第五話「厄介払いの使者、船に乗る」
尚家の屋敷は、外から見るより中のほうが痛々しかった。
家具はほとんどない。売ったのだろう。それでも床は鏡みたいに磨き上げられていて、床の間には花が一輪だけ活けてある。
金がないのは、ひと目でわかる。なのにこの家は、少しも荒れていない。貧しさに暮らしが崩れるどころか、王家だった頃の格式を、貧しいまま必死に保ち続けている。
——それが、かえって痛々しかった。全部を失っても捨てられない誇りというものを、俺はこの家で初めて見た。
後で聞いた話だが、この広い屋敷に住んでいるのは、寧々ただ一人だという。母は寧々を産んですぐに亡くなり、父——先代の尚家当主は、尚の名を守ることだけに一生を費やして、寧々が十二の年に病で逝った。貧しさに薬も買えぬまま。以来、彼女は天涯孤独で、この崩れかけの家と、系譜と、海図を、たった独りで背負っている。
……誇りだけが、同居人というわけだ。
「触らないで。順番があります」
寧々が奥の間から運んできたのは、漆塗りの長持だった。蓋を開けると油紙に包まれた紙の束——海図だ。
広げた瞬間、俺は息を呑んだ。
琉球から九州へ至る海路。潮流の向き、季節ごとの風、暗礁の位置、水を補給できる島。それが何十年分も、几帳面な筆で重ね書きされている。
城の書庫にある海図が子どもの落書きに見えた。これは海図というより、海そのものだ。
そして海図の下——長持の底に、もう一つ。細長い布に巻かれた、太刀らしきものが横たえてあった。布は古びているのに、そこだけ埃ひとつ積もっていない。毎日、手入れされている証拠だ。
「それは?」
「……あなたには関係のないものです」
寧々は蓋の角度をずらして、それをさっと隠した。触れてくれるな、という気配があまりに硬かったので、俺は素直に引き下がった。名を奪われた家が、海図よりも大事に抱えているもの。……気にはなったが、今は海図だ。
「すごいな……これ、何代分だ?」
「十一代分です」
寧々は当然のように言った。
「尚家は海の王でした。比嘉が陸の、人の数で栄えた王家なら、尚は海路の王。……もっとも、その海図を最後に使ったのは三代前。負け戦の退き船のためでしたけれど」
嫌味の切れ味が良すぎる。日本刀か。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。俺は約束通り「対価」を払った。尚の名の由来。琉球がまだ小さな按司たちの島だった頃から、その名が背負ってきたもの。前世で読み込んだ姓氏事典と琉球史料の記憶を、洗いざらい。
寧々は途中から一言も口を挟まなかった。ただ、俺の話を一句も逃すまいと、身じろぎもせずに聞いていた。
語り終えたとき、彼女は長い沈黙のあとに、ぽつりと言った。
「……あなた、何者ですか」
「名字マニア」
「まにあ?」
しまった、通じない。
「学者だ。名前の、由来の」
「空紋の三男が、名の学者……」
寧々はしばらく俺を見つめて——それから、ふいっと横を向いた。
「変な人」
その横顔が少しだけ緩んでいたことは、指摘しないでおいた。指摘したら海図を没収されそうだったからだ。
◇
潮目が変わったのは、三日後だった。
中村国の船が、那覇の湊に入った。使者ではない。難民だった。
行くあてのない民を乗せた船が三隻。彼らが運んできた報せは最悪だった。中村国の北の砦が落ちた。田中軍は九州南端へ、じわじわと戦線を押し下げている。
城は今度こそ大騒ぎになった。何しろ「海の向こうの戦」が、向こうから海を渡ってきたのだ。難民という形で。
で。
「——琉太。お前を中村国への使者とする」
再びの謁見の間で、父上はそう言った。
名目は「見舞いの使者」。援軍は送らない。物資を少し積んで、様子を見てこい。それだけの役目だ。
兄たちの顔を見れば、この人事の意味はすぐわかった。安堵と、嘲りと、ほんの少しの後ろめたさ。……なるほどな。戦場になるかもしれない土地への使者。誰も行きたくない。だったら、死んでも王家の損にならない者を送ればいい。
厄介払いだ。綺麗なまでの。
「謹んで、お受けします」
俺は最高の営業スマイルで平伏した。
内心はガッツポーズである。本土行きの船と、公式の肩書き。欲しかったものが両方、向こうから転がり込んできた。厄介払い、大歓迎。むしろ毎年やってほしい。
——ただし父上は最後に一つだけ、妙なことを言った。
「琉太。……お前は、七年前のあの日から、一度も泣き言を言わなんだな」
えっ、と顔を上げたときには、父上はもう次の議題に移っていた。
なんだよ、それ。少しだけ調子が狂うじゃないか。
◇
出航の朝。首里から坂を下ること一里、那覇の湊には、予想通りの顔と、予想外の顔が揃っていた。
予想通りのほう。金城真鶴。護衛役に自分から立候補したらしい。長刀を背負って、遠足前の子どもみたいな顔をしている。
「姫武者が王都を空けていいのかよ」
「父上の許可は取った! 『空紋の若君を一人で行かせるは金城の恥』だって」
「過保護な一族め」
で、予想外のほう。
船着き場の先に、旅装の寧々が立っていた。例の長持を従者に持たせて。
「……どしたん」
「海図は貸すと言いましたが。読み手がいなければ意味を為しません」
寧々は綺麗に顎を上げた。
「あの海図は尚家の記法で書かれています。潮の癖も、風の読みも、尚の人間にしか使いこなせません。つまり、わたくしが行かなければあなたは三日で座礁します」
「いや、しかし戦地に姫を——」
「姫? どこに姫がいるのです」
寧々の目が、すっと細くなった。
「没落した家の娘が、今さら何を惜しむのですか。……それに」
彼女は一瞬だけ言葉を切って、海の向こうを見た。
「中村国には、三代前の戦で散った尚の旧臣の血筋が残っていると聞きます。名を変えられ、それでも生きていると。——確かめたいのです。この目で」
名を奪われた家の、生き残り探し。
それはたぶん、この世界で一番静かで、一番重い巡礼だ。断る資格は俺にはなかった。というか、海図の読み手は普通に必要だったな。忘れてたわ。
「……分かった。ようこそ、厄介払い船へ」
「その船名はやめなさい」
帆が張られ、船が岸を離れる。
遠ざかる那覇の湊と、その奥の丘に小さくなっていく首里の城を見ながら、俺は考えていた。中村国の戦況、田中軍の南進速度、そして——鹿児島の位置にある国の、俺だけが知っている名字事情のことを。
(中村国、か……)
中村。鹿児島で一番多い名字。だが名字マニアとして言わせてもらえば、鹿児島の本当の面白さは二位以下にある。山下、田中、前田、東——そして、島津の流れを汲む希少姓たち。
希少姓には、唯一無二の力が宿る。
つまりあの国には、数こそ少ないが、とんでもない切り札を持った家がごろごろ眠っているはずなのだ。
——ようし。
戦乱の世への第一歩。まずは味方集めから始めよう。攻略本(俺)を、フル活用してな。
船は黒潮に乗り、一路北へ。
空紋の三男、乱世に打って出る。
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