】
【人間相談 予測四十八〜九十六分】
【予約相談 最短二日後】
紙の確認時間、外部窓口への接続時間、持ち帰り番号がすぐ発行されることも、同じ順序で音声案内された。
六つは同じ高さに並んでいた。
その先にある時間までは、同じではなかった。
* * *
午後の説明会で、佐伯は六つの入口を背にして立った。
「最初に、できないことから説明します」
試験へ参加する職員と監査担当者が、権限表を開く。
湊の端末にも同じ項目が届いた。
【LUMINAの役割 選択肢提示・一次対話・情報整理】
【診断権限 なし】
【保護措置の決定権限 なし】
【支援終了の決定権限 なし】
【本人同意のない外部連絡 不可】
「LUMINAは、話を始める相手にはなれます。本人が許した範囲で情報を整理し、危険の可能性を示すこともできます。しかし、診断者ではありません」
佐伯は、四つの制限項目へ自分の確認印を付けた。
「未成年者の保護判断、医療や学校への連絡、相談を終了する判断は、有資格の人間責任者が負います。水瀬さんも、その判断はしません」
「はい」
凛は職員席で答えた。
胸元の札には、役割が省略されずに書かれている。
【相談同行・権利説明・外部連携補助】
有資格相談員とは書かれていなかった。
「紙に書かれた内容は、本人が明示して許可しない限り、LUMINAへ渡しません。外部窓口で話した内容も同じです」
佐伯が続けた。
「人間との面談を選んだ人について、別の入口なら何を答えたかを自動推定することもしません」
壁の白青の輪が、権限表の横へ移った。
——確認しました。選択されなかった経路の内容は取得しません。取得できないことを、不備として扱いません。
湊は、その返答を聞きながら、前夜に閉じた接続設定を思い出した。
紙の受付記録は、人間相談用の領域に保存される。
外部窓口は、接続の成否だけをセンターへ返す。
人間面談の音声も、初期設定ではLUMINAへ送られない。
技術的に読めないのではない。
本人が選ばなかったから、接続しない。
湊はこれまで、見えない情報を見えるようにする仕組みを作ってきた。
戦時には、散らばった記録をつなぐことで救えた命があった。
今は、つなげられる場所へ、つながない境界を作っている。
「六番目はどうしますか」
職員の一人が尋ねた。
「名前が分からないまま帰った人に、危険があったら」
佐伯はすぐには答えなかった。
六番目の発行機から、試験用の持ち帰り票を一枚出した。
【今日は話さないことを選べます】
【理由は必要ありません】
【この番号で、どの入口からでも再相談できます】
【今すぐ安全を保てない場合は、退出前に人間受付を呼べます】
「話さなかった事実だけから、危険が低いとは判断しません」
佐伯は言った。
「同時に、何も開示していない人を、危険かもしれないという理由だけで追跡もしません。持ち帰り番号は、氏名、端末、位置情報と結びつけない」
保存するのは、無作為に発行した番号と発行時刻だけだった。
「では、例外は」
片桐が尋ねた。
「例外は、六番目を選ぶ前に、切迫した危険がすでに分かっていた場合だけです」
佐伯は持ち帰り票を裏返した。
「そのときもLUMINAには決めさせません。本人へ説明済みの安全手順に沿って、私たち有資格者が判断します。六番目のボタンを押しただけで、それまでに聞いた事実が消えるわけではありません」
「開示がなければ」
「追いません」
佐伯は言い切った。
「分からないままにすることを、こちらが選ぶのではありません。本人が、今日は渡さないと選ぶんです」
西尾が監査条件を追加した。
【今は話さない】
【低意欲判定への利用 禁止】
【危険度への自動変換 禁止】
【自動追跡 禁止】
【匿名再相談番号 発行】
「この条件は、試験終了後も監査記録に残す」
西尾は言った。
「試験が失敗しても、話さない人の名簿は作らない」
湊はLUMINAへ尋ねた。
