幕間八「農夫は答えを持って畑に立つ」(田中宗典視点)
北へ帰る海は、去年と同じように凪いでいた。
旗艦の楼上で、田中宗典は日本号の柄を布で拭いている。天逆鉾の隣に突き立ったあの槍は、抜くのに小半刻かかった。神代の鉾に並んで立った槍を引き抜くというのは、どうにも据わりの悪い仕事であった。
八千は来た時と同じ数で帰る、死人はひとりも出ていない。
名取戦とはそういうものだ。
◇
「宗典様、九州の水位ひととおり測り終えましてございます」
判所の役人が、脇差ほどの長さの木の枡を捧げ持って上がってきた。官製の枡である。名を測る役人が、どこへ行くにも腰に提げているあれだ。
手をかざせば内側に水位の線が上がる。名の器にどれだけ溜まっているかが、それで分かる。
「言うてみよ」
「筑後、豊前、肥後——判を押させた郷は、軒並み三寸から四寸ほど下がっております。名戻しの届けが出始めた郷では、もう底が見えるほどに」
「当たり前じゃ」
宗典は槍を拭く手を止めなかった。
「判で溜めた水は判を外せば流れる。あれは汲んだ水ではない、堰で止めておっただけの水よ」
役人が、言いにくそうに口ごもった。
「それと……ひとつ、腑に落ちぬことが」
「申せ」
「名取戦の朝、遠目から比嘉琉太を測りましてございます。……映りませんでした」
布を動かす手が、初めて止まった。
「映らぬとは」
「枡が、空のままで。水位の線がまったく上がりませぬ。……何度やっても同じでございました」
しばらく、波の音だけがしていた。
「では聞くが」
宗典は、静かに言った。
「枡に一滴も映らぬ男が、天下三名槍を弾いたのか」
「……はい」
「面白い」
役人は困った顔をし、深く一礼して下がっていった。あの男の枡は、たしかによく測る。判所の帳面に載る範囲のことは、なんでも測る。
だが枡が測るのは、器に溜まった水の高さだけだ。
水が甘いか、しょっぱいか。どこから湧いて、どこへ流れていくのか。——そういうことは、飲んでみねば分からぬ。
◇
都からの召還状は、名取戦の三日後に着いていた。
文面は丁重である。労いの言葉があり、療養を勧める一行もあり、当分は都で宗家を助けるように、と書いてある。読み方はひとつしかない。九州から手を引けということだ。
斬られはすまい、と宗典は思った。作法どおりに名を賭け、作法どおりに負けた将を斬れば、田中が自分の手で式目を軽んじたことになる。判で天下を握った家が、いちばん判の理に縛られる。
痛いのは、別のところだ。
負けたことではない。負けたうえに返されたことである。
あの小僧はしゃがんで、目の高さを合わせて言った。あんたの田中は、生かせる側の田中だと、だから返すと。
宗家にとって、あれは敗北より始末が悪い。田中の名は、比嘉琉太の情けで生き延びている——そう読める形になってしまった。
それに、と宗典は思う。
八千の前で、真名を解いた。
三百年隠してきた種凪を味方と敵の目の前で、それがしは自分から開いてみせた。宗家の顔色が目に浮かぶようである。
(惜しいとは思わぬ。……隠しておっても、あの小僧はいずれ由来から掘り当てたであろうしな)
◇
答えを用意しておこう、と去年の海で書いた。
あれの言う「農法」で返すのが武人の礼儀だと思い、この一年、それがしはそれをやってきたつもりだった。
判で名を書き改めさせ、水で兵を縛った。どちらも、田を増やす手立てである。
増やして、増やして——それでも、あの朝の谷には勝てなかった。
なぜかは、山の上で分かった。
凪の底で、谷から名乗りが上がってきたときだ。
それがしのやり方は、名を移しておっただけなのだ。井上の田を田中の田に書き改める。数の上では田中が増える。だが天下の田の総量は、一坪も増えておらぬ。
あの小僧は違う。
誉めて回った先で、名が増えていた。井上は井上のまま、前より濃くなって残っておった。黒木も、尚も、そうであろう。
(畑を増やすのではない。——土を、肥やすのだ)
長いこと畑の理で戦ってきた男が、いまさら気づいた。
種は蒔けば減る。だが土は、肥やせば毎年返してくる。
それがしの答えは、これだ。
◇
もうひとつ、山の上で分かったことがある。
種凪の穴である。
あれは名を眠らせる術だ。田に還す術と言い替えてもよい。土の下で眠っておる種は、刈られることもない代わりに、実ることもない。
だが、あの朝——谷の底の声だけは、凪の中を通ってきた。
なぜか。
あれは名力ではなかったからだ。ただの声だった。国ひとつぶんの人間が、朝の習いで口にしていただけの言葉。
凪は田を眠らせる。田の外で歌う者までは、眠らせられぬ。
(……よく出来ておるわ、名の理というやつは)
畑の中でいちばん強い術を極めた男に、畑の外から声が来た。三百年、誰も気づかなかった穴である。
それを見つけたのが、枡に映らぬ小僧だというのが、また出来すぎておった。
◇
「宗典様」
小姓が、湯呑みを持って上がってきた。
「兵たちが、その、妙なことを言うておりますが」
「なんじゃ」
「谷を出るとき、皆で頭を下げた者がおりましたろう。あれを、誰が最初に始めたのかと言い合っておるのです。……賭けの場で、いちばん大きく笑うておった男だと」
「そうか」
「叱りますか」
「何を叱る」
宗典は、湯呑みを受け取った。
「頭の下げどころを覚えて帰る。それだけでも、八千を九州へ連れて行った甲斐はあったわ」
小姓は、よく分からぬという顔で下がっていった。
それでよい。分からぬまま覚えておけばよい。理屈は後から追いつく。畑もそうだ。
◇
豊後の海を北へ抜けながら、宗典は槍を鞘に納めた。
次に九州へ渡るのは、それがしではあるまい。
宗家は別の将を立てる。判の使い方が上手く、名の作法に疎く、負けても面目の傷まぬ誰か——そういう者を選ぶだろう。
そのような者が、谷へ行く。
朝の名乗りを聞いても、何も聞こえておらぬ顔で通り過ぎるだろう。枡をかざして、水位が低いと帳面に書くだろう。そして——枡に映らぬ男に、同じ負け方をするだろう。
(気の毒にな)
湯呑みの茶は都の水で淹れたものだった。九州の水よりずいぶん硬い。
都に着いたら、まず畑を借りようと思う。
肥やし方を、一から試し直さねばならぬ。
(幕間八・了)
次回、明日20時10分。第二部・九州動乱編、最終話です。




