第三十五話「木札を外す」
名取戦から五日。黒木城の広間には九州中の厄介事が持ち込まれていた。
文が届き、使いが着く。また文が届く。
名取戦に勝ったということは、九州で田中が押した判が、ぜんぶ宙に浮いたということだ。宙に浮いた名前は放っておけば落ちる。落ちた先が土なら芽が出るが、石の上なら枯れるように。誰かが拾って元の場所へ戻さなきゃならない。
「まず、数からじゃな」
玄水が帳面を開いた。
「筑後で書き改められた家は、儂の知る限り三百二十七軒。豊前と肥後を合わせて、締めて六百あまり。……これは去年の夏の数字ではない、今年の数字じゃ。この旅で儂の帳面も少しは若返った」
「戻すのに、どれくらいかかる」
「判を押すだけなら一日じゃ。じゃが、判で戻した名は判で消された名と同じ紙」
玄水は帳面の頁を、指で軽く叩いた。
「紙は三代待たねば馴染まん」
広間が、少し静かになった。
「——なら、紙でやらなければよいのです」
声を上げたのは寧々だった。
「祝の家に名戻しの作法がございます。神前で家の者が自分の口で旧い名を名乗り直す。立会いの神職が一軒ずつ書き取る。……手間はかかります。一日に十軒がやっとです」
「待ってくれ、ひとつ詰めたい」
俺は手を挙げた。ここで曖昧にしておくと、名戻しの旅がまるごと無駄になりかねない。
「天逆鉾で俺が賭けたのは『神の帳』の名だ。負ければそこから消えると、翁に教わった通りだった。……だが、いま話に出てる『帳』は三つある。田中の判所の帳面。寧々の帳面。神の帳。——名戻しで動かすのは、神の帳だな?」
「はい。力があるのは、神の帳だけです」
寧々は、迷わず答えた。
「では、あとの二つは」
「ただの紙です。わたくしの帳面も判所の帳面も、書いたところで名力は一分も動きません」
「じゃあ、田中の強制改姓は」
「紙です。だから加護が薄い。判が人を動かしたのは判の力ではなく、判を押させた兵の力です」
(紙は受け取りの控え、か)
「なら、その神の帳を動かすのは何だ。……紙じゃないな。俺の見立てだと、声のほうだ」
「人の口から出た言霊です」
姫はまっすぐに言った。
「名乗る声。それだけが神の帳に届きます。名力が名乗る者の数で決まるのも、同じ理由です。……神前の儀というのは、声を届きやすくするための作法にすぎません。祝の家が三百年磨いてきたのはそこです」
「立会いの神職が要るのも、そのためじゃな」
日高翁が頷いた。
「人が神へ向こうて名乗ったという証を、誰ぞが見ておらんといかん。見届け役のおらぬ名乗りは独り言じゃ」
腑に落ちた。
紙をいくら書き換えても名は動かない。動かすのはいつだって人の口だ。谷の朝の名乗りが種凪を破ったのも、なつが庭で叫んだのも全部そういうことだった。
「なら、もうひとつ。……神前ってのは、社がないと駄目なのか。郷によっては、社なんぞ無いところもあるだろう」
「社は要りませぬ」
日高翁が首を振った。
「要るのは神体じゃ。石でも、木でも、井戸でもよい。その郷で『ここに神が寄る』と昔から決まっておるもの。それがひとつあれば、そこが神前になり申す」
「逆に言うとそれが無い郷では」
「名戻しは、できませぬな」
しん、とした。
「玄水。井上郷の神体は」
「畦の道祖神じゃ」
玄水が静かに言った。
「子供の時分、毎朝拝んで通った石の顔よ。……いま、あれには田中郷と書いた木札が掛かっとる」
なるほど。
「なら、最初の仕事が決まったな」
「へえ」
「木札を、外すところからだ」
「——それと、若君」
日高翁が、杖で床を軽く突いた。
「郷の神体で足りるのは、一軒ずつの名までにござる。国と国の名を賭ける名取戦だけは、神代の地でなければ成り申さぬ。名が本当に消える儀じゃ。神が名を配ったその場所まで、声を届かせねばならん」
だから天逆鉾だったのか、と思った。
九州でいちばん高いあの山頂は、見晴らしがいいから選ばれたんじゃない。あそこが、いちばん神に近いからだ。
「じゃあ、寧々の帳面は——このまま、ただの紙で終わりか」
「ただの紙です」
姫は少しだけ笑った。
「ですが、ここに書いた名を、いつかわたくしが神前で読み上げれば——その日は、紙ではなくなります」
(……この姫、時々とんでもないことを、さらっと言うな)
「六百軒なら、二か月か」
「二か月です。ですが、その二か月で戻った名は紙ではありません」
「日高を出しましょう」
千歩が短く言った。
「うちの神官は暦と神楽の家です。人の家を一軒ずつ回るのは、慣れております」
「では、武士団から二十を護衛に」
甲斐が続けた。
「筑後は田中の代官所がまだ残っており申す。判をやめた代官が、皆おとなしいとは限らぬ」
「あたしも行くわ」
真鶴が長刀を担ぎ直した。
「玄水一人だと、また律儀に一軒ずつ頭下げて回って、二か月が四か月になるもの」
「……姉弟子どのは、儂を何じゃと思うておる」
「律儀な人だと思ってる。褒めてるのよ」
「がう」
岩丸が寧々の膝で鳴いた。同意らしい。
俺は最後に一つだけ足した。
「戻すとき、由来を一緒に言ってやってくれ」
全員が俺を見た。
「井上なら、井戸の水を分けた者の名だと。堀なら、掘った者の名だと。……名は、意味を思い出したときがいちばん強い。強く戻った名は、二度と揺れない。——判で戻すより、結局そっちのほうが早い」
「承知しました」
寧々が帳面に書き付けた。その一行が、たぶん今日いちばん大事な一行だった。
◇
「若、もう一つ報せがござる」
軍議が散ったあと、玄水が言いにくそうに近寄ってきた。
「筑後の代官所が、今月から名戻しの受け付けを始めたそうじゃ。……田中の代官が、自分で」
「主膳か」
「井手の彦一、と名乗っておるそうな」
俺は思わず笑ってしまった。
名を取り上げる側にいた男が、いちばん最初に自分の名を取り戻した。判所の帳の底にあると言い張っていた名前を、自分の口で名乗った。それだけで、あの郷の名戻しは半分終わったようなものだ。
「なあ、玄水。田中はあの人を咎めないのか」
「咎められん」
玄水は、きっぱり言った。
「名戻しは田中に背く仕事ではのうて、田中が負けた始末をつける仕事じゃ。あの御方は九州の判を丸ごと賭けて負けた。宗家がどれだけ悔しがろうと、いまさら『判は生きておる』とは言えん。……理が判を破いたのではないわい。破いたのは田中自身よ。名の勝負に負けた家が判にしがみつけば、判の根がその場で腐る」
「破ったら名が濁る。……名取戦の作法か」
「そういうことじゃ、判で天下を握った家がいちばん判の理に縛られる」
玄水は瓢箪の栓を抜いて、ひと口飲んだ。
「彦一どのは代官の役を解かれるじゃろう、だが名は戻る。……役を失うて名を戻した。あの男には、そのほうが割がええ」
「宗典のほうは」
「そこよ」
玄水の声が、少し低くなった。
「あの御方も罰は受けまい。作法どおりに賭け、作法どおりに負けた将を斬ってみよ。田中が自分で式目を軽んじたことになる。……じゃが、都へは召し還されるじゃろうな」
「面目の問題か」
「名を賭けて負け、そのうえ相手に返してもろうた。前例がない。宗家にとっては、負けよりそっちが痛いはずじゃ。……それに、あの御方は八千の前で真名を解いた」
「あ」
言われて気づいた。田中の真名は宗家が三百年隠してきた最高の機密だ。それを味方と敵の目の前で宗典は自分から開いた。
「儂らはもう田中の種凪を知っておる。……宗家からすれば負けより高くついた一手じゃろうな」
なるほど、と思った。あの人は斬られない。ただ、畑から遠ざけられる。
「じゃあ次に九州へ来るのは」
「宗典公では、あるまい」
玄水は瓢箪を腰に戻した。
「儂の帳面には、まだその名前が書けん。それがいちばん気に食わん」
「玄水。あんたの母御に、彦一の話をちゃんと伝えてやってくれ」
「……へえ」
◇
山口からも文が来た。
万里の字は相変わらず商いの字だったが、末尾の一行だけ様子が違った。
『湊でみょうな言い方を聞いた。琉球・中村・黒木・山口の四つを、まとめて呼ぶ言い方だ。——「南の第五勢力」と』
「第五だと」
「四大勢力の、次になったか」
玄水が帳面の新しい頁を開いた。
「北に佐藤連合、東に鈴木帝国、西に田中王国。それに北陸から四国まで、海沿いに散らばって山本。天下の数え方は三百年、この四つで済んでおった。……そこへ五つ目が湧いた、という言い方じゃ」
「湧いたって言うな。俺は同盟を四つ結んだだけだぞ」
「若。天下では、それを勢力と呼ぶんじゃ」
困ったことになった。
俺は勢力が欲しかったわけじゃない。この国のぜんぶを、この目で見たいだけだ。名字の由来を現地で確かめて、その土地の飯と酒を味わって、書庫に籠もる。それだけのために動いていたら、いつのまにか天下の数え方が四つから五つに増えていた。
「琉太様。お顔が嫌そうです」
「嫌なんだよ、目をつけられたら次は狙われるだろ」
「もう狙われております」
寧々が涼しい顔で言った。姫は最近こういう時に容赦がない。
(第三十五話・了)
次回、明日20時10分に更新します。