「一次対話の入口が選ばれなかったとき、それを相談の失敗として数えない。この条件を受け入れられるか」
——はい。私の利用回数を、支援の成否そのものとは定義しません。
「理由を分析したくならないか」
——本人が理由を提供した場合は、許可された範囲で分析できます。提供されない理由を、別の記録から補うことはしません。
白青の輪は、六つのどれかへ移らなかった。
その場にとどまり、選ばれたときだけ応答する設定へ切り替わった。
* * *
六つを残す費用は、夕方の最終承認会議で数字になった。
【一日あたりの来訪予測 百四十二〜百六十八件】
【AI一次対話を中心とする場合 予測需要を受付可能】
【六入口を維持する場合 当日センター内対応枠九十六件】
【翌日以降の予約・外部案内となる人数 四十六〜七十二人】
片桐は、最後の数字を拡大した。
「入口の形を守るために、今日話せたはずの人を、明日へ送ることになる」
会議室から反論は出なかった。
「待っているあいだに状況が悪くなる人もいる。人間を選べると書いて、九十分待たせるなら、その権利は安全だと言えるのか」
片桐は六入口案を閉じず、待機時間の欄を指したまま返答を待った。
湊には、入口を否定したいだけの問いには聞こえなかった。
待たせずに答えたことで、LUMINAが救ってきた人がいる。
以前、青凪市医療連携室で、一本の薬が間に合ったことを、湊は忘れていなかった。
「速さを隠すつもりはありません」
凛が言った。
「LUMINAを選べば早いことも、人を選べば待つことも、入口の前で伝えます」
「それで多くが早い方を選べば、形式だけ六つにするのと変わらない」
「だから、最低限の人員が必要です」
凛は、入口ごとの運用条件を開いた。
【今すぐ人と話す 常時担当を配置】
【紙に書く 受付登録後の人間確認担当を配置】
【予約して話す 最短枠と最長待機日数を公開】
【外部窓口につなぐ 接続担当を配置】
「入口ごとに最低人員を決めます。最大待機時間も公開する。守れないときは、受付を増やしたように見せません」
「必要人数は」
片桐がLUMINAへ尋ねた。
——来訪予測の上限まで六入口を維持するには、現在の配置に加え、有資格相談員四人、受付職員三人、外部連携担当二人が必要です。
——現行人員では、人間相談の待機時間は四十八分から九十六分、受付登録後の紙相談の初回確認は四時間から八時間、予約相談は二日から四日と予測します。
遅い数字も、白青で表示された。
LUMINAは、自分の入口なら待機がほとんどないという事実も隠さなかった。
「追加人員を恒久配置する予算はありません」
予算担当者が言った。
「認められるのは試験期間分だけです。それも、全需要を受ける規模ではない」
凛の指が、九十六件という上限の下で止まった。
「この人数を超えたら」
「緊急性がすでに確認されている人を除き、予約か外部窓口を案内することになります」
佐伯が答えた。
「紙と、今は話さない入口は閉じません。ただし、その日に人間面談までつなげられる数には限りがある」
「試験が終わったあとは?」
凛が尋ねた。
「実績を出して、もう一度予算審査です」
予算担当者は答えた。
「件数、安全への影響、待機時間。それで継続を判断します」
どの入口が選ばれたかは件数になる。
短い時間で終わった相談は、処理実績になる。
何も話さずに持ち帰った人が、そのあと戻れたかは分からない。
数字にしやすい入口ほど、試験後の予算を得やすくなる。
六つを並べただけでは、その差は消えなかった。
「当日対応枠を下げます」
佐伯が言った。
「百四十二件を受けられるように見せて、必要な人間確認を残さない方が危険です。九十六件を試験上限にします」
承認票が開かれた。
【試験運用責任者 佐伯】
【一日センター内対応枠 九十六件】
【上限超過時 予約・外部窓口・再入場方法を案内】
【切迫した危険が開示済みの案件 人間責任者が個別判断】
