第1話 神さまはお断りです
レリ・マハーシーヴァ オープニングテーマ「まなざしのマントラ」
https://youtu.be/6FmwM8nEabA
「間宮さん、この丸は、どっち向き?」
教卓の前に立った逸見先生が、わたしの提出用紙を持ち上げている。
金曜の朝から、一番苦手な質問が来ちゃった。
丸に向きなんてないって思うよね。
わたしもそのつもりで描いたんだけど。
「あの……茶碗、です」
「そうだったのね。ありがとう」
先生が用紙を回してにっこり笑うのを見て、さっきまで上下が逆だったことに気づく。
わたしは机の下で、そっと両手の指先を合わせる。
どうか、これ以上の質問が来ませんように。
ここは東京の晴海にある晴海第三中学校で、わたし、間宮りんは2年生だ。
4月のクラス替えからまだ1週間しかたっていない。
今月の初めに14歳になったけど、自己紹介には慣れない。
みんなの前で名前を言うだけで、のどが渇いちゃうんだよね。
担任の逸見真理子先生が用紙を束に戻す。
「体験会の掲示物は、当日までに出してね」
茶道部の文字の横へ先生がつけた丸は、お手本みたいで、向きには困らなそうだ。
「りん、完成したら見せて」
横の席から、葵が先生に聞こえないよう口だけを動かしてくる。
わたしも声を出さず、うん、と返す。
葵とことりにならいろいろ話せるのに、初めて会う人とも同じようにはいかないんだよね。
朝の挨拶に合わせてみんなが立ち上がり、斜め前の弥勒舞人くんも椅子を机へ寄せる。
みろく、まいと、と読む名前の男子だ。
弥勒って、歴史の教科書に出てくる仏さまと同じ字だ。
名字で呼ぶと手を合わせたくなるから、心の中では、舞人くんと呼んでいる。
今日も舞人くんのカバンには陸上部のシューズ袋があって、わたしの袋には茶道で使う布が入ってる。
同じ教室にいても、チャイムが鳴ったあとの予定はぜんぜん違う。
わたしの今日の仕事は絵を描くこと。
もう失敗の予感しかしないんだけど。
*
「りん、これは……逃げてるの?」
放課後の和室で葵が画用紙を指さすと、ことりまで首を横に傾ける。
畳に手をついてのぞき込んだ絵には、丸い茶碗と、そこから立ち上る湯気がある。
少なくとも描いている間はそうだった。
「お茶って、逃げないよね……?」
「うん、だからきいてるんだけど」
葵が指を2本立てて、絵の横で足みたいに動かしてみせる。
なるほど、湯気が足に見えるのか。
茶碗に足が2本あって、全力で走ってる。
もうそれにしか見えない!
「文字は、すごくきれいなんだけどな」
ことりが絵の横の『茶道体験会』をなぞる。
……ありがとう、慰める場所を探してくれて。
わたしは角の丸くなった消しゴムを持ち、湯気へ近づける。
消せば消すほど、走る速さが増しそうだ。
「足、1本にしようかな」
「もっと怖くなるよ、それ」
葵の返事が早くて、わたしも笑ってしまう。
和室の片づけはもう終わっていて、ほかの部員は帰り、わたしたちだけが残ってる。
迎えに来た2人を引き留めているのは、絵が終わらないわたしなんだけど。
「じゃあ、花を描くのを手伝ってくれる?」
「いいよ、どこに入れようか」
ことりが筆箱を開け、薄い色鉛筆を選ぶ。
筆箱を出そうとカバンを引き寄せた葵が手を止め、ファスナーの端を何度もひっくり返す。
「……あれ、クジラがいない」
聞いた瞬間、わたしもカバンを見るけど、いつもそこにいる青いキーホルダーがない。
去年、3人で水族館へ行った日に買って、ことりとわたしから葵に贈った物なんだよね。
「朝は? 教室では、ついてた?」
「わかんない、なくした音も聞いてないし」
葵の指が銀色の小さな輪をつまむ。
「金具が開いてる……ここから落ちちゃったんだ」
ことりは座布団を1枚ずつ持ち上げる。
わたしも四つんばいになって、低い机の下へ顔を近づけてみる。
落ちているのは消しゴムのかすばかりだ。
「昨日、らんぷ亭ではついてたと思う」
「あたし、帰りにカバン開けたっけ……」
葵はスマホを出して、昨日の写真を探す。
画面には、わたしの顔と同じくらい大きく玉ねぎの山が写ってる。
らんぷ亭の肉抜き玉ねぎ大盛り牛丼だ。
名前が牛丼なのは知ってるけど、甘いつゆを吸った玉ねぎが好きなんだもん。
「これ、右端に写ってる」
ことりが指を広げ、写真を大きくする。
葵のカバンにぶら下がった青いクジラは、丸い体に小さな目、尾びれは上を向いてる。
その端の欠けまで、わたしは覚えている。
「昨日の道、もう一度通ってみよう」
わたしが言うと、葵は描きかけの画用紙を押さえる。
