第八話「最強への第一歩は井上だった」
軍議の間は、揉めに揉めていた。
南岸に上陸した田中軍先鋒・七百。対して城に残る手勢は八百。数の上では互角。だが井上玄水は水の名力持ちで、上陸地点は川筋の多い低地だ。正面からぶつかれば、川がすべて敵の味方をする。
「城で迎え撃つべきだ」「いや北の戦線が空く」「そもそも狙いはなんだ」——
議論が三周したところで、俺は挙手した。
「あのー。よそ者が失礼。ひとつ確認ですが、南岸のあの低地、昔は塩田だったのでは?」
中村の武者たちが顔を見合わせた。義親が眉を上げる。
「……ほう。なぜわかる」
「地名です。分限帳を読んだとき、あのあたりの村の名に『塩屋』『浜田』が並んでた。地名と名字は土地の歴史書なんですよ。塩田だったなら、掘れば地下は海水だ。——つまりあの低地の『水』は、真水じゃなくて塩水です」
で、ここが名字マニアの独壇場である。
「井上という姓の由来は『井戸の上に住まう者』。井上の水の術は、本来は真水の術——湧き水、井戸、川の水脈を操る力です。海水は専門外のはず。だから玄水は、わざわざ川筋の多い低地を選んで上陸した。裏を返せば」
俺は地図の一点を叩いた。
「川から引き離して、塩の土地に誘い込めば、あの男は素の武人になります」
◇
作戦は単純だった。
囮部隊が街道で小競り合いを演じて後退し、田中軍を旧塩田の荒れ地へ誘い込む。左右の丘に伏兵。挟み撃ち。以上。
単純な作戦ほど強い。前世のプレゼン資料と同じで、凝ったやつは大抵こける。
そして俺はと言えば、後方の丘で見学——の、はずだった。
はずだったのだ。
「な、なんで本陣が突破されてるんですかね!?」
戦というのは計画通りにいかない。敵の一隊が伏兵を嗅ぎつけ、迂回し、よりにもよって俺のいる後方の丘に駆け上がってきたのだ。護衛の真鶴は囮部隊の救援に出ている。周りには兵が数名。
そして先頭の騎馬武者が、まっすぐこっちに来る。歳は五十ぐらい。背が高く痩身で、日焼けした精悍な顔に、鬢には白いものが混じっている。青い陣羽織。腰に瓢箪をいくつも下げた、切れ長の目の男。歴戦、という言葉が服を着て馬に乗っている感じだ。
——井上玄水。大将自ら、だと?
「琉球の若君とお見受けする!」
玄水は馬上から、意外なほど折り目正しく叫んだ。
「この塩地の罠——中村の猪武者どもに描ける絵図ではない。捕えた物見が吐いたわ。『琉球の智者の献策』とな! 見事! ——ゆえに、貴殿の首だけ頂いて帰る!」
「情報の出どころ丁寧に教えてくれてありがとう! でも話が繋がってないんだよなあ!!」
逃げた。全力で逃げた。王子の威厳? 命あってのもんだ。
だが馬と徒歩では勝負にならない。あっという間に追い詰められて、崖っぷち。眼下は、掘り残された古い塩田の水たまり。
玄水が馬を降り、瓢箪の栓を抜いた。中から水が、生き物みたいに躍り出て、槍の形になる。真水を持ち歩いてるのか。用意周到じじぃめ。
「恨みはない。だが貴様のような童子は、生かしておけば十年後の田中の災いになる」
「十年後まで見込んでくれるのは光栄だけども!」
水の槍が来る。
一本目——右足を軸に、体を開いて躱す。穂先が頬の横を抜け、風圧で髪が散った。
二本目——駄目だ、避けきれない。咄嗟に腰を落とし、掌で槍の腹を外へ流す。毎朝、夜明け前の裏庭で、あの人に骨まで叩き込まれた——金城の受けだ。水の槍が掌の上を滑り、肩口を掠めて背後の岩を砕いた。灼けるように痛い。だが、致命傷じゃない。
「……ほう。空紋の若君が、武芸を」
「かじった程度だけどな!」
三本目が来る。もう受けられない。膝が笑ってる。名力もない、得物もない、あるのは口だけ——だったら。
瞬間、俺は最後の手札を切った。
「井上玄水! あんた、『井上』の真の意味を知らないだろう!」
水の槍が、俺の鼻先で止まった。
「……なんだと?」
「井の上に住む者。じゃあなぜ、井戸の『上』なのか。水を汲むだけなら『井本』でも『井田』でもいい。なぜ『上』か——考えたことは?」
我ながら、命乞いの内容が名字談義な人間は史上初ではなかろうか。
だが、効いた。玄水の目が揺れている。この男、自分の姓に誇りを持っている。持っているからこそ、由来を知らないことが、棘になる。
「『上』はな、見張りの位置なんだよ。井戸は集落の心臓だ。毒を入れられたら村が死ぬ。だから井戸の上に立って、水を守る者がいた。それが井上だ。——あんたの姓は、水で攻める姓じゃない。水を守る姓なんだ」
「……それを、儂に説いてどうする」
「あんたが本当に守りたい水は、どこにある? 少なくとも、海を渡った先の島じゃないだろ」
沈黙が落ちた。
そして俺は見た。玄水の肩越し、丘の下から金色の閃光が駆け上がってくるのを。
「琉太ぁぁああ!!」
真鶴だ。囮部隊を救援し終えて、鬼の形相で戻ってきた——右腕の姓紋が真昼の太陽みたいに輝いて、その光が長刀の刀身へ流れ込んでいる。
金城の名力「金の護」。触れた得物を、その場で鋼ごと鍛え直す守りの術だ。楯を固め、鎧を固め、城門を固める。本来はそういう、守るための力である。