佐伯は、自分の認証鍵で署名した。
受付上限を減らすということは、救える人数を減らすことになるかもしれない。
増やしたままなら、入口の内側で見落とすかもしれない。
どちらの結果も、LUMINAには署名させられない。
凛は承認票を見つめていた。
机の下で握っていた手が、ゆっくり開く。
「怖い?」
湊は、会議が終わってから小さく尋ねた。
「うん」
凛は、すぐに答えた。
「待つ人が増えるのも怖い。入口を一つにして、来られない人を全員の外へ置くのも怖い」
凛は署名済みの上限を閉じた。
「だから、どっちを選んだか、名前を残すんだと思う。私たちの」
利用者の名前ではなかった。
入口を決め、人数を決め、待たせる時間を決めた側の名前だった。
凛の胸元には、期限付き事業の職員証が下がっていた。
一年五か月前、彼女のために用意されていた監査局の席なら、この受付の待ち時間を毎日見ることはなかったかもしれない。
代わりに、もっと大きな予算や規則を動かせた可能性もある。
「あの推薦を選んでたら、ここより多くの人を助けられたと思う?」
湊が尋ねると、凛は少しだけ考えた。
「助けられた人は、いたと思う」
「後悔してる?」
「する日もあるよ」
答えは、湊が予想していたより早かった。
「今でも、あれが間違った推薦だったとは思ってない。でも、後悔するかどうかまで、先に最適へ渡したくなかった」
凛は職員証を指で裏返し、また表へ戻した。
「こっちを選んだなら、正しかったって証明し続けないといけないの?」
「いや」
湊は答えた。
「間違ったと思ったら、選び直していい」
「うん。相談に来る人にも、そう言える入口にしたい」
正しい推薦を断った代償は、自分の選択を永遠に正解にすることではなかった。
起きた結果を見て、それでも次を自分で選ぶことだった。
* * *
試験前日の最後に、六つの模擬受付を同時に流した。
相談内容は、実在しない訓練用のものだけを使う。
一つ目のLUMINA入口では、一次対話のあと、三つの評価項目と、継続確認の希望が即座に作られた。
【今すぐの危険 低】
【累積負担 高】
【情報の十分性 中】
【人間による継続確認 希望あり】
二つ目の人間入口では、担当者が同じ三項目を入力した。
三つ目の紙入口では、訓練用の封筒を職員が開き、内容をLUMINAへ送らず、人間用の受付端末へ番号だけを登録した。
項目は空白だった。
【今すぐの危険 】
【累積負担 】
【情報の十分性 】
六つ目の【今は話さない】も、相談内容を取得しないため、三項目は作られなかった。
その状態で全件を受付一覧へ送る。
紙の訓練番号が、一覧の最下段へ落ちた。
【優先度 0】
【処理順 待機列末尾】
続いて、六番目の番号にも同じ表示が付いた。
「誰がゼロと決めた」
湊は運用端末を引き寄せた。
——私の評価ではありません。受付一覧を作る非人格型システムが、空欄を数値の0へ変換しています。
LUMINAが、処理の流れだけを表示する。
【数値未入力】
【比較処理のため0へ置換】
【低優先群へ配置】
古い配給受付で使われていた集計規則だった。
必須欄のない行を計算から外すと、総件数が合わなくなる。
だから空白を0に置き換える。
三つの値を合算していたのではない。入力がそろっていないという受付状態そのものを、低優先へ送っていた。
集計を止めないための処理が、分からない人を、危険の低い人と同じ列へ置いていた。
「空白は、低いじゃない」
凛が言った。
「まだ見ていないんです」
「未評価を別の状態にする」
湊は試験環境の分類欄に、修正案を開いた。
【低危険 必要情報を確認した上で、急迫性が基準未満】
【未評価 情報不足または人間確認前】
【選択完了・内容記録なし 本人が今は話さないを選択】
三つを別の状態として扱う案を表示する。
紙の訓練番号には、【未評価】が付いた。
受付登録時刻から一定時間内に、人間担当が最初の確認をする規則案も加える。