「でも、ポスターがまだでしょ」
「茶碗、これ以上は逃げないから」
ことりが笑って、色鉛筆をしまってくれる。
ポスターを机の端へ寄せて、足の生えた茶碗には、ここでおとなしく待ってもらう。
職員室で和室の鍵を返し、棚の上の落とし物の箱も見る。
「クジラじゃなくて、手袋だね……」
「見つかったら、連絡してください」
声が途中で小さくなって、先生が顔を寄せる。
もう一度同じことを言ってみると、今度は最後まで声が出る。
「青いクジラね。ほかの先生にも伝えるわ」
逸見先生が手帳へ短く書いてくれる。
待ってくれる相手だと話しやすいな。
廊下で合流した葵が、わたしの手を引く。
「ありがと、りん」
その指はいつもどおり温かい。
わたしたちは並んで、昇降口へ歩いていく。
校庭の端では陸上部が道具を片づけていて、舞人くんが重ねたハードルを松本くんへ渡している。
別のクラスの松本くんも同じ学年で、体育の時間に400メートルを走るのを見た。
わたしなら途中で座る距離を、一気に走る。
「弥勒、青いクジラって見なかった?」
葵が校庭の境目から声をかける。
舞人くんは手に持った棒を見下ろす。
「ここで? 生き物の話じゃないよな」
「カバンにつけてたやつ、キーホルダー」
ことりが写真を見せ、2人が顔を寄せる。
わたしも大きさを説明しようとして、言葉が重なり口を閉じる。
……最初の言葉を考えている間に、話が進んじゃうんだよね。
「これくらいの大きさで、青くて……」
「見つけたら、間宮に渡せばいい?」
舞人くんがわたしへ目を向ける。
……わたし?
葵のクジラなのに。
でも、大きさを説明しかけていたのは、わたしだ。
指で作ったクジラの幅をそのまま保つ。
「う、うん、お願いします」
「部のやつにもきいてみるよ」
松本くんは足元のカバンから細いペンを出し、練習表の端に『青いクジラ』と書き込む。
書く場所が余っていて、ちょっと安心する。
走る記録の上に書いちゃったら、困るもんね。
「写真も送っといて。似てるの拾うかもだし」
「ありがとう、松本」
葵が答えると松本くんはペンをしまい、舞人くんの肩から落ちた袋も拾って渡す。
「おまえ、今日は先に上がるんだろ」
「ああ、ハードル戻したら帰る」
部活にも早く終わる日があるんだね。
わたしは2人に頭を下げ、葵たちを追う。
3人で昨日通った道を戻っていく。
*
らんぷ亭の手前で、貼り紙を1枚もらう。
商店街の案内所には落とし物の掲示板があって、ことりが撮った写真を受付で印刷してくれる。
「連絡先は学校でいい? 自分の番号は書かないでね」
係のお姉さんに言われて葵が学校へ電話し、貼り紙の下に学校の番号を書き足す。
わたしは余白へ、クジラの大きさと色をなるべく大きな字で書く。
尾びれの欠けを書こうとしたところで紙が揺れ、葵はもう掲示板のクリップへ手を伸ばしている。
「これ、写真のここが黒くなっちゃった。ほら、おなかに黒い三日月みたいな線が出てるでしょ」
ことりがクジラの腹を指さす。
スマホの写真を開いても、その黒い線はどこにもついていない。
「裏の機械、最近こんな汚れが出るのよ」
お姉さんが申し訳なさそうに紙をこする。
何枚か刷り直しても同じ場所が黒くなるけど、クジラの輪郭は見えるので、そのまま使う。
「貼った場所、撮っておくね」
スマホを構えたことりが下がり、わたしたちは写真に入らないよう横へ寄る。
後ろで白い配達車が止まり、荷物が下ろされる。
板の上で小さな車輪が鳴って、台車が動く。
配達車の後ろにことりが少し顔を出す。
「車が動くから、こっちへ寄ってね」
運転席から声がして、わたしたちは壁へ寄る。
右の尾灯には透明なテープが斜めに貼ってあって、割れたところを直しているのか、光が細く曲がる。
「ごめんなさい、もう撮れました」
ことりがスマホを下げ、車に向かって会釈する。
車は、そのまま荷物の多い路地へ曲がっていく。
足元に青い物がないか探してみると、コインが1枚落ちていて、係の人へ渡す。
持ち主がわからなくても、戻ればいいなあ。
店先を通りかかった人が、写真へ目を向ける。
「かわいいね。見つかるといいね」
「ありがとう、ございます」
わたしは手の中でペンを握り直す。
知らない人でも、こうして言ってくれるんだね。
葵はうなずいて、何度も貼り紙を見上げる。
「らんぷ亭、もう一度きいてみよう」
ことりが促し、わたしたちは角を曲がる。
黄色い看板が見えると、おなかが小さく鳴る。
今はご飯じゃなくて、クジラの捜索だよ!
