第36話
もう千葉県に台風が来ませんように。
翌朝。
僕はダイニングテーブルの上にノートを広げ、昨日見つけた地下の川をどうやって渡るか考えていた。
川幅は五メートルほど。橋はない。向こう岸には明らかに道が続いていたので、あそこを渡るのが正規ルートなのだと思う。
問題は水の中。
ケイブピラニア。
しかも一匹ではない。
鑑定した時には少なくとも十匹以上の影が見えた。
「うーん……。」
「ご主人。」
「何?」
「オイラに任せるワン。」
僕の足元に座っていた二郎丸が妙に自信ありげな顔をしている。
「一応聞こうか。」
「泳ぐワン!」
「却下。」
「早いワン!」
「昨日ピラニア見たよね?」
「見たワン。」
「肉食って出てたよね?」
「出てたワン。」
「群れで襲うって書いてあったよね?」
「書いてあったワン。」
「じゃあ何で泳ぐの。」
二郎丸が少し考えた。
「速く泳ぐワン。」
「そういう問題じゃない。」
「オイラ犬かき得意だワン!」
「ピラニアも泳ぐの得意だと思うよ。」
「……。」
ようやく想像したらしい。
自分が泳いでいる後ろから大量のピラニアが追ってくる光景を。
「泳がないワン。」
「賢明です。」
隣では、るかにが小さく切ったバナナを食べながら僕たちを見ていた。
「るかには昨日、毛針をいっぱい落とせばいいって言ってたよね。」
「うん〜。」
「それも考えたんだけど、川の中に適当に撃って全部倒すのは難しいと思う。」
水の中では毛針の威力も落ちるだろうし、そもそもどこにいるか正確には見えない。
「じゃあ〜。」
るかにはバナナを一口食べてから、ゆっくり言った。
「お魚さん、こっちに来てもらえばいいんじゃない〜?」
「こっち?」
「二郎丸〜。」
「オイラだワン?」
「ふわふわ〜。」
「……。」
僕と二郎丸が同時に止まった。
「ふわふわ?」
「川でお魚捕った時〜。」
「あ。」
思い出した。
あの川遊び。
二郎丸が忍犬スキルの「軟化」を使い、毛を異常なほど柔らかくして水の中へ入れたら、魚が寄ってきた。
あの時は笑った。
魚を五十匹以上捕まえて、二郎丸が謎の武士みたいな喋り方になった。
でも。
「……魚、寄ってきたね。」
「来たワン!」
「ピラニアも魚だよね。」
「魚だワン!」
「肉食だけど。」
「……魚だワン。」
ちょっと声が小さくなった。
僕は考える。
二郎丸を水へ入れる必要はない。
尻尾。
いや、それも危ない。
ピラニアに食われたら洒落にならない。
「二郎丸の毛だけじゃダメかな。」
「毛だワン?」
「軟化した状態でブラッシングして、その毛を何かに付けて水へ浮かべる。」
「オイラの毛を毟るワン!?」
「毟らないよ! ブラッシング!」
「ハゲるワン!」
「ブラッシングくらいでハゲない!」
「ご主人がオイラをハゲにするワン!」
「しないって!」
るかにが横で笑っている。
「二郎丸〜ハゲ〜。」
「まだハゲてないワン!」
「まだって自分で言ったね。」
朝から何の話をしているんだ。
ともかく。
試す価値はある。
・・・
数時間後。
僕たちは昨日の地下河川まで戻ってきた。
青白く光る苔に照らされた川は相変わらず幻想的で、水だけ見ればかなり綺麗だ。
ただし。
水面の下。
影が動いている。
「いるね。」
「いるワン。」
「お魚〜。」
「るかに、あれは食べる方じゃないからね。」
「食べられる〜?」
「逆に食べられるよ。」
「やだ〜。」
僕はリュックを下ろした。
今日持ってきたのはペットボトル、水筒、食料、救急用品、それから紐。
そして。
「二郎丸君。」
「ワン。」
「お願いします。」
「分かったワン。」
二郎丸が得意げに胸を張る。
「忍法――軟化だワン!」
ぽふっ。
……。
何度見ても変だ。
さっきまで普通の柴犬だったのに、一瞬で全身の毛がふわっふわになる。
僕は思わず触る。
「気持ちいい。」
「ご主人、作戦中だワン。」
「ごめん。」
るかにも触る。
「ふわふわ〜。」
「るかにも作戦中だワン!」
二郎丸が怒った。
僕は持ってきたブラシで二郎丸の背中を軽く梳かした。
「優しくするワン。」
「はいはい。」
「男前にするワン。」
「毛を集めるだけだから。」
「男前が大事だワン!」
数分後。
手のひらに乗る程度の毛が集まった。
「……これで本当に魚寄ってくるのかな。」
「オイラの毛は凄いワン!」
「自分で言う?」
紐の先に二郎丸の毛を軽くまとめ、そのまま水面へ浮かべてみる。
