↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名字マニアの天下取り ~名字が国名の戦国で、俺は47の名を誉めて味方にする~  作者: 無名の権兵衛
第二部・九州動乱編【集めた名 四/四十七】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

41/44

第三十四話「湯上がりの名」

 名取戦から四日。田中の帆が水平線から消えて、湊が静かになった日の夕方、千歩は約束どおり、俺たちを山へ連れて行った。


 城の裏手から杉木立を抜けて、棚道を半刻。霧が濃くなって、そのうち匂いが変わり、湿った土の匂いに、ほんのり卵みたいな匂いが混じる。


(この匂い、知ってるぞ。……温泉だ)


 木立が切れた先に、白い湯気の柱が立っていた。


 岩をくり抜いた湯船が、崖の中腹にある。三百年磨かれてきた縁の石は飴色で、湯は青みがかって、底の石まで澄んでいる。湯気の向こうは雲海だ。日向の国を丸ごと見下ろす、天下一の露天風呂だった。


「山の湯です」


 千歩が短く言った。


「三百年、当主とその客人だけの湯でした。……どうぞ」


「湯はな、若君。山の神様の寝息じゃよ」


 日高翁が、湯気に向かって一礼した。


「山の底では、火がまだ眠っておる。その寝息が水を温めてここに湧く。入る前に一礼。それだけが作法じゃ」


「黒木の火は冷たいのに、湯は熱いんだな」


「不知火は起きている火、湯は眠っている火。同じ火でも、寝顔のほうが優しいのじゃよ」


 ◇


 男湯の時間である。


 俺は湯船の縁で桶に湯をくんで、頭から三杯かぶった。かけ湯だ。旅の間じゅう、桶と竹樋で即席のかかり湯装置を組んでは、玄水に水汲みを頼んできた。「儂は蛇口か」が旅の定番だったが、今日は違う。今日は本物の湯船がある。


 足首、膝、腰。


 そして肩まで浸かり。


「……っ、あ〜〜〜……」


 声が出た。三十九歳の声だった。前世の記憶ごと出た。


 効く。骨まで効く。名取戦での痺れが残った腕も、張った肩も、湯の中でゆっくりほどけていく。行水と蒸し風呂と川の水で耐えてきた一年。俺の風呂道が今日、頂上に着いた。


「若いのに、年寄りの声を出すのう」


 玄水が向かいで笑った。湯に浸かった元先鋒大将の体には、古い傷が幾つも白く残っている。三十年ぶんの傷が、湯気の中でゆるんでいた。


「玄水こそ、ずいぶんいい顔だ」


「そうかのう」


「ああ。琉球を出てから、いちばんいい顔だ」


「……母様を取り戻したでな。肩の荷が湯に溶けたんじゃろうよ」


「それがしは……そろそろ、上がっても、よろしいか」


 湯船の隅で、甲斐が茹で蛸みたいな顔で言った。黒木の武士団長は、弓を引かせれば百発百中のくせに、長湯がからきし駄目らしい。


「がう」


 岩丸は、湯に入れてやったら底に沈んだ。石だから当然である。沈んだまま気持ちよさそうに「がう」と泡を吐くので、引き上げて縁の石に置いた。濡れた石獅子は、心なしか艶が良い。


 湯から上がると、玄水が瓢箪を差し出してきた。山の湧き水を、沢で冷やしておいてくれたらしい。


(こういう時、前世なら「風呂上がりの冷えたアレ」だったんだがな)


 ビールもコーヒー牛乳もこの世界にない。だが、冷たい湧き水を一息に飲んだら、五臓六腑に染みわたって、まあ、これでいいかという気になった。


「気が利くな。さすが蛇口」


「誰が蛇口じゃ」


 ◇


 交代で女たちが湯をつかい、俺たちは先に広間へ戻った——のだが。


 戻ってきた二人を見て、俺は椀を取り落としかけた。


 湯帷子(ゆかたびら)である。


 真鶴が、いつも高く結い上げている髪を下ろしていた。濡れた黒髪が肩に流れて、湯上がりの首筋に張りついている。寧々は白い湯帷子に湯の火照りがうつって、頬がほんのり色づき、いつもの一本の筆みたいな立ち姿が、今夜だけ柔らかい。


「……なに。見惚れた?」


「見惚れた」


「っ……素直に言うんじゃないわよ、馬鹿」


 真鶴が真っ赤になって俺の肩を叩いた。今日いちばん痛かった。


「琉太様。その、いかがでしたか、山の湯は」


「天下一だった。前世……いや、生まれてから入った風呂で、いちばんだ」


「わたくしも、です」


 寧々がふわりと笑った。湯上がりの祝の姫の笑顔は、名力と関係なく人の心臓に効く。俺は椀の水を飲むふりをして目を逸らした。


「がう」


 岩丸が俺の顔を見て鳴いた。うるさい。


 ◇


 宴は、潔斎明けの酒で始まった。


「七日の潔斎、大儀でござった。今宵は飲んでよい日じゃ」


 日高翁が音頭を取った途端、広間が沸いた。


 城の広間だけでは収まりきらず、庭にまで筵(むしろ)が敷かれている。谷から上がってきた民が、山菜の籠や酒の甕を担いで、ぞろぞろと入ってくる。三百年、隠れて暮らしてきた国の人間が、今夜だけは大声で笑っていた。