そして真鶴が振るう長刀にも、名がある。北谷菜切。元は尚家伝来の短刀で、「鞘に納めたまま、触れもせず鬼女の首を斬った」という物騒な逸話を持つ銘器を、金城家が長刀に打ち直して受け継いだものだ。名字マニア的に補足すると、銘=武器の名前もまた、この世界では力になる。語り継がれた逸話が、そのまま刃に宿るのだ。
だから真鶴のそれは、ひと味違う。
黄金に灼けた長刀が一閃。水の槍を三本まとめて両断し、返す刃で周りの敵兵の槍衾を柄ごと薙ぎ払う。斬られた得物はなまくらに「鍛え直され」て形を失い、ただの鉄くずになって地に落ちた。武器を壊すのではない。武器で在ることを、やめさせる斬撃。
守りの姓で、殴る。金城家一の型破りと呼ばれる所以だ。敵はたまったものではない。
真鶴の長刀は、止まらなかった。そのまま、たった一人で先鋒の穂先をへし折っていく。規格外だ。田中の兵が「化物姫だ」と喉を鳴らして後ずさる。その怯んで空いた隊列の脇腹へ——丘の陰に伏せていた中村の伏兵が、鬨の声とともに雪崩れ込んだ。
形勢は、一呼吸でひっくり返った。
挟まれた田中の先鋒が、算を乱して崩れていく。逃げ場のない兵が、次々と地に伏せられていくのを、玄水は馬上から見ていた。
勝敗は、もう決していた。ここで意地を張れば、囲まれた自分の兵が、あと何十人と無駄に死ぬ。それだけの話だった。
玄水は周囲を見渡し、深く息を吐いて——瓢箪を地に置いた。降伏の作法だった。
「そこまでだ。——皆、得物を捨てよ! これ以上は犬死にだ。儂が預かる!」
よく通る声だった。崩れかけた田中兵の何人かが、その一声で得物を投げ出す。統率の取れた、いい将だ。自分の負けより、部下の命を先に数える。
「……見事。この首、煮るなり焼くなり」
「いや、いらないですけど首は」
玄水は、崖の下の塩田を——白く干上がった水たまりを、長いこと見ていた。
「……この島の井戸は、どこも水が澄んでおるな」
ぽつりと、そんなことを言った。
「南征軍はな、小僧。落とした町の井戸を真っ先に押さえる。水を握れば民は逆らえん。改姓の判も早う進む。……儂はそれを、三十年やってきた」
「……」
「水を守る姓、と貴様は言うたな。ならば教えてくれ。三十年、水で民を縛ってきた井上は——何と名乗ればよい」
返す言葉を、俺は持っていなかった。持っていたら、たぶん嘘になっていた。
だからこの男は、素直に縄についたのだと思う。負けたからじゃない。とっくの昔に、自分の名に負けていたからだ。
◇
……初めての戦場の後始末は、書物で読んだどんな戦記よりも、静かで、重かった。
塩の荒れ地に、動かなくなった兵が転がっている。敵も、味方も。俺の描いた絵図の通りに兵が動いて、絵図の通りに——人が死んだ。前世で四十年近く生きて、俺は死体というものを、一度も見たことがなかったのだ。
指先が震えていることに、真鶴に言われるまで気づかなかった。
「初陣で震えない奴のほうが、どうかしてるんだって。父上がいつも言ってる」
真鶴はそれだけ言って、あとは何も聞かずに、隣に立っていた。……たぶん、こいつも初陣だった。それでも、震えてる奴の隣に立つほうを選ぶ。そういう奴なんだった。
◇
——で、だ。
問題はその後に起きた。
捕虜となった玄水が俺の前で膝をつき、「敗軍の将として名乗りを」と正式に姓名を告げた、その瞬間。
右腕が、燃えるように熱くなった。
見ると、肘の下に——紋が、浮かび上がっていた。
薄く、蒼く、井桁の形。
「せ、姓紋!?」「空紋の若君に!?」「なぜ井上の紋が!?」
周囲は大混乱。当の玄水は自分の腕と俺の腕を三往復ぐらい見比べている。
俺だけが、静かに得心していた。
——そういうことか。
紋が浮かび上がった瞬間、なぜか俺にはわかった。
帳簿の外にいる俺は、自分の名を持たない。代わりに、縁を結んだ名を「重ねて」名乗れるんだろう。戦って、認めさせて、名乗りを受ける。それが契約。
……皮肉なもんだ。もし俺がただの「前世持ちの琉球人」だったら、帳簿の中の人間として、比嘉の陽紋がひとつ出て、それで終わりだった。魂ごと異界から来た余所者だったからこそ、名の器が空っぽで——だからいくらでも、名を注ぎ足せる。空紋は、欠陥品の証じゃなかった。空だから、いくらでも入る器の証だったんだ。
一人一姓の理の、外側の力。
名付けようか。【重名】と。
感動的な覚醒の瞬間である。生涯忘れないだろう。ただ、ひとつだけ言わせてほしい。
(最強への第一歩が……井上…か…)
いや、いい名字だ。水を守るいい名字なんだ。俺が言ったんださっき。本人に。
でもこう、転生チートの初取得スキルとしては、もうちょっとこう、派手なやつをだな。
「琉太! 腕が! 紋が!」
「ああうん、知ってる。知ってるから、そんなキラキラした目で見ないでくれ真鶴」
ちなみにこの直後、試しに玄水の瓢箪の水を動かそうとしたら、水柱が三間(約五メートル)上がって全員ずぶ濡れになった。
初日の井上、思ったより強い。
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