#1 新学期、君とまた
四月。
桜が咲き始めた頃。
俺――水瀬湊は、真新しい制服に袖を通し、鏡の前に立っていた。
「……高校生、か」
鏡の中に映っているのは、昨日までと何も変わらない自分。
寝癖も直した。
ネクタイもちゃんと締めた。
忘れ物もない。
これなら問題ない。
「湊ー! 朝ご飯できてるわよー!」
「今行く!」
母さんの声に返事をして、鞄を持つ。
階段を下りてリビングへ向かうと、すでに家族が揃っていた。
「お兄ちゃん、遅い」
妹の結菜が、パンをかじりながらこちらを見る。
「遅くないだろ。時間通りだ」
「でも、いつもより五分くらい遅い」
「それは高校初日だからだよ」
「へえー」
結菜は意味ありげに笑った。
「な、なんだよ」
「別にー?」
「その顔、絶対何かあるだろ」
「お兄ちゃん、高校初日だもんね」
「だから?」
「……彼女、できるといいね?」
「いらない心配だ」
即答した。
すると、父さんが新聞を読みながら小さく笑う。
「まあ、高校生活は長い。友達くらいはちゃんと作れよ」
「それくらい分かってるよ」
「女の子の友達もな」
「父さんまで何言ってんの」
「青春ってやつだ」
「朝からやめてくれ」
俺がため息をつくと、結菜が楽しそうに笑った。
「お兄ちゃん、顔赤い」
「赤くない!」
そんなくだらないやり取りをして、俺は家を出た。
高校生活初日。
期待していないと言えば嘘になる。
だけど、何か特別なことが起きるなんて思っていなかった。
――この時の俺は。
本当に、そう思っていた。
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「おはよー! 湊!」
駅へ向かう途中。
後ろから、聞き慣れた声がした。
振り返る。
そこには、制服姿の女の子がいた。
長い髪を揺らしながら、こちらへ駆けてくる。
「乃愛」
「待ってよー!」
天野乃愛。
昔からの友達。
そして今日から同じ高校に通うことになった。
「朝から走るなよ。転ぶぞ」
「だって湊、先に行っちゃうんだもん」
「普通に歩いてただけだろ」
「それが早いの!」
「俺の歩く速度を責めるなよ」
乃愛は俺の隣まで来ると、息を整えながら笑った。
「ふふっ。高校生だね」
「まあな」
「なんか緊張する」
「乃愛でも緊張するんだな」
「するよ! 新しいクラス、新しい先生、新しい友達……」
そこで乃愛は、少しだけこちらを見る。
「でも、湊がいるから大丈夫」
「……そうか」
なんとなく照れくさくなって、俺は前を向いた。
「じゃあ、行くか」
「うん!」
二人並んで歩き始める。
昔から何度も歩いた道。
それなのに、今日は少しだけ違って見えた。
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私立星ヶ丘学園。
俺たちが今日から通う高校だ。
校門をくぐると、周囲には同じような新入生がたくさんいる。
「うわぁ……人いっぱい」
「そりゃ高校初日だからな」
「湊、クラス表見に行こう!」
「はいはい」
掲示板の前まで行く。
人混みの中から、自分の名前を探す。
「えーっと……」
「あっ!」
乃愛が声を上げた。
「湊、あった!」
「どこ?」
「一組!」
乃愛が指差す。
その隣を見る。
「……天野乃愛」
「私も一組!」
「本当だな」
「やった!」
乃愛が嬉しそうに笑う。
「今年も一緒だね」
「そうだな」
「三年間ずっと一緒だったらいいね」
「高校は三年間だろ」
「そういう意味じゃなくて!」
「どういう意味だよ」
「……もう!」
乃愛は頬を膨らませた。
意味が分からない。
「何だよ」
「湊って、たまに鈍いよね」
「何の話だ?」
「なんでもない!」
乃愛は先に歩き出してしまった。
「おい、待てよ」
俺も後を追う。
この時の俺はまだ知らなかった。
乃愛が何を考えていたのか。
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教室に入ると、すでに何人かの生徒が集まっていた。
「おっ、水瀬じゃん!」
声をかけてきたのは、桐生陸。
中学からの親友だ。
「久しぶり」
「久しぶりじゃねえよ。昨日も会っただろ」