 隅では日高家の若いのが笛を吹き、太鼓が鳴る。神楽の節らしいが、酔っ払いの手拍子が入って、だいぶ賑やかな神楽になっていた。


 膳の上は、祝いの品の山である。


 まず地元の黒木。椎葉の猪汁に、身の厚い焼き椎茸、稗と栗の飯。白く濁った栗の酒が、椀でどんどん回ってくる。


 中村からは早船で、揚げかまぼこが樽ごと届いた。俺が中村の湊で仕込んだ、あの魚のすり身揚げの改良版だ。義親の文が付いていた。


『聞いたぞ! 天下の槍を峰で舞わせたそうだな! 次に会うたら手合わせぞ! 祝いに揚げ物を山ほど送る。がっはっは!』


 文面から声が聞こえる。読んだ真鶴が「文でまで笑ってる……」と呆れていた。


 その揚げかまぼこに、黒木の武士団が群がっていた。山の国の人間は魚の練り物を知らない。ひと口食って目を丸くして、二つ目に手を伸ばして、樽が半分になるまで誰も喋らなかった。


「甲斐さん、食い過ぎだ」


「これは……その、味の検分にござる」


「六つ目の検分か」


 山口からは商い船で、南蛮の赤い酒が届いた。ついでに万里の文も付いていた。


『祝いの品に値は付けん。ただし忘れるな、九州の相場はこの一戦で全部変わった。次の商いはうちを通せ。——追伸。赤い酒は女子(おなご)衆に。南蛮では祝いの席の酒だ』


「祝いの文まで商いだわ」


「あの人はそれでいい。銭の言葉があの人の祝詞なんだ」


 南蛮の赤い酒は、寧々を一口で真っ赤にした。真鶴は平気な顔で二杯目を注いでいる。強いのはどっちも同じだが、強さの種類が違うらしい。


 ◇


「がう」


「がう?」


 庭のほうで、岩丸が小さい子に追い回されていた。


 なつである。八つになる、玄水の姪だ。麓の椎葉の家から、キヨさんに手を引かれて谷を上ってきたのだと聞いた。


 岩丸は石獅子である。子どもに追われたら逃げる。逃げるが、本気では逃げない。廊下の角で振り返って、追いつかれる寸前でまた逃げる。あれは遊んでやっている。


「岩丸、そこまでだ。転ばせるなよ」


「がう」


 岩丸が足を止め、なつが正面から抱きついた。石獅子は抱きしめられたまま、しっぽを一回振った。


「かたい。あったかい」


「石だからな。日向にいると温まるんだ」


「なんで石なのに、うごくの」


「名前をもらったからだ」


 なつは首をかしげて、それから、自分の胸を指した。


「なつも、なまえある」


「知ってる。なつだろ。井上の、なつ」


 その名前を言ったとき、なつの顔が、ぱっと明るくなった。


 この子は一月のあいだ、大人たちが自分の家の名前を消していくのを見ていた。八つの子どもは、大人が思うよりずっと、何が起きているか分かっている。


「おばばが言ってた。井上は、水をひとりじめしなかった人のなまえだって」


「ああ、そのとおりだ。よく覚えたな」


「なつも、井上でいい?」


 俺は、しゃがんで目の高さを合わせた。


「いいに決まってるだろ。——というか、なつが井上でいてくれないと困る。なつが名乗ってる分だけ、井上は強くなるんだからな」


「なつが、つよくするの?」


「なつが名乗るのが、いちばん効くんだ」


 なつは、しばらく口を開けたまま俺を見ていた。


 それから、いきなり庭の真ん中まで走っていって、雲海の向こうの空に向かって、腹の底から叫んだ。


「——井上の、なつ! ここにおります!」


 黒木の民が、一斉に笑った。笑ってから、一人が立ち上がって「黒木の、権助! 今日も谷におります!」と返し、そこからは止まらなくなった。庭じゅうの大人が順番に名乗りを上げて、そのたびに拍手と歓声が上がる。祝いの席が、いつのまにか名乗りの大会になっていた。


(……この国の宴、いいな)


