第23話 明晰夢を観るということ
僕は微睡みを過ぎて、靄のかかった世界へと飛ばされた。夢の世界だという自覚は十二分にあり、しかも行動に自由が効く。
きっとこれが、彼女のよく観ていた明晰夢というものだった。
しばらく立ち尽くしていると、背後から重厚な足音が聞こえてくる。振り向いた先には、一人野お婆さんの姿があった。
腰に手を携えて、白髪にほんの少し黒髪が混ざったそのお婆さんは、僕を知っているかのように顔を綻ばせる。
夢の中なので警戒心の欠片もない僕は、そのお婆さんに声を掛けることにした。
「……どちらさまですか?」
「ふふふ、どちらさまじゃろうな」
「答えになっていないですけど……」
「明晰夢を観るときってのはな、葛藤しているときなんじゃ。響も葛藤したからここに辿り着いたんじゃろ?」
『ひ、響って……あぁ、ここは夢か』
全ての不可解が「夢だから」という文句で片付けられる。この世界はほんの少し居心地がよかった。ただ、“響”もという言い方には少しだけ引っ掛かった。
「はい、そうだと思います」
「響は正直者じゃのう」
「ですが、僕以外にもこの世界に迷い込んだことがあるんですか……?」
「明晰夢で起こったことは正夢になる。この言葉、どこかで聞いたことはないか?」
「……僕の彼女から聞いたことがあります」
「じゃあ話は早いじゃろ」
「話とは……」
「ここで起こった明晰夢は全て正夢になるんじゃよ」
僕はその言葉を頭の片隅に追いやった。彼女と会話をしたことによる産物で、そんなことが現実で起こるはずがない。きっと科学に否定される。僕は愛想笑いをして誤魔化しを利かす。
「ちょっと……そんな出鱈目、一体誰が信じるんですか」
そうするとお婆さんは僕の瞳をじろりと見つめて、おもむろにこう問いかける。
「朝起きたら今日ここで操ったことが、全部正夢になっとるはずじゃ。それで思い知らされるじゃろう」
「あなた……何者なんですか?」
「そうじゃな。二人の縁を紡ぐキー婆さんってところかのぅ。おほほほほ」
「回りくどいですって……」
僕がそう言うと、眼前に突如として二つの椅子が現れ、お婆さんは何の変哲もないような様子で座る。僕もお婆さんの手草に従って腰掛ける。
『ここが……明晰夢の世界か』
「響は希奈と家族になりたいんじゃろ?」
「……夢の中ならなんでもお見通しですか」
「希奈には養子縁組の案を伝えたいが、本音を言えば結婚したいんじゃと」
「それ、一々仰らなくても分かるんじゃないですか?」
「ほっほっほ。頭の切れる子孫だこと」
「し、子孫……?」
この世界は奇天烈なもので、きっとなにを考えても無駄なんだと思う。このお婆さんにも何ら深い意味はないと、そう割り切っていた。
「細かいことはまた今度じゃ。今、響がとれる選択肢は二つ。観念して養子縁組をするか、結婚のために一肌脱ぐことじゃ」
「……まだ、僕らが結婚できる方法があるんですか?」
「あら? たしか能力は信じないんじゃなかったと?」
「そ、それは……でも、どうやって一肌脱ぐんですか?」
「私ができることは響に能力を授けることだけじゃ。響の幸せ、切に願っておる」
そう言うと、お婆さんは椅子ごとその場から姿を消す。僕は改めて尻に椅子と触れる触覚を感じる。
『……でも、僕に能力を授けたところでどうなるんだよ?』
もしも本当に能力を授かったとすれば、彼女の能力も否定できなくなり、彼女が自分の心に嘘をついたことになる。
そうなった暁には、やはり彼女に一生、贖罪の意識を持って生かすことになる。そんなこと、まっぴらごめんだった。
なにはともあれ、これが正夢になる明晰夢だという確証がほしい。僕は一旦、なにかしらの願いを思い浮かべることにする。
『……願いってすぐに思いつくものでもないよな』
そうして思案した結果、僕は「希奈が弁当に鰻を入れてくる」という、絶妙にありえない願いをすることにした。
