第四話「没落の姫は言祝ぐ」
俺と真鶴が向かう先は、城下の外れ。首里の赤瓦が並ぶ古い町並みの、さらに奥。目当ては——古文書だ。
城の書庫はあらかた読み尽くした。だが琉球の海図と本土の水路についての記録は、城の書庫にはない。それを持つ家が、この島にひとつだけある。
——尚家。
比嘉王家の前にこの島を統べていた、旧王家。
三代前の名取戦 に敗れ、一族のほとんどが「比嘉」への改姓を強いられた。いまや尚を名乗る者は、片手で数えるほどしかいない。
なぜ「ほとんど」で、「全て」じゃないのか。——理由は、この世界で一番重い禁忌にある。名を完全に絶やすと、その名に宿っていた理が反動を起こし、奪った側の名力にまで欠けが生じると信じられているのだ。だから勝者は、敗れた家の直系を一人だけ、旧姓のまま残す。「名の残り火の、番人」として。尚の直系である寧々が、今も『尚』を名乗れているのは、温情なんかじゃない。禁忌を避けるための、冷たい制度の結果だ。
名を奪われた、最初の王家。
ここで、名取戦の説明をしておこう。名取戦は、ただの戦争ではない。御嶽の神前で両家が「名」を賭けて誓い、日取りと場所を定め、立会いの神官のもとで雌雄を決する——この世界で唯一、姓を"濁りなく"奪える、公式の決闘だ。騙し討ちや私闘では、名の理は動かない。名前そのものを賭けるからこそ、作法だけは異様に重い。ちなみに、征服して力ずくで改姓させる道もあるにはあるが、そうやって奪った名の加護は紙みたいに薄い。前に言った「馴染むまで三代」というやつだ。
そして——これは名字マニアの俺だから言えることだが、比嘉が尚に勝った理由は、術の強さなんかじゃない。比嘉の陽紋は癒しと士気の、守りの紋。攻めの力はない。尚の言祝ぎは精兵を底上げする祝福。まともにやり合えば、質では尚が上だ。
なのに勝ったのは、「数」だった。きっかけは、百年あまり前の大嵐だという。尚の誇る船団が一夜で海に呑まれ、海の王は民を養えなくなった。飢えた民は、畑と蓄えを持つ比嘉を頼り——望んで、比嘉の姓を名乗った。名力は数。そして数とは、民がどちらの名を選んだかという、声なき投票でもある。膨れ上がった比嘉は、作法通りに神前で名取戦を申し込み、三日三晩の決戦の末に勝った。倒れても不屈の陽紋で立ち上がる兵の厚みに、言祝ぎの精鋭が磨り潰されたのだ。
……勝ち方に汚点はない、と比嘉側の記録は言う。事実、勝った後も名の番人を残し、王剣を返し、落ち延びる旧臣を追わなかった。だが、奪われた側にとって、それが何の慰めになる。作法通りに奪われた名前も、奪われた名前であることに、変わりはないのだから。
前世の知識で言えば、琉球国王は代々「尚氏」だ。この世界では名字の数がすべてを決めるから、最多姓の比嘉が玉座に座っている。だが俺は知っている。尚という名の重さを。あれは四百五十年、王であり続けた名だ。
「ねえ琉太、本気で行くの? 尚家って、その……」
「呪われてるとか祟るとか言うなよ。没落した家の悪評なんて、勝った側が塗った漆喰だ」
路地の奥。石垣は崩れかけ、屋根は色褪せ、それでも門構えだけは背筋を伸ばしている屋敷があった。
訪いを入れる前に、門が開いた。
「——帰りなさい」
立っていたのは、俺と同じ年頃の娘だった。
そして——心臓が止まると錯覚するくらい綺麗だった。
白磁みたいな肌に、陽に透ける長い黒髪。切れ長の目は睫毛が長く、立ち姿は一本の筆みたいに凛としている。城の女官たちが束になっても敵わない、と断言できる美少女だ。
着物は古いが、繕いは完璧。何より目つきが良い。良すぎる。こっちを軽蔑のまなざしで射抜いてくる感じの良さだ。
「比嘉の三男坊でしょう。空紋の琉太。顔くらい知っています」
「光栄だな。俺も知ってる。尚家最後の姫、寧々(ねね)殿」
「最後、とは失礼ですね」
ぴしゃり、と声が鳴った。
「尚家は終わっていません。わたくしが継いでいます。——それで? 名を奪った家の子が、名を奪われた家に何のご用ですか」
うわ、手強い。真鶴が背後で「帰ろ?」と袖を引いてくる。まぁ帰らないが。
「海図を見せてほしい。尚家が四百五十年かけて作った、本物の海図を」
「お断りします」
「即答!?」
「あなたに貸す名分がありません。比嘉の若君」
寧々は門柱に手を添えて、冷たく笑った。
「それとも、王家の権威で取り上げますか? 構いませんよ。名も、国も、誇りも取り上げてきた家系ですもの。海図の一枚、今さらでしょう」
——ぐうの音も出ない、とはこのことだ。
事実だからだ。この世界の理屈では、勝った姓が正義で、負けた姓は消える。比嘉はそれをやった側で、俺はその末席にいる。
だから俺は、正面から答えることにした。
「取り上げない。借りたいんだ。対価は払う」
「没落した家に払う対価など——」
「『尚』の由来を知ってる」
寧々の言葉が、初めて止まった。
「尚という字の意味。この名がどこから来て、何を背負ってきたか。……あんたの家の系譜が焼けたのは三代前の戦でだろう。いま『尚』の来歴を最初から最後まで語れる人間は、この島にはもういない」
俺は一歩踏み込んで、言った。
「俺は語れる。全部だ」
沈黙。
乾いた風だけが路地を抜けていく。寧々は俺をじっと見た。軽蔑の目つきのままで、しかしその奥に、初めて別の色が映り揺れた。
「……口から出まかせを」
「尚は『たっとぶ』とも読む。願いを掛けて、なお高くを望む字だ。かつてこの名は、ただの家名じゃなく——祈りの言葉そのものだった。違うか?」
「……表の、由来だけは、ね」
寧々の声が、絞り出すように掠れた。
「どの姓にも、宗家だけが知る"名の裏側"があるといいます。表の字の、そのまた奥の、古い綴り。……けれど、それはもう誰にも読めません。うちの系譜は、三代前に焼けましたから。奥へ続く扉の、鍵ごと灰になったのです」
名の、裏側。——その一言を、俺は頭の帳面に、そっと書き留めた。
「俺なら裏側まで見つけてみせる」
寧々がため息を吐き、かすかに震えた声で言った。
「……入りなさい」
え、いいの? と言いかけた真鶴を目で黙らせて、俺は崩れかけた門をくぐった。
——あとで知ることになる。
このとき寧々が俺を通したのは、俺の話が正しかったからじゃない。
正しいかどうかを、確かめられる方法が、彼女自身にもなかったからだ。
名を奪われるというのは、そういうことだった。
ヒロイン登場回でした。ブックマーク・☆評価が更新の励みになります!