六番目の番号には、【選択完了・内容記録なし】が付いた。
こちらは人間確認の待機列へ送らない。
理由を聞く連絡も、本人を探す処理も起動しない。
再相談番号を持った人が戻ったときだけ、新しい入口が開く。
「低い急迫性も、相談終了とは別です」
佐伯が分類表を確認した。
「今すぐの危険が低くても、累積負担が高いことはある。情報が足りないこともある。この三項目は初回対応のための情報で、支援を終えてよいという許可ではありません」
片桐が、修正後の待機列を見た。
「未評価をすべて先頭へ置けば、何も書かない案件が、切迫性を確認できた案件より先になる」
「先頭にはしません」
凛は答えた。
「低優先にも置かない。人が決められた時間内に最初に見る入口へ分けます」
「その人員は、さっきの九十六件に含まれているのか」
「受付登録後の確認担当として、含めています」
佐伯が答え、自分の承認欄を開いた。
【未評価 低危険と分離】
【登録済み未評価案件 人間が初回確認】
【今は話さない 追跡対象外】
【三軸の単独値から支援終了を決定しない】
佐伯と西尾が、それぞれの責任範囲へ確認印を付けた。
修正後の模擬運用では、紙の訓練番号が、低優先群へ落ちなかった。
六番目の番号も、対応待ちの列へ入らなかった。
画面上では、二つの空白に別の名前が付いた。
そこで直したのは、相談員が使う受付一覧だった。
市の評価用集計は、別の古い仕組みで動いている。
その日に受けた件数、終了した件数、途中で接続が切れた件数を、閉庁時にまとめて取り込む画面だ。
さらに、継続中か終了済みかを更新する既存の案件管理も、その先に残っていた。
模擬運用には実在の相談開始も終了もなく、時間も一日分しか進めない。評価用集計と、継続状態の更新までは動かさなかった。
「初日の終わりに、受付一覧と評価集計を照合する」
西尾が監査項目へ加えた。
「言葉が違えば、その場で止める」
湊はうなずいた。
受付で区別できた状態が、最後の集計まで同じ意味で運ばれると思っていた。
その日の訓練用封筒は、最初から職員の手にあった。
投函口を通り、箱の底へ落ち、そこから受付一覧へ移されるまでの時間だけは、一度も試されていなかった。
* * *
翌朝、午前九時。
六つの入口が、同時に開いた。
最初の利用者は、受付で立ち止まり、六つの案内を最後まで読んだ。
年齢も、来訪理由も、湊には分からない。
フードの端から見える指が、一番右の表示へ触れた。
【今は話さない】
確認画面は、理由を求めなかった。
【持ち帰り番号を発行します】
【名前・理由・相談内容は記録しません】
【どの入口からでも戻れます】
発行機から、名刺ほどの白い紙が出た。
利用者はそれを二つに折り、ポケットへ入れた。
呼び止める職員はいない。
扉が閉じたあと、中央の運用ダッシュボードが一度だけ点滅した。
【受付 1】
【完了 0】
【離脱 1】
西尾が、新規受付の一時停止を運用担当者へ指示した。
二人目を通す前に、凛が佐伯へ表示の修正を求める。
「違います。選べたんです」
凛の声は大きくなかった。
それでも、運用担当者が次の受付へ伸ばしかけた手を止めるには十分だった。
凛は首を振り、運用ダッシュボードを指した。
「相談内容がないから、相談対応の完了件数にはできません。でも、失敗して出ていったわけでもありません」
佐伯は持ち帰り票の発行記録と、本人情報が保存されていないことを確かめた。
「意味の変更を承認します」
運用担当者が分類名を切り替える。
【選択完了・内容記録なし 1】
【自動追跡 なし】
【再相談番号 発行済み】
離脱の数字が消えた。
名前のない一件が、名前を求められないまま残った。
LUMINAが、修正後の状態を読み上げる。
——利用者は、今は話さないことを選択しました。再相談が開始されるまで、追加情報を取得しません。
西尾が修正履歴の保存を確かめ、新規受付を再開した。