すると僕の視界は歪んで、身体はふわりと持ち上げられる。やがて辿り着いた先は朝方の児童養護施設だった。
調理場の前にやってくると、そこには丁寧にエプロンをまとった彼女の姿があり、弁当箱の中には他でもない鰻が乗せられていた。
『……まさかな。ただ、ちょっとだけ精巧な夢ってだけだ』
6月24日、今日も何の変哲もない日常が経過していき、そのうち昼休みの時間を迎える。これまで能力を嘘八百だと信じ込んでいた僕に、彼女はこんな一言を告げる。
「今日はちょっと特別なのよ」
「……なにが?」
僕は息を呑む。そして箱が開くと、やはりそこには鰻の蒲焼きが存在していた。
『嘘、だろ……。なんで、どうして弁当に鰻なんかが……』
「ご、豪勢な弁当だな」
「おつとめ品だったから。最近、ちょっと変わり映えしないお弁当だったもの」
「まぁ、これも色で言ったら茶色だけどな」
「……いいから、お口を開けて」
そう言って頬張った鰻からは、どこはかとなく人の温もりを感じる。朝の彼女が真剣に弁当と向き合っていたことで、味わいが一段と深くなっていた。
だが、いざ自分がここまでの偶然に遭遇するとなると、たしかに能力の存在を信じてしまいそうになる。
僕はまだ半信半疑でしかなかった。ただこれから先もまた明晰夢が正夢になれば、一気に信のほうへ舵を取るかもしれない。
『……本当に能力が使えるなら、養子縁組なんて複雑な提案、しなくてよくなるかもしれない』
だから、今日の僕は彼女に養子縁組の話を持ちかけなかった。願わくば、僕は彼女と結婚したかったのだ。
その日の晩もまた明晰夢に飛ばされた。そして靄がかった視界の先には、例のお婆さんが座っている。笑い顔でこちらを覗く姿に、僕は呆れ顔でかえす。
「今日もまた僕を呼び出したんですか?」
「いいや。響が葛藤しているからじゃよ」
「葛藤って……」
僕は葛藤の真っ只中にいる。彼女に償わせて結婚を選ぶべきか、恋愛を殺して家族になるべきか、未だに結論がでない。
「未来を変えればいいんじゃ」
僕の葛藤が目に見えたのか、お婆さんはそう告げる。
「未来を変えれば、響の思い描く世界になるかもしれんし、かえって逆効果になるかもしれん」
「……そんな危ない橋を渡る必要って」
「だが、今以上に選択肢は広がるんじゃ。明晰夢が正夢になるとはそういうことじゃ」
「じゃ、じゃあ、僕はどうやってこの葛藤を乗り越えればいいんですか?」
「そりゃあ、響が自分で考えるんじゃ。現に希奈もそうじゃった」
「……そうなんですか」
「人生なんてどうにでもなるんじゃから、物事を苦にせんのが一番じゃよ」
「分かりました……」
そしてまたお婆さんは、段々と透明になっていき姿を消す。
『……でも、どうやってなんのわだかまりもなく結婚できるんだよ』
明晰夢の滞在時間は睡眠時間に概ね比例している。考える時間はたっぷりあるが、中々答えを導けない。あくまでも、僕は彼女の今と未来しか変えることができない。
彼女の家庭環境を変えても、彼女の過去は変えられず、彼女の性格を変えても、彼女の過去は変えられないのだ。
そうして僕は、彼女が真の幸せを享受するためのある方針を思いついた。これが唯一、彼女の過去を取り除ける方法だった。
―――僕は彼女と別れるべきだ。僕に別れ話ができるだけの度胸が……ほしい―――
なにも彼女の結婚相手が僕である必要はない。僕以外にも、孤児として生活を歩む子は山ほどいるはずで、もっと秀でた性格の人もいるはずだ。僕だって、これで慣れた前までの生活に回帰できる。
……そんな言い訳を伴って、人生最大の自己犠牲を払ってでも、僕は彼女を幸せにしたかった。
それぐらい彼女は美麗で可憐な女性だ。そしてそこに僕が守る資格など、まったく存在していなかったのだ。
僕はもう能力に忠実な犬と化していた。
『これが……これが、僕の幸せなんだよ』