三人で見る。
「……。」
「……ワン。」
「……。」
何も起きない。
「来ないね。」
「おかしいワン。」
「普通の毛じゃない?」
「そんなことないワン!」
「もう軟化解除してるから、抜けた毛には効果ないのかな。」
あり得る。
スキルが二郎丸自身に作用しているなら、体から離れた時点でただの柴犬の毛になるのかもしれない。
「じゃあダメか。」
「オイラの作戦が……。」
「るかにの案だけどね。」
「そうだったワン。」
僕が紐を引き上げようとした時だった。
るかにが言った。
「二郎丸〜もう一回ふわふわして〜。」
「ワン?」
「やってみて。」
「忍法――軟化だワン!」
ぽふっ。
その瞬間。
水面が動いた。
「え?」
影。
一匹。
二匹。
三匹。
二郎丸の毛を浮かべている辺りへ集まり始める。
「来た!」
「オイラ凄いワン!」
「離れた毛にも効果あるんだ!」
何だそのスキル。
どういう理屈なんだ。
でも使える。
水面の下に次々と影が集まる。
五匹。
七匹。
十匹。
「るかに。」
「は〜い。」
「いける?」
るかにの針が逆立つ。
「いける〜。」
「じゃあ――」
僕が言うより先に。
「毛針〜!」
ドドドドドドッ!
水面へ大量の毛針が飛んだ。
バシャバシャバシャッ!
水が跳ねる。
ケイブピラニアが暴れる。
「うわっ!」
一匹が水面から飛び出した。
思ったよりデカい。
三十センチくらいある。
歯も凄い。
「怖っ!」
「魚だワン!」
「近付くな!」
水面がしばらく激しく波打った。
やがて。
静かになる。
ぷかっ。
一匹浮いた。
二匹。
三匹。
「……。」
「……ワン。」
「……。」
大量に浮いてきた。
「るかに。」
「な〜に?」
「凄いね。」
「えへへ〜。」
僕は鑑定してみる。
死亡。
ほとんど倒している。
「軍師というか、爆撃機みたいになってきたな。」
「ばくげきき〜?」
「知らなくていい。」
念のため、もう一度二郎丸の軟化で残っている魚を集める。
三匹。
今度は少ない。
るかにが毛針。
終了。
「……渡れそう。」
「泳ぐワン!」
「待って。」
「もういないワン!」
「水深分からないでしょ。」
僕は長めの紐へペットボトルを括り付けて投げてみた。
流される。
結構速い。
それに深い。
「泳ぐのは無し。」
「じゃあどうするワン?」
「そこなんだよね。」
魚を倒すことばかり考えていた。
川を渡る方法を考えてなかった。
「……。」
「……。」
「……。」
三人で向こう岸を見る。
五メートル。
絶妙に遠い。
二郎丸なら助走をつければ跳べるかもしれない。
るかには無理。
僕も無理。
「ご主人。」
「何?」
「オイラが跳んで紐を持っていくワン。」
「……。」
まともだ。
「二郎丸。」
「ワン?」
「凄くまともな案だね。」
「失礼だワン!」
「いや、成長したなと思って。」
「オイラはいつも賢いワン!」
るかにが言う。
「唐揚げ〜。」
「それは関係ないワン!」
結局、二郎丸の案を採用した。
長い丈夫なロープを胴体へ結び、助走をつける。
「無理そうならやめてね。」
「余裕だワン!」
「落ちたらすぐ引っ張るから。」
「落ちないワン!」
二郎丸が下がる。
走る。
速い。
そして川岸で思い切り跳んだ。
「ワァァァン!」
何で叫ぶんだ。
飛ぶ。
飛ぶ。
「おお!」
向こう岸。
前足。
後ろ足。
着地。
少し滑った。
「危なっ!」
でも踏ん張った。
「着いたワン!」
「凄い!」
「忍犬だワン!」
「見習いね!」
「今それ言うワン!?」
向こう岸にあった太い岩柱へロープを回してもらい、こちら側も固定する。
即席の命綱だ。
僕はるかにをリュックの上部へ入れ、ロープを掴みながら慎重に川へ入った。
「冷たっ!」
思った以上に深い。
中央では腰近くまである。
流れも強い。
「シュウ君〜大丈夫〜?」
「大丈夫。るかには動かないでね。」
「は〜い。」
一歩ずつ。
ロープがあるだけで全然違う。
やがて向こう岸。
二郎丸が待っている。
「ご主人頑張るワン!」
「もう着くよ。」
最後の一歩。
上がる。
「……渡った。」
「やったワン!」
「渡った〜!」
三人で喜ぶ。
ピラニアとの大激戦を覚悟していたのに、終わってみれば二郎丸の毛とるかにの毛針とロープだった。
「何か僕、ほとんど何もしてないね。」
「ロープ持ってきたワン。」
「そうだね。」
「ご主人は荷物係だワン!」
