第三十四話「湯上がりの名」
名取戦から四日。田中の帆が水平線から消えて、湊が静かになった日の夕方、千歩は約束どおり、俺たちを山へ連れて行った。
城の裏手から杉木立を抜けて、棚道を半刻。霧が濃くなって、そのうち匂いが変わり、湿った土の匂いに、ほんのり卵みたいな匂いが混じる。
(この匂い、知ってるぞ。……温泉だ)
木立が切れた先に、白い湯気の柱が立っていた。
岩をくり抜いた湯船が、崖の中腹にある。三百年磨かれてきた縁の石は飴色で、湯は青みがかって、底の石まで澄んでいる。湯気の向こうは雲海だ。日向の国を丸ごと見下ろす、天下一の露天風呂だった。
「山の湯です」
千歩が短く言った。
「三百年、当主とその客人だけの湯でした。……どうぞ」
「湯はな、若君。山の神様の寝息じゃよ」
日高翁が、湯気に向かって一礼した。
「山の底では、火がまだ眠っておる。その寝息が水を温めてここに湧く。入る前に一礼。それだけが作法じゃ」
「黒木の火は冷たいのに、湯は熱いんだな」
「不知火は起きている火、湯は眠っている火。同じ火でも、寝顔のほうが優しいのじゃよ」
◇
男湯の時間である。
俺は湯船の縁で桶に湯をくんで、頭から三杯かぶった。かけ湯だ。旅の間じゅう、桶と竹樋で即席のかかり湯装置を組んでは、玄水に水汲みを頼んできた。「儂は蛇口か」が旅の定番だったが、今日は違う。今日は本物の湯船がある。
足首、膝、腰。
そして肩まで浸かり。
「……っ、あ〜〜〜……」
声が出た。三十九歳の声だった。前世の記憶ごと出た。
効く。骨まで効く。名取戦での痺れが残った腕も、張った肩も、湯の中でゆっくりほどけていく。行水と蒸し風呂と川の水で耐えてきた一年。俺の風呂道が今日、頂上に着いた。
「若いのに、年寄りの声を出すのう」
玄水が向かいで笑った。湯に浸かった元先鋒大将の体には、古い傷が幾つも白く残っている。三十年ぶんの傷が、湯気の中でゆるんでいた。
「玄水こそ、ずいぶんいい顔だ」
「そうかのう」
「ああ。琉球を出てから、いちばんいい顔だ」
「……母様を取り戻したでな。肩の荷が湯に溶けたんじゃろうよ」
「それがしは……そろそろ、上がっても、よろしいか」
湯船の隅で、甲斐が茹で蛸みたいな顔で言った。黒木の武士団長は、弓を引かせれば百発百中のくせに、長湯がからきし駄目らしい。
「がう」
岩丸は、湯に入れてやったら底に沈んだ。石だから当然である。沈んだまま気持ちよさそうに「がう」と泡を吐くので、引き上げて縁の石に置いた。濡れた石獅子は、心なしか艶が良い。
湯から上がると、玄水が瓢箪を差し出してきた。山の湧き水を、沢で冷やしておいてくれたらしい。
(こういう時、前世なら「風呂上がりの冷えたアレ」だったんだがな)
ビールもコーヒー牛乳もこの世界にない。だが、冷たい湧き水を一息に飲んだら、五臓六腑に染みわたって、まあ、これでいいかという気になった。
「気が利くな。さすが蛇口」
「誰が蛇口じゃ」
◇
交代で女たちが湯をつかい、俺たちは先に広間へ戻った——のだが。
戻ってきた二人を見て、俺は椀を取り落としかけた。
湯帷子である。
真鶴が、いつも高く結い上げている髪を下ろしていた。濡れた黒髪が肩に流れて、湯上がりの首筋に張りついている。寧々は白い湯帷子に湯の火照りがうつって、頬がほんのり色づき、いつもの一本の筆みたいな立ち姿が、今夜だけ柔らかい。
「……なに。見惚れた?」
「見惚れた」
「っ……素直に言うんじゃないわよ、馬鹿」
真鶴が真っ赤になって俺の肩を叩いた。今日いちばん痛かった。
「琉太様。その、いかがでしたか、山の湯は」
「天下一だった。前世……いや、生まれてから入った風呂で、いちばんだ」
「わたくしも、です」
寧々がふわりと笑った。湯上がりの祝の姫の笑顔は、名力と関係なく人の心臓に効く。俺は椀の水を飲むふりをして目を逸らした。
「がう」
岩丸が俺の顔を見て鳴いた。うるさい。
◇
宴は、潔斎明けの酒で始まった。
「七日の潔斎、大儀でござった。今宵は飲んでよい日じゃ」
日高翁が音頭を取った途端、広間が沸いた。
城の広間だけでは収まりきらず、庭にまで筵が敷かれている。谷から上がってきた民が、山菜の籠や酒の甕を担いで、ぞろぞろと入ってくる。三百年、隠れて暮らしてきた国の人間が、今夜だけは大声で笑っていた。
隅では日高家の若いのが笛を吹き、太鼓が鳴る。神楽の節らしいが、酔っ払いの手拍子が入って、だいぶ賑やかな神楽になっていた。
膳の上は、祝いの品の山である。
まず地元の黒木。椎葉の猪汁に、身の厚い焼き椎茸、稗と栗の飯。白く濁った栗の酒が、椀でどんどん回ってくる。
中村からは早船で、揚げかまぼこが樽ごと届いた。俺が中村の湊で仕込んだ、あの魚のすり身揚げの改良版だ。義親の文が付いていた。
『聞いたぞ! 天下の槍を峰で舞わせたそうだな! 次に会うたら手合わせぞ! 祝いに揚げ物を山ほど送る。がっはっは!』
文面から声が聞こえる。読んだ真鶴が「文でまで笑