「琉太様。あれは、そのうち唄になりますよ」


 隣に座った寧々が、頬を赤くしたまま帳面を開いていた。名乗った名前を、片端から書き取っている。


「祝の家の血だな」


「職業病です」


 ◇


「比嘉の若様」


 振り返ると、キヨさんが手をついていた。慌てて止める間もなく、深く頭を下げられる。


「井上のキヨでございます。……このたびは、うちの倅(せがれ)と、この子と、それから郷を」


「頭を上げてくれ。玄水にはこっちが借りっぱなしなんだ」


 顔を上げたキヨさんは、六十四には見えない目をしていた。役人に判を押させられても、この目は下げなかったんだろうと思った。


「ひとつ、聞いてもいいか。あんた、井上を名乗って何年になる」


「四十六年になります。嫁いでから、ずっと」


「四十六年」


 俺は、その数字を口の中で転がした。


「あんたの名前は、生まれつきのじゃない。四十六年かけて、自分で井上にした名前だ。……郷の井戸の縁に彫ってある字を、いまも読める人が何人いる」


「……もう、二人か三人でしょう」


「なら、あんたが四人目だ。ずいぶん強い名前を持ってるよ、あんた」


 キヨさんは、しばらく黙っていた。


 それから、袖で目を押さえた。押さえて、すぐに顔を上げて、しれっと言った。


「……若様。芋がゆ、召し上がりますか」


「いただこう」


 膳の真ん中に、土鍋がひとつ置かれた。椎葉の家の囲炉裏で炊いてきたのだという。


 一口食って、俺は動きを止めた。


 うまい。何の変哲もない、芋と粥である。だが、この一杯には四十六年ぶんの手つきが入っている。飯は名力を回すと言うが、こういうのを言うんだと思った。


「おいちゃん、おかわり、あるよ」


「……ん」


 玄水は何も言わずに三杯食べた。三杯目のとき、少しだけ下を向いて食べた。誰も何も言わなかった。それでいい。


 ◇


「なつ、これ持ってごらん」


 真鶴が長刀を横にして差し出すと、なつは両手で受け取って、そのまま重さに負けて尻もちをついた。


「おもい!」


「でしょ。これ振り回せるようになったら、あんた九州でいちばん強い八歳よ」


「なる!」


「言ったわね。あたし、覚えとくから」


 姉弟子様は、こういうところが強い。適当に褒めない、宿題を出す。


 寧々のほうでは、なつが帳面に筆を入れさせてもらっていた。


「これが、井。ここに、たてを二本」


「……できた!」


 紙の真ん中に、震えた井の字がひとつ。寧々はその横に、自分の細い字で「なつ」と添えた。


「これで、帳面の中の井上が一人増えました」


 寧々が本気の顔で言うので、俺は笑ってしまった。祝の家の姫にとって、名前を書くというのは、たぶん本当にそういうことなのだ。


 ◇


「このたびの勝ち戦——」


 宴の半ば、甲斐が居住まいを正して、千歩に向き直った。


「琉太殿のお力はむろんのこと、それがしは……姫様が谷の民を信じて、朝の名乗りを絶やさせなかったこと、それこそが、その」


 武士団長は誉め言葉の途中で詰まった。詰まったまま、耳まで赤くなった。長湯のせいではないと思う。


「……堅い」


 千歩は短く言った。顔は少しも動いていない。


 だが、袖の先の不知火が、ふわりと桜色に明るんだ。


「祝詞は、いつでも」


 日高翁が、にこにこと杯を傾けた。


「翁」


「なんじゃな」


「……なんでもありません」


(見なかったことにするのも、客の作法だよな)


 俺は猪汁をすすった。この国の火は、口より正直だ。


 ◇


 宴のあと、俺はこっそり広間を抜け出して、もう一度山の湯に浸かった。毎日風呂に入りたい男が、天下一の湯を一日一回で済ませるわけがない。


 夜の湯は、また別物だった。


 湯気の向こうに星が出ている。雲海は月の光で銀色だ。湯の中で腕を見ると、四つの紋が、ゆるんで淡く灯っていた。井上も、尚も、火嘉も、黒木も、湯の中では紋というより、ただの温かい模様に見える。


 名前も、肩書も、湯の中では脱いだままでいい。


 当主も家臣も、姫も若君も、湯上がりはただの人だ。湯上がりの名は、ほどけている。……この国の神様は、いい湯の沸かし方を知っている。


「琉太どの。長湯はのぼせますよ」


 岩場の上から千歩の声がした。見回りらしい。


「もう少しだけ。……なあ、千歩さん。この湯、いつか民にも開けないか。三百年ぶんの疲れは、当主だけのものじゃないだろ」


 少し間があった。


「……考えて、おきます」


 声は短かった。でも、湯気の向こうの不知火は明るかった。


 明日からは、九州の判の話をしなきゃならない。宙に浮いた名前たちの話だ。玄水の帳面も、山口の相場も、田中の出方も、全部待っている。


 でも、それは明日だ。


 俺は鼻まで湯に沈んで、目を閉じた。


「がう」


 いつの間にか付いてきた岩丸が、縁の石の上で丸くなっていた。


(第三十四話・了)

次回、明日20時10分に更新します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。