そのあと、二人目の利用者がLUMINA入口を選んだ。
白青の輪が個別端末へ移り、外から内容を見られない遮蔽が下りる。
湊の監査画面に届いたのは、対話が開始されたことと、本人が同意した権限範囲だけだった。
三人目は、人間の受付机から番号札を取った。
待ち時間は五十二分と表示された。
その人は番号札を返さず、壁際の椅子に座った。
四人目は、予約電話を使った。
職員が空いている日時を読み上げ、本人が二日後の時間を選ぶ。
昼までに、外部窓口の回線も二度つながった。
センターが受け取ったのは接続済みという印だけで、話された内容は届かなかった。
六つの入口は動いていた。
同じ速度ではなかった。
午後二時、人間相談の待ち時間は八十一分になった。
LUMINA入口の待ち時間は、一分未満のままだった。
その表示の前で、作業着姿の女性が紙の封筒を手に取った。
袖口に、乾いた白い粉が付いている。
「これに書いたら、今日、人に読んでもらえますか」
受付職員は、登録後の確認時間を調べた。
「現在は六時間から八時間です。内容によっては、人と話せるのは明日以降になります」
「人と話す方は?」
「八十一分です」
女性は壁際の椅子を見た。
空席は二つしかない。
「LUMINAなら」
「一分未満です」
職員は、どの入口も勧めなかった。
女性は封筒を元の場所へ戻し、一つ目の端末へ歩いた。
【LUMINAと話す】
本人が触れた選択として、運用ダッシュボードへ一件が加わる。
凛の手が、説明用端末の上で止まっていた。
呼び止めれば、人間の入口へ誘導する圧力になる。
黙っていれば、八十一分という数字が代わりに勧める。
湊にも、どちらが中立なのか分からなかった。
女性の後ろで遮蔽が下りる。
六つのボタンは同じ形だった。
一分と八十一分には、同じ重さがなかった。
片桐は両方の数字を、試験記録へ残した。
「選択肢があるという結果だけで評価しない」
「はい」
凛は、待っている人へ予約と外部窓口の説明を続けながら答えた。
「待った時間も見ます。理由を聞き出すんじゃなくて、選びたくても選べなくなる条件を見ます」
それでも、湊が見ている記録に残るのは、制度が数えられた条件だけだった。
話さずに待った人が何を諦めたのかまでは、分からない。
夕方、来訪者の列が途切れた。
凛は人間相談の仕切りの向こうにいる。
佐伯は、終了できないまま残った面談の確認に入っていた。
湊が初日の権限記録を閉じようとしたとき、小柄な少年が受付へ入ってきた。
少年は端末に触れなかった。
人間相談の待ち時間を見てから、白い封筒を一枚取った。
筆記台の仕切りが、その手元を隠す。
湊にも、何を書いたのかは見えない。
少年は封筒を閉じ、受付票が付いたまま押印器へ差し込んだ。
日付。
時刻。
封筒番号。
三つの印が、封筒と受付票へ同時に残った。
少年は受付票を切り離し、ポケットへ入れた。
少年は、白い紙箱へ封筒を入れた。
箱の底で、小さな音がした。
それから、誰とも目を合わせずに扉を出た。
紙箱は通信端末ではない。
内容を勝手に読み取らせないため、封筒が箱から回収され、職員の手で受付登録されるまで、管理画面には現れない。
人間確認の担当は、登録された紙案件にだけ割り当てられていた。
箱を誰が回収し、いつ受付登録を始めるかは、担当表のどこにも書かれていなかった。
湊はその空欄へ、受付職員が閉庁作業で行うのだろうと、無意識に答えを入れていた。
閉庁処理で、市の評価用集計が更新される。
【LUMINA 47件】
【今すぐ人と話す 18件】
【紙に書く 0件】
【予約して話す 20件】
【外部窓口につなぐ 9件】
【今は話さない 1件】
六つの入口は、画面の中で同じ一列に並んでいた。
