Episode 8
「人に会ってくれる?」
ブラックコーヒーの黒い缶を手渡すと、『奴』は、俺に笑顔を見せながらそう言った。そこは、そのホールの出入り口脇の一角に設けられた、壁際に幾つもの自動販売機が設置されている休憩所のドリンクコーナーだった。
俺達は、その日もいつもと同じように例の学生達に狙い台を全て奪われてしまい、朝から千円札をコインサンドに溶かし続けていただけだった。それでどちらともなく誘い合い、気分転換にこのドリンクコーナーに来ていたのだった。
休憩所のテーブル席に設置されている椅子に向かい合って座る俺達二人の周囲では、朝からホールに来ている客達が、互いの連れ達と思い思いに声高に会話しながら寛いでいる。そしてここにもホールからの喧騒が伝わり、いつもと変わらぬ賑やかな騒めきが、俺達の周りを取り巻いていた。
「サンキュー!」
俺は、奴が寄こした缶コーヒーを受け取ると、缶のプルトップを引き上げながら軽い調子で奴に聞いた。
「ん⁉︎ 人? …」
「人って? 何?」
「 ……。」
俺は缶を口元に傾け一口飲むと、眉根を少し顰めながら、俺の正面の椅子に座る奴の顔を見た。だが奴はうつむいたまま、テーブルの下で黄色いカフェオレの缶を、それを包み持つ左右の手の平で黙ったままもて遊んでいるだけだった。
「 ……。」
「今日も、また学生の奴等に良い台は全部取られちまったなぁ。今俺が打っている台も朝から出たり入ったりで、全くらちが明かねぇしなー。ふー …」
俺は、奴のその挙動不審な態度に気づいていたのだが、そのことに触れようとする素振りを敢えて奴には見せようとはしなかった。
だから、ワザと大げさ気味に奴に向かってそう愚痴ってみせると、俺の座るその椅子から見えるホールの方に顔を向けた。ホールでは客達が一心不乱にコインサンドに千円札を突っ込んでは、全く出る当ても見込みも無い台に盛んにコインを呑み込ませ続けている。
「可哀そうに …、みんな店に飼い馴らされちまって、ああして返って来るはずもない貯金箱にお金を入れ続けている。まあそれは、俺も良く分かってはいるつもりなんだけれどもなぁー …、全く」
俺は、半分溜息交じりにそう呟くと、奴に向かってまたぼやき続けて見せる。
「あの …。実は俺 …」
俺のその態度に痺れを切らしたと見え、奴は俺に向かって、やっと何かを言おうと口を開き始める。
「…ん? ああ …、そうだったな。人に会うんだっけ? それで …、何?」
俺は咥えていた煙草を左手の指に持ち代えると、奴にそう言いながらコーヒーの缶を口元に傾ける。
「それで、…」
奴が喋り出す。
「貴方に会って欲しい相手は、初老の夫婦二人連れなんです …」
「それで、その二人に会ったら、私がその二人に貴方のことを紹介しますから、そうしたら貴方は二人に一言、『初めまして。東条です』と言ってくれればいいだけなんです」
「そうすれば相手の二人は、『そうですか。貴方が東条さんなんですね』と、言ってきます。そうしたら貴方は、二人に『そうです』と返事をして、頭を下げてくれればいい」
「ただ、それだけなんですけれども …、どうです? やってもらえますか?」
奴は一息に、俺にそう説明してしまうと、手に持っているもう冷めてしまっているカフェオレのプルタブを引き、一口、口に含んだ。
そして少し間を置き、小さく溜息を吐くと俺の顔に視線を戻し、奴はまた話を続け始める。
俺は、奴のその説明を煙草の煙をくゆらせたまま黙って聞いていただけだった。時折、小さく首を傾げながら。
「その二人に会ってもらう場所は、上条市の遊亀公園の池の横にある噴水の前。日時は明後日の、6月7日の午後2時です」
そう言いながら、奴は背中に掛けていたザックから一枚の白い紙を取り出した。そしてその紙をテーブルの上に置くと、それを俺の方に押しやりながら寄こした。
「それは、今貴方にお話しした、待ち合わせ場所の遊亀公園の地図です」
その紙には奴が言うように、上条市にある遊亀公園の園内の地図が記されていた。その地図には、待ち合わせ場所に指定された公園の噴水の所に大きく○印が書かれ、そしてその横の空欄にはご丁寧にも、俺がその夫婦の二人連れに会って欲しいとの約束の予定の日時が、赤いボールペンの字で書き添えられていた。
「それで? …。それで、これは一体どういう事なの? お前は何のために、俺にそんなことをさせようとするんだ?」
俺は、見詰めていたその公園の地図から奴の顔に視線を戻すと、そう強い調子で奴に理由を尋ねる。
その時、奴は俺の目を真っ直ぐに見詰めてはいたのだが、俺には奴が、どこか俺のその時の心の中の動きを探りながら、そしてその真意を窺っているかの様にも感じられた。しかし間もなく奴は、その俺の言葉をそのまま額面通りの意味に受け取ったと見えて、直ぐにいつもの人を食ったかのような表情を顔に浮かべると、笑いながら言った。
「その二人は、昔、俺が大変世話になったご夫婦なんです。男性は、俺が通っていた高校時代の担任の先生で、女性はその奥さんなんです」
「俺、昔凄く不良で …。先生はその頃からずっと俺のことを心配してくれていて。二人とは、今でも親しくお付き合いをさせて頂いているのですが。俺は今でもこんな、…。すいません、貴方には申し訳ない言い方になってしまうのですが …。今でもこんな、昼間から毎日ホール通いをしている様な、ヤクザな生活をしていて。だから先生達には申し訳なくて」
「先生達には、俺、嘘を吐いているんです。俺は、ちゃんとした会社勤めをしているってことに …」
「だから …、だから貴方を勤め先の会社の上司ということにして、合ってもらって、それで先生に安心してもらいたかったんです」
奴は俺に、そう一気に話しをしてしまうと、また俯き下を向いてしまった。
「そうか …」
俺はその時、奴が俺に向けて言ったその言葉の全てを、心の底から本当に信じていた訳ではなかった。ただ単に、奴のその行動の理由について深く考えてはいなかっただけだというのが正解だと思う。
なぜなら、その頃の俺はスロ屋通いに狂っていたと同じように、その当時の生活で起こる事全てを深く考えることもなく、ただ漫然と日々を過ごしていただけだったから。ただ、現実の社会生活からの【 現実逃避 】だけを目的として。
【 うつ 】という病魔が、俺にそうさせていただけのことかもしれないのだが。
「いいよ。その二人に会おう。どうせ俺も暇だし、それで俺が何か損する訳でもなさそうだしな」
俺は何を疑うかの素振りも見せずに、そう奴に返事を返していた。
確かにその頃の俺は、何も考えることもなく、毎日、ただ周りの出来事に流されていただけだったのだと思う。
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