「言い方。」
るかにも頷く。
「荷物係〜。」
「君まで。」
僕の冒険者としての立場が危うい。
・・・
川を越えた先から、第二階層の雰囲気が少し変わった。
ゴブリンは出る。
でも、以前ほど一戦一戦が怖くない。
普通のゴブリン二匹なら二郎丸と僕で前を押さえ、るかにが後ろから毛針。
槍持ちが出れば二郎丸が注意を引き、僕が横から武器を叩く。
メイジが混じっていれば無理に突っ込まず、岩陰を使って魔法を消費させる。
「右だワン!」
「分かってる!」
「シュウ君〜後ろ〜。」
「それは早く言って!」
「毛針〜。」
「僕いるから待って!」
相変わらず騒がしい。
でも。
戦えている。
以前みたいに一匹倒すたびに座り込むこともなくなった。
三人とも、自分が何をすればいいのか少しずつ分かってきた。
途中で三匹のゴブリンソルジャーに囲まれた時だけは少し焦ったものの、二郎丸の遠吠えで動きを止め、るかにの毛針で一匹を牽制し、その間に僕が一匹ずつ相手をする。
最後の一匹が黒い煙へ変わったところで、二郎丸が胸を張った。
「完璧だワン!」
「途中で僕にぶつかったけどね。」
「あれは連携だワン。」
「僕、転びそうになったよ。」
「高度な連携だワン!」
「便利な言葉覚えたね。」
るかにが僕を見る。
「シュウ君〜。」
「何?」
「お腹空いた〜。」
「僕も。」
「オイラもだワン!」
結局、戦闘より先に昼食になった。
岩陰に座り、三人でおにぎりと卵焼きを食べる。
「二郎丸、今日は唐揚げ一個ね。」
「二個だワン。」
「さっき僕にぶつかったから一個。」
「あれは高度な連携だワン!」
「じゃあ高度な連携の罰で一個。」
「納得出来ないワン!」
るかにが唐揚げを見る。
「るかにも〜。」
「半分ね。」
「やった〜。」
「何でるかには貰えるワン!?」
「僕にぶつかってないから。」
「不公平だワン!」
命懸けのダンジョン攻略中なのに。
何をしているんだろう。
でも僕は、この時間が嫌いじゃなかった。
・・・
昼食後。
さらに一時間ほど進んだところで、また巨大な扉が現れた。
もう見慣れてきた。
「階層主かな。」
「ボスだワン!」
「今度は何〜?」
「鑑定出来ないね。中に入らないとダメみたい。」
三人で顔を見合わせる。
体力はある。
るかにのMPも昼休憩で多少戻っている。
二郎丸も元気。
「行けそう?」
「行けるワン!」
「行ける〜。」
「じゃあ、危なかったらすぐ逃げる。」
「ワン。」
「は〜い。」
扉を開けた。
中にいたのは。
「……またデカい。」
昨日のゴブリンウォリアーほどではない。
でも普通のゴブリンより一回り大きい。
しかも二匹。
片方は盾と剣。
もう片方は槍。
鑑定。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【ゴブリンガード】
Lv9
第101ダンジョン第二階層・階層主。
二体一組で侵入者を迎撃する守護個体。
盾役と攻撃役が連携して戦う。
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「二匹で一体のボス扱いか。」
「ズルいワン。」
「僕たち三人だから言えないけどね。」
「……。」
二郎丸が考える。
「こっちの方が一匹多いワン!」
「そういうこと。」
昨日のゴブリンウォリアーより一匹一匹は弱い。
問題は連携。
盾持ちが前。
槍持ちが後ろ。
僕が盾へ近付けば後ろから槍が来る。
二郎丸が回り込もうとすると、盾持ちが進路を塞ぐ。
「ちゃんと戦うね、こいつら。」
「頭いいワン!」
「どうする〜?」
僕は少し考えた。
正面から崩すのは面倒だ。
なら。
「るかに。」
「な〜に?」
「さっきの。」
「お尻〜?」
「違う。」
何でそこに戻る。
「盾持ちの顔に毛針。倒さなくていい。前を見えなくして。」
「分かった〜。」
「二郎丸は槍持ちを挑発して。」
「どうやるワン?」
「得意でしょ。」
「任せるワン!」
何をするつもりだ。
二郎丸が槍持ちの前を走る。
「こっちだワーン! ノロマだワーン!」
「誰に教わったの、その煽り。」
「ご主人だワン!」
「教えてない!」
槍持ちが怒った。
「ギャァァ!」
前へ出る。
盾持ちとの距離が開いた。
「るかに!」
「毛針〜!」
数本の毛針が盾持ちの顔周辺へ飛ぶ。
盾で防ぐ。
視界が塞がる。
「今!」
僕は横へ回る。
盾の外。
膝。
ゴッ!