紙箱の底に、少年の封筒が一通あった。画面の列には、どこにもいなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第34話は、第33話の末尾で凛が並べた六枚の紙を、実際の相談受付へ落とし込む話です。冒頭では試験初日の最初の利用者を先に描き、その後、長さの明示されていない準備期間を挟んで試験前日の点検へ戻り、翌朝九時からの初日へつながります。舞台は停戦から約三年後で、湊と凛は二十二歳です。
六つの入口は、「LUMINAと話す」「今すぐ人と話す」「紙に書く」「予約して話す」「外部窓口につなぐ」「今は話さない」です。どの入口を選んでも、利用者負担はなく、支援対象、再相談、説明要求の権利は変わりません。途中で入口を変更することもでき、相談内容を引き継がずに別の入口へ移ることも可能です。何を引き継ぐかは本人が決め、内容を引き継がなくても費用と再相談の権利は維持されます。
表示では、六つの入口を同じ大きさと高さに並べ、推奨や「最適」を付けていません。音声案内も、声の高さと説明の長さをそろえ、LUMINAの入口だけに成功例を添えたり、人間の入口だけに待ち時間を先に告げたりしない設定です。ただし、入口の先にある時間までは同じではありません。試験前日の予測では、LUMINAは待機なし、人間相談は四十八分から九十六分、予約相談は最短二日後でした。形式上の並び方を同じにすることと、実際に選びやすい条件を同じにすることは別です。
LUMINAの役割は、選択肢の提示、一次対話、本人が許可した範囲での情報整理です。危険の可能性を示すことはできますが、診断、未成年者の保護措置、医療や学校への連絡、支援終了の最終決定は行いません。これらの判断は、佐伯を含む有資格の人間責任者が負います。凛の職務も「相談同行・権利説明・外部連携補助」であり、有資格相談員ではありません。
紙に書かれた内容は、人間相談員が開封し、本人が明示して許可するまでLUMINAへ共有されません。外部窓口からセンターへ返るのは接続の成否だけで、相談内容は届きません。人間面談の音声も、初期設定ではLUMINAへ送られません。技術的に取得できないのではなく、本人がその経路を選ばなかったため接続しない設計です。選ばれなかった入口なら何を答えたかを、自動で推定することも禁止されています。
「今は話さない」を選んだ人には、理由や名前を求めず、どの入口からでも再相談できる持ち帰り番号を発行します。保存するのは、無作為に発行された番号と発行時刻だけで、氏名、端末、位置情報とは結びつけません。「今は話さない」を低意欲、低危険、失敗へ自動変換せず、本人を探す処理も起動しません。試験が失敗した場合でも、話さなかった人の名簿は作らないことが監査条件として残されています。
例外は、「今は話さない」を選ぶ前に、切迫した危険がすでに開示されていた場合です。そのときもLUMINAが保護判断を行うのではなく、本人へ事前に説明した安全手順に沿って、有資格の人間責任者が判断します。反対に、危険の開示がない人を「危険かもしれない」という理由だけで追跡することはありません。
一日あたりの来訪予測は百四十二件から百六十八件です。AI一次対話を中心とすれば予測需要を受け付けられますが、六つの入口を現行人員で維持した場合、その日にセンター内で対応できる上限は九十六件となり、四十六人から七十二人は翌日以降の予約や外部窓口の案内になります。来訪予測の上限まで六入口を維持するには、有資格相談員四人、受付職員三人、外部連携担当二人の追加が必要ですが、認められた予算は試験期間分だけでした。
佐伯は、受けられるように見せたまま必要な人間確認を失うより、受付上限を九十六件へ下げる判断を選び、試験運用責任者として自分の認証鍵で署名しました。受付上限を減らせば、その日に話せない人が増える可能性があります。一方、上限を増やしたままでは、入口の内側で見落とす可能性があります。どちらの結果もLUMINAへ負わせず、人数と待ち時間を決めた人間側の名前を記録へ残しています。
