幕間二「姫は帳面に名を記す」(尚寧々視点)
※時系列は第七話と同じ夜。東翁の店から戻った、宿の灯りの下で。
わたくしには、眠る前の習慣がある。
帳面を開き、その日に知り得た「尚」ゆかりの名を書き記すことだ。
三代前の名取戦で散った旧臣たち。改姓を強いられ、別の名で生きる一族の行方。祖母から聞いた名、古文書の隅に残る名、市場の噂に紛れた名。十年続けて、埋まった頁はごくわずか。名前というものは、探すそばから消えていく。
けれど今夜は、違った。
中村城下の宿の灯りの下で、わたくしの帳面は一晩で十も二十も埋まっていく。東翁から聞いた、旧臣たちの行方。三代かけて書き写された祝詞の束。膝の上のそれは、ずっしりと重い。
……手が、まだ震えている。
誰にも見せられない。特に、あの男には。
◇
比嘉琉太。
名を奪った家の三男坊。空紋の若様。城下の評判は「茶殻の若様」。
初めて門前に立たれたときは、砂を噛むような心地がした。よりにもよって比嘉の子が、尚の家に何の用かと。追い返すつもりだった。実際、途中までは完璧に追い返していたと思う。
なのに、あの男は言ったのだ。
——「尚」の由来を知ってる、と。
系譜が焼けて、わたくし自身すら曖昧にしか語れない我が家の歴史を、あの男は淀みなく語った。まるで千年をその目で見てきたかのように。尚は祈りの言葉だったと言われたとき、うっかり涙が出そうになったことは、墓まで持っていこう。
変な人だ、と思う。
空紋と蔑まれているくせに、卑屈さの欠片もない。王家の子のくせに、偉ぶりもしない。だいたいいつも眠そうな顔をしているくせに——名前の話をするときだけ、あの夜の海みたいな目に、すっと光が差す。
今日も、そうだった。分限帳をめくる速さが尋常ではない。頁を撫でるだけで姓を拾い上げ、半刻で東家に辿り着いてしまった。わたくしが十年かけて見つけられなかった、尚の生き残りに。
「見つかるといいな」と、当たり前みたいな顔で言うのだ。あなたの家が奪った名前ですよ、と喉まで出かかって、やめた。
……あの男が奪ったわけでは、ない。それくらいの道理は、わたくしにもわかっている。
◇
帳面の最後の頁に、筆が止まった。
今日の名を記し終えて、余白がひとつ残っている。
気づけば、書いていた。
——比嘉琉太。
書いてから、我に返った。何を書いているのだ、わたくしは。ここは尚に連なる名を記す帳面で、よりにもよって比嘉の名を書くなど。
墨で塗り潰した。
塗り潰してから、しばらく黒い四角を眺めて——その下に、もう一度、今度は少し小さく書いた。
比嘉琉太。(借りがある。それだけ)
注釈をつけたのだから、これは記録である。記録なら、仕方ない。わたくしは几帳面なのだ。
筆を置いたとき、遠くで早鐘が鳴った。
城下を走る松明。廊下を踏み鳴らす足音。——戦だ。
帳面を閉じて、わたくしは立ち上がる。胸の内で、祝詞の束がまた少し重くなった気がした。
名を守るということが、ただ書き留めることではないのだと。
あの眠そうな目の男が、これから教えてくれるような、そんな予感がしていた。
寧々の帳面、いかがでしたか。本編は明日20時10分に続きます!




