最終話 “いらないこと”が必要だった
「なにもないから……放っておいてくれ」
「それなら、なにもないのに教室で泣かないでよね。心配して見に来ているのに」
『……本当に根っから優しい人間なんだな。よかった。縁が切れて』
僕は黙ってやりすごそうと画策する。周囲の視線も浴びつつ、僕は十何秒と黙りこくって、しびれを切らした彼女がこう言葉を紡いでくる。
「ねぇ、私たちが付き合っていたって本当なの……?」
「君の友人が君を誑かしているだけだ。大体、こんなみすぼらしい男と君が付き合うわけないだろ」
「別にそんなことないけど……」
「あぁあ。せっかく感傷に浸っていたのに」
「そうだったの?」
「なにもないから。もう僕に絡まないでくれるか?」
「……ごめん」
僕は彼女に悪い印象を与えておいた。これで二度と関わる機会も失せて、あとはいつもの生活に逆行する、そんな観念で頭が満たされていた。僕は勝機が見え始め、顔色をすこし明るい方にもっていった。
6月26日、今日の彼女は一言も僕に語り掛けてはこない。もう僕の存在に一切の関心がなくなったのだろう。僕はようやっと戻った平穏に、一つあくびをした。
そうして何事もなく下校の時刻を迎えた。すると、下駄箱を過ぎたあたりで「ねぇ」という一言が聞こえる。
『……僕じゃないだろうな』
そう思ってその場をそそくさと立ち去ろうとするが、もう一度放たれた「ねぇ!」という強い声に、身体が身動ぎする。振り返るとそこには、等身大で僕と目線を合わせてくる、一人の少女の姿があった。
「話しかけるなって言っただろ?」
彼女は僕の言葉を聞き入れてはくれなかった。だが、彼女にも反論するだけの余地があった。
「私にはまだ振ったつもりなんてないから」
「……僕がいつ振ったって言うんだよ?」
「はぐらかさないで」
「はぐらかすもなにも、事実がないんだから……」
そう言うと、彼女は僕のほうをほんの少し睨むように見て、カバンから一冊の薄い本を取り出す。
『……本当になんなんだよ』
なんの変哲もないような学習帳を見せつけて、彼女は一言こう言ってくる。
「ここに全部載っているわ。響くんとの思い出と、響くんが抱えている現実が」
彼女がぺらぺらとめくるノートには、何らかの意味のあるような文字で埋め尽くされている。
「君が書いたのか?」
「分からない。でも、これは私の字で私なりの書き方をしているわ」
「そんなの、何の根拠にも……」
「なるわ。いまの私は、私のことを一番に信頼しているから。これを見て」
彼女は僕にそのノートを手渡してくる。そこにあった文章はノートの枠に囚われない、大きくも丁寧な字で次のように書かれていた。
―——どこまで記憶が消えるか知らないけど、とりあえず今日までのことを文字に起こそうと思う。私は森希奈。これを読んでいるあなたは、もしかしたら知らないと思うけど、私には大好きな人がいる。
その人は山田響と言って、同じクラスの男子。根暗なところはあるけど、私と一緒でちょっとお人好しなところがある優しい人。それに彼もまた両親を亡くして、孤児という境遇にある。そんな私たちは惹かれ合って、やがて交際に至った。
だけどいま、響は葛藤している。きっといつよりも葛藤している。彼には明晰夢を正夢にする能力がある。断定はできないけど、もしこれを見たあなたに過去の記憶の一部がなかったら、つまりそういうことだから。
彼はもしかすると私との記憶を消し飛ばしてしまうかもしれない。それも都合よく私の過去と一緒に。
その理由は一つ、彼が捻くれているから。今日、振られたとき、彼は私のことを苦しめると言った。そんなことないのに、彼はとんだ解釈違いを起こしていたの。
過去が消えることは、私の望みじゃない。だからこれだけは覚えていてほしい。
私は彼の両親を含む三十人を、自分だけ両親がいないという境遇への恨みから、さっき言った能力で殺してしまった。そんなこと、科学的に証明なんてできないけど、私はその事実と向き合わなきゃならない。絶対に忘れてはいけないことだから。
今までは私のことを守ってくれた彼に、次は私が恩返ししなくちゃいけないの。だから絶対に彼を離さないで。彼を孤独にさせないで。そして……。 ———
ここで彼女がノートを取り上げる。最後の数ページは読ませてくれなかった。
「ここから先は私同士の秘密だから」
「……全部、読まれていたんだな。しかもちょっと脚色してある」
「もういいでしょ。何度でも言うわ。私はこの文章を信じているから」
「僕は……僕は君を一度突き放したんだ」
「私は“君”じゃない。私は“森希奈”」
「……希奈を見捨てた人間に関わる必要なんてないんだよ」
「見捨てるなら、どうして私の過去も一緒に消したの?」
「それは……」
僕は言葉が詰まって、絶対に彼女ではない街路樹の幹に目を移す。こんな薄っぺらな男に彼女の幸せを語る資格なんてなかった。
「見捨てたんじゃなくて、救おうとしてくれたんでしょ?」
「……でも、結果的に見捨てたんだから」
「そんなこと聞いていないわ。響、響は私の過去を消して、私を地獄の果てから救い出してくれたのよ」
「そんなこと……」
「……お願いよ。せめてそれだけは認めてほしいの」
彼女の切実なお願いは、遂に僕の心を打ち破った。
「救うに……救うに決まっているだろ!」
僕の中身は思っていた以上に最悪な男だった。こんなところで激高して、彼女を人目にさらすような真似をしたのだから。
「そう」
彼女がそう呟いた次の瞬間、彼女は人の目なぞ気にも留めず、ただ一途に僕の身体を抱擁してきた。記憶のうちには何も知らないはずの彼女が、僕を孤独から救ってくれたのだ。
「なに……するんだよ……」
「分からない。なにも記憶がない。でもどうしてかしら……。あなたが近くにいると、ちょっとだけ世界が晴れやかになるの」
彼女は僕の首筋に水を垂らす。彼女を泣かせることが二度となくて喜んでいた僕にとって、この仕打ちというのはとんだ皮肉だった。
彼女のすすり泣く声は、明らかに僕への信頼の声だった。僕は明晰夢の力をもってしても、その《《信頼》》と彼女にもたらした《《感動》》を打ち破ることができなかったのだ。
「……ごめんね。もっと早く抱きしめてあげられなくて」
「謝らなくていいんだよ……。僕がしでかしたことだから」
「なら、この世界は私たち《《が》》しでかした世界ってことね」
「そうなる……のかもな」
僕らはそのまま近くにある中くらいの規模の公園へと向かう。そこでこれからのことをじっくり話そうという流れになったのだ。
「あ、ちょっとそこで待っていて。お手洗いに行ってくるから」
そう言った彼女はノートの件もあって、流石にカバンを丸ごと持って行った。
『それにしても……あそこには一体どんなことが書いてあるんだろう』
僕がそうして頭を巡らせていると、彼女のカバンについているキーホルダーが落っこちてしまった。急いでトイレに向かう彼女は、そのことに一切気づかない。
僕はそのキーホルダーを拾い、砂を軽く払っておく。そうすると、何秒か経過してそれが写真を入れられる形式のキーホルダーだと気づいた。僕は「これぐらいは許してくれるだろう」という慢心を元に、その中身を開いてしまった。
……開いてしまったのだ。
「あぁ、見ちゃったか」
「……は、なんで」
そこにあったのは、僕が生前の両親と撮った家族写真だった。
「お互いに心が落ち着いたら言おうと思っていたんだけどね」
「……どうしてこれを持っているんだよ」
「それはね……」
―——————————私があなたのママだからよ———————————
彼女の瞳は瞬く間に潤んでいき、真実に気づいた僕に対して、ちょっとばかり笑い顔を送ってくれた。まるで本物の母親のように……いや、《《独り》》の母親として。
『そうか。全部、なにもかも、嘘だったのか』
そうすると彼女はどうしてか、にっこりとこちらを覗いてこんなことを呟く。
「どう? 私の小説は」
「……転生している時点で普通じゃないけど。面白かったと思う」
「そう」
次の瞬間、彼女は僕の身体をさっきよりも強く、きつく、愛情の溢れる抱擁をしだして、僕にこんなことを言った。
「私はね……山田千絵。転生して生まれ変わった、響の……響のママなのよ……」
僕の一親等は、まだ立ち消えてなどいなかった。この嘘は、僕を苦しませ、そして涙に繋げた。もうすぐ、時期は夏を迎えようとしていた。
―——つづく