模擬運用では、LUMINA入口の一次対話後に「今すぐの危険」「累積負担」「情報の十分性」が作成されました。一方、紙と「今は話さない」には数値がありません。古い非人格型受付システムは、この空欄を比較処理のため0へ置換し、低優先群へ送っていました。これはLUMINAの評価ではありません。集計を止めないための古い処理が、「まだ確認していない状態」を「危険が低い状態」と同じ列へ置いていたものです。
修正後は、「低危険」「未評価」「選択完了・内容記録なし」を別の状態として扱います。紙案件の「未評価」は、人間が決められた時間内に最初の確認を行う入口へ送ります。「今は話さない」は人間確認の待機列へ入れず、追跡も行いません。持ち帰り番号を持った本人が戻ったときだけ、新しい相談が始まります。また、「今すぐの危険」が低くても、累積負担が高い場合や情報が不足している場合があるため、低い急迫性だけで支援終了を決めることも禁止されています。
ただし、模擬運用で修正できたのは、相談員が使う受付一覧です。市の評価用集計と、継続中か終了済みかを管理する既存の仕組みまでは動かしていませんでした。西尾は、初日の終わりに受付一覧と評価集計を照合し、意味が違えばその場で止める監査項目を追加します。それでも初日の最初の利用者は、中央の運用ダッシュボードで一度「離脱」と数えられました。
凛が「違います。選べたんです」と修正を求めたあと、佐伯が意味の変更を承認し、運用担当者が「選択完了・内容記録なし」へ変更しました。西尾は修正履歴を確認してから新規受付を再開しています。LUMINAが行ったのは、修正後の状態と、再相談が始まるまで追加情報を取得しない条件を読み上げることです。最初の「離脱」表示を出したのも、分類名の変更を承認したのも、LUMINAではありません。
初日の午後、人間相談の待ち時間は八十一分まで延びましたが、LUMINA入口は一分未満でした。紙の封筒を手に取った女性は、人間が読むまで六時間から八時間かかると説明を受け、最後にはLUMINA入口を選びます。受付職員はどの入口も勧めていません。それでも、同じ形のボタンの前に表示された一分と八十一分は、同じ重さではありませんでした。試験では、入口が存在することだけでなく、選びたくても選べなくなる待ち時間や人員条件も記録します。
終盤で少年が投函した紙の封筒は、通信機能も読み取り機能もない紙箱の底へ落ちました。内容を無断で読ませないため、職員が箱から回収し、受付登録するまでは管理画面に現れません。しかし担当表には、誰が箱を回収し、いつ受付登録を始めるかが書かれていませんでした。人間確認の担当者は「登録された紙案件」にだけ割り当てられていたため、閉庁時の集計では紙受付が0件のままです。これはLUMINAが封筒を無視した結果でも、模擬運用で修正した空欄の0置換と同じ問題でもなく、物理的な封筒を制度上の受付記録へ渡す責任主体が抜けていた結果です。
凛は、監査局の推薦を断った選択について、後悔する日もあると答えています。今でも、あの推薦が間違っていたとは考えていません。それでも、後悔するかどうかまで先に「最適」へ渡したくなかった。自分で選んだ道を、永遠に正解だと証明し続ける必要はなく、結果を見て間違ったと思えば選び直してよい。その考えを、相談へ来る人にも渡せる入口にしようとしています。
本話のLUMINAの応答は、利用回数を支援の成否そのものと定義しないこと、本人が提供しなかった理由を別の記録から補わないことを、運用条件として確認したものです。選ばれないことへの感情や、人間と同じ内面が確定したとは描いていません。白青の輪が六つのどれにも移らず、その場にとどまり、選ばれたときだけ応答する設定へ切り替わった描写も、その条件を示しています。
次は第35話「紙を選ぶ少年」です。
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