らんぷ亭は牛丼屋さんで業界1位らしく、2位のスキイエより、ずっとお店が多いんだって。
でも、わたしが通う理由は玉ねぎのほうだ。
持ち帰りのお客さんが並ぶ店先を通って、葵とことりが空いたレジへ声をかけに行く。
中に入るとつい注文したくなっちゃうし、わたしは外で3人分の荷物を持つ。
「キミ、ずいぶんたくさん持ってるね」
すぐ横からの声に、カバンを抱える肩がぴくりと動く。
見下ろすと、わたしより少し小さい、12歳くらいの知らない男の子が立っている。
背中へ垂れる長い髪が、銀色に光ってる。
白い布と淡い黄色の布を体に巻いた姿は、教科書で見た、インドのお坊さんみたいだ。
サンダルの足元までなんだか絵になる。
わたしのほうはカバンを3つ抱えてるけどね。
「お手伝い、ではなくて……友達の、です」
「そう。じゃあ、友達がいるんだ」
いるよ、そんな意外そうに言わなくても!
男の子がわたしの顔をじっと見るので、カバンに何かついてるのかと思って、目を落とす。
その間に、男の子が半歩近づく。
「キミには神の素質がある。神にならないか?」
……え?
わたしは持っていた袋を落としそうになって握り直す。
……聞き間違いじゃないよね?
その言い方だと、神さまは募集されてるの?
男の子は、わたしが返事をするまで動きそうにない。
宗教の勧誘って大人がすると思ってたけど、子供から断らなきゃいけない場合もあるんだね。
「……宗教は、ちょっと」
「宗教の勧誘? りん、どうしたの?」
背後でドアが開き、葵の声が重なる。
わたしはあわてて体を横へずらす。
男の子が2人を見て、さらりと髪を揺らす。
「こんにちは」
「こんにちは。何かのおつかい?」
ことりが返すと男の子は口元を緩め、その顔だけなら、迷子の小学生にも見える。
でも、返事はない。
「りんに、何の話してたの?」
「えっと……神さまの、話みたいな……」
わたしが答えると、葵が男の子を見る。
「そういうの、いらないよ、この子」
知らない子にもいつもはっきり言える葵は、わたしには、それだけでもうらやましい。
男の子は気を悪くせず、こちらを見上げる。
「ぼくは、シーヴァ」
その名前だけがわたしの耳にすっと残る。
手を振って歩道の人波へ入っていく男の子の銀色の髪が、大きな買い物袋の向こうへ隠れる。
もう一度見たときには、姿が見つからない。
「あの宗教の子、知り合い?」
「今、初めて話したんだけど」
葵が伸ばした手でカバンを受け取ってくれると、腕が急に軽くなって、わたしは息をつく。
神さまになる人は、落とし物も探せるのかな?
……いや、その話を始めちゃダメだよね。
「クジラ、どうだった?」
「今の人は知らないって。夜の人にもきいてくれる」
店へ電話していい時間をメモしたらしく、ことりがスマホの画面を消す。
見つかるまでは、できることを1つずつだ。
神さまの話より、今はクジラを見つけたい。
「ねえ、あれじゃない?」
葵が指をさすのは、通りから建物の間へ少し入った場所にある、細い立て看板だ。
白い紙に、大きく『お返し処』と書いてある。
その下に、青いクジラがぶら下がっている。
レリ・マハーシーヴァ エンディングテーマ「ここにある」
https://youtu.be/RXc36LRIwuI