「細かいことは気にすんな」
「お前は相変わらずだな」
陸は笑いながら俺の肩を叩いた。
「高校生活、楽しみだな!」
「まあ、普通に過ごせればいいよ」
「お前それ、高校生が言うセリフじゃねえだろ」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「青春するぞ! だろ!」
「朝からうるさい」
「そこが湊のいいところだろ」
「褒めてないだろ」
そんな俺たちを見ていた男子が笑った。
「桐生、朝から元気だな」
佐伯翔太だった。
「おう、佐伯! 今年もよろしく!」
「よろしく」
翔太は穏やかに笑う。
「水瀬もよろしく」
「ああ」
陸とは違い、翔太は落ち着いている。
この三人なら、まあ悪くない高校生活になりそうだ。
そう思っていた。
「ねえ、乃愛」
女子の方から声が聞こえる。
振り向くと、乃愛の隣に一人の女子がいた。
「久しぶり!」
「美咲!」
小野寺美咲。
乃愛の中学からの親友らしい。
「同じクラスになれてよかったー!」
「私も!」
二人が楽しそうに話している。
その様子を見ていると、別の女子が近づいてきた。
「乃愛ちゃん、おはよう」
「花音!」
藤宮花音。
おっとりとした雰囲気の女の子だった。
「同じクラスだね」
「うん!」
三人が集まると、教室の一角が一気に明るくなった。
俺はその様子を眺めながら、
「……女子ってすごいな」
と呟いた。
「何が?」
隣にいた陸が聞いてくる。
「いや、なんでもない」
「さては女の子を見てたな?」
「違う」
「青春だなぁ」
「だから違うって」
そんな会話をしていると、教室の扉が開いた。
「席についてー」
担任の高瀬拓海先生が入ってくる。
「今日から一年間、君たちの担任をする高瀬だ。よろしく」
簡単な自己紹介が終わると、入学式のため体育館へ移動する。
こうして俺たちの高校生活が始まった。
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入学式が終わり、教室に戻る。
担任の話を聞き、各種書類を受け取る。
そして、ようやく放課後。
「終わったー!」
陸が机に突っ伏した。
「まだ初日だぞ」
「だから疲れたんだよ」
「何もしてないだろ」
「精神的に疲れた」
「大げさだな」
俺が鞄を持つと、乃愛がこちらへやってきた。
「湊、一緒に帰ろ?」
「ああ」
「じゃあ私も――」
美咲が言いかけたところで、乃愛が慌てて口を挟む。
「今日は湊と二人!」
「はいはい」
美咲はニヤニヤしながら乃愛を見る。
「へえー?」
「な、何?」
「別にー?」
「その顔やめて!」
俺には何のことか分からない。
「どうしたんだ?」
「なんでもない!」
乃愛は俺の腕を軽く引っ張る。
「ほら、行こう!」
「お、おい」
そのまま教室を出た。
廊下を歩きながら、俺は乃愛に聞いた。
「今日はやけに急いでないか?」
「そう?」
「うん」
「……だって」
乃愛が少しだけ俯く。
「高校初日だし」
「?」
「湊と一緒に帰りたかったから」
「……そうか」
また胸の奥が少しだけ変な感じがした。
だけど、それが何なのかは分からない。
学校を出る。
桜の花びらが風に舞っていた。
「綺麗だね」
乃愛が空を見上げる。
「そうだな」
「これから、どんな高校生活になるのかな」
「普通じゃないか?」
「私は楽しい高校生活にしたい」
「できるだろ」
「湊と一緒なら?」
「……まあ、そうだな」
乃愛は嬉しそうに笑った。
「約束ね」
「何を?」
「三年間、いっぱい思い出作ること」
俺は少し考えてから頷いた。
「分かった」
「絶対だよ?」
「分かったって」
「えへへ」
乃愛は満足そうに笑った。
その笑顔を見て、俺も自然と笑っていた。
――まだ、この時は知らなかった。
この春から始まる三年間が。
友情だけでは終わらないことを。
乃愛の笑顔が、いつか俺にとって特別なものになることを。
そして――
俺たちの青春が、ここから大きく動き始めることを。
桜舞う帰り道。
俺と乃愛は、いつものように並んで歩いていた。
それが、ずっと続くと思っていた。
けれど。
青春というものは、いつだって――
思っているより少しだけ、予想外なのだ。