体勢が崩れる。
「二郎丸!」
「忙しいワン!」
そうだった。
槍持ちに追われている。
「自分でやる!」
木刀を振る。
手首。
肩。
脇腹。
盾持ちが倒れる。
その頃には二郎丸が部屋を一周して戻ってきた。
「ご主人交代だワン!」
「何でリレーみたいになってるの!」
槍持ちが僕へ来る。
突き。
避ける。
木刀で槍を払う。
二郎丸が後ろ。
るかにが横。
「毛針〜。」
「噛み付きだワン!」
「僕いらなくない!?」
最後に木刀を一発。
黒い煙。
終わった。
「……。」
昨日の階層主戦とは全然違った。
「勝ったワン!」
「勝った〜。」
「早かったね。」
強くなった。
いや。
それだけじゃない。
慣れたんだ。
相手を見る。
無理に攻撃しない。
仲間の位置を見る。
一人で倒そうとしない。
昨日まで頭で考えていたことが、少しずつ自然に出来るようになっている。
ピロン。
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【第101ダンジョン】
第二階層主の討伐を確認しました。
第二階層攻略完了。
第三階層への進行が可能になります。
攻略進行度:68%
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「六十八%。」
「あとちょっとだワン!」
「三十二%だね。」
「ちょっと〜?」
「まあ、三分の一。」
部屋の奥。
石扉がゆっくり開く。
その向こうに。
下へ続く階段。
僕たちは三人で覗き込んだ。
暗い。
第一階層とも第二階層とも違う。
階段の奥から、妙に冷たい空気が上がってくる。
二郎丸の尻尾が止まった。
「……ご主人。」
「何?」
「何かいるワン。」
「下?」
「遠いワン。でも……。」
二郎丸が珍しく言葉を選んでいる。
「強そうだワン。」
僕は階段の奥を見る。
第三階層。
この先が最後。
「今日は?」
二郎丸が僕を見る。
るかにも僕を見る。
時計を見る。
午後三時過ぎ。
「帰ろう。」
「ワン。」
「帰ろ〜。」
全員即答。
「明日、ちゃんと準備して来よう。」
「唐揚げ多めだワン!」
「プリン〜。」
「準備ってそっちじゃないから。」
「大事だワン!」
「大事〜。」
「……まあ大事だけど。」
僕たちは第三階層へ続く階段へ背を向けた。
残り三十二%。
その先に何がいるのかは分からない。
でも。
不思議と最初に第101ダンジョンへ入った時ほどの恐怖はなかった。
怖くないわけじゃない。
むしろ、怖いものがどんなものなのか分かるようになった分、前より慎重になった気さえする。
それでも。
二郎丸がいて。
るかにがいる。
三人で考えて、三人で逃げて、三人で飯を食って。
また来ればいい。
「ご主人。」
「ん?」
「帰ったら唐揚げだワン?」
「夕飯は生姜焼き。」
「肉だワン!」
「プリン〜。」
「るかにはプリンね。」
「やった〜。」
「オイラもプリンだワン!」
「二郎丸は生姜焼きあるでしょ。」
「プリンは別腹だワン!」
「またそれ?」
二人の声がダンジョンの通路に響く。
僕は笑いながら、その後ろを歩いた。
明日。いよいよ第三階層。
第101ダンジョンの一番奥へ行く。




