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名字マニアの天下取り ~名字が国名の戦国で、俺は47の名を誉めて味方にする~  作者: 無名の権兵衛
第二部・九州動乱編【集めた名 四/四十七】

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幕間八「農夫は答えを持って畑に立つ」(田中宗典視点)

 北へ帰る海は、去年と同じように凪いでいた。


 旗艦の楼上で、田中宗典は日本号の柄を布で拭いている。天逆鉾の隣に突き立ったあの槍は、抜くのに小半刻かかった。神代の鉾に並んで立った槍を引き抜くというのは、どうにも据わりの悪い仕事であった。


 八千は来た時と同じ数で帰る、死人はひとりも出ていない。


 名取戦とはそういうものだ。


 ◇


「宗典様、九州の水位ひととおり測り終えましてございます」


 判所の役人が、脇差ほどの長さの木の枡を捧げ持って上がってきた。官製の枡である。名を測る役人が、どこへ行くにも腰に提げているあれだ。


 手をかざせば内側に水位の線が上がる。名の器にどれだけ溜まっているかが、それで分かる。


「言うてみよ」


「筑後、豊前、肥後——判を押させた郷は、軒並み三寸から四寸ほど下がっております。名戻しの届けが出始めた郷では、もう底が見えるほどに」


「当たり前じゃ」


 宗典は槍を拭く手を止めなかった。


「判で溜めた水は判を外せば流れる。あれは汲んだ水ではない、堰(せき)で止めておっただけの水よ」


 役人が、言いにくそうに口ごもった。


「それと……ひとつ、腑に落ちぬことが」


「申せ」


「名取戦の朝、遠目から比嘉琉太を測りましてございます。……映りませんでした」


 布を動かす手が、初めて止まった。


「映らぬとは」


「枡が、空(から)のままで。水位の線がまったく上がりませぬ。……何度やっても同じでございました」


 しばらく、波の音だけがしていた。


「では聞くが」


 宗典は、静かに言った。


「枡に一滴も映らぬ男が、天下三名槍を弾いたのか」


「……はい」


「面白い」


 役人は困った顔をし、深く一礼して下がっていった。あの男の枡は、たしかによく測る。判所の帳面に載る範囲のことは、なんでも測る。


 だが枡が測るのは、器に溜まった水の高さだけだ。


 水が甘いか、しょっぱいか。どこから湧いて、どこへ流れていくのか。——そういうことは、飲んでみねば分からぬ。


 ◇


 都からの召還状は、名取戦の三日後に着いていた。


 文面は丁重である。労いの言葉があり、療養を勧める一行もあり、当分は都で宗家を助けるように、と書いてある。読み方はひとつしかない。九州から手を引けということだ。


 斬られはすまい、と宗典は思った。作法どおりに名を賭け、作法どおりに負けた将を斬れば、田中が自分の手で式目を軽んじたことになる。判で天下を握った家が、いちばん判の理に縛られる。


 痛いのは、別のところだ。


 負けたことではない。負けたうえに返されたことである。


 あの小僧はしゃがんで、目の高さを合わせて言った。あんたの田中は、生かせる側の田中だと、だから返すと。


 宗家にとって、あれは敗北より始末が悪い。田中の名は、比嘉琉太の情けで生き延びている——そう読める形になってしまった。


 それに、と宗典は思う。


 八千の前で、真名を解いた。


 三百年隠してきた種凪を味方と敵の目の前で、それがしは自分から開いてみせた。宗家の顔色が目に浮かぶようである。


(惜しいとは思わぬ。……隠しておっても、あの小僧はいずれ由来から掘り当てたであろうしな)


 ◇


 答えを用意しておこう、と去年の海で書いた。


 あれの言う「農法」で返すのが武人の礼儀だと思い、この一年、それがしはそれをやってきたつもりだった。


 判で名を書き改めさせ、水で兵を縛った。どちらも、田を増やす手立てである。


 増やして、増やして——それでも、あの朝の谷には勝てなかった。


 なぜかは、山の上で分かった。


 凪の底で、谷から名乗りが上がってきたときだ。


 それがしのやり方は、名を移しておっただけなのだ。井上の田を田中の田に書き改める。数の上では田中が増える。だが天下の田の総量は、一坪も増えておらぬ。


 あの小僧は違う。


 誉めて回った先で、名が増えていた。井上は井上のまま、前より濃くなって残っておった。黒木も、尚も、そうであろう。


(畑を増やすのではない。——土を、肥やすのだ)


 長いこと畑の理で戦ってきた男が、いまさら気づいた。


 種は蒔けば減る。だが土は、肥やせば毎年返してくる。


 それがしの答えは、これだ。


 ◇


 もうひとつ、山の上で分かったことがある。


 種凪の穴である。


 あれは名を眠らせる術だ。田に還す術と言い替えてもよい。土の下で眠っておる種は、刈られることもない代わりに、実ることもない。


 だが、あの朝——谷の底の声だけは、凪の中を通ってきた。


 なぜか。


 あれは名力ではなかったからだ。ただの声だった。国ひとつぶんの人間が、朝の習いで口にしていただけの言葉。


 凪は田を眠らせる。田の外で歌う者までは、眠らせられぬ。


(……よく出来ておるわ、名の理というやつは)


 畑の中でいちばん強い術を極めた男に、畑の外から声が来た。三百年、誰も気づかなかった穴である。


 それを見つけたのが、枡に映らぬ小僧だというのが、また出来すぎておった。


 ◇


「宗典様」


 小姓が、湯呑みを持って上がってきた。


「兵たちが、その、妙なことを言うておりますが」


「なんじゃ」


「谷を出るとき、皆で頭を下げた者がおりましたろう。あれを、誰が最初に始めたのかと言い合っておるのです。……賭けの場で、いちばん大きく笑うておった男だと」


「そうか」


「叱りますか」


「何を叱る」


 宗典は、湯呑みを受け取った。


「頭の下げどころを覚えて帰る。それだけでも、八千を九州へ連れて行った甲斐はあったわ」


 小姓は、よく分からぬという顔で下がっていった。


 それでよい。分からぬまま覚えておけばよい。理屈は後から追いつく。畑もそうだ。


 ◇


 豊後の海を北へ抜けながら、宗典は槍を鞘に納めた。


 次に九州へ渡るのは、それがしではあるまい。


 宗家は別の将を立てる。判の使い方が上手く、名の作法に疎く、負けても面目の傷まぬ誰か——そういう者を選ぶだろう。


 そのような者が、谷へ行く。


 朝の名乗りを聞いても、何も聞こえておらぬ顔で通り過ぎるだろう。枡をかざして、水位が低いと帳面に書くだろう。そして——枡に映らぬ男に、同じ負け方をするだろう。


(気の毒にな)


 湯呑みの茶は都の水で淹れたものだった。九州の水よりずいぶん硬い。


 都に着いたら、まず畑を借りようと思う。


 肥やし方を、一から試し直さねばならぬ。


(幕間八・了)

次回、明日20時10分。第二部・九州動乱編、最終話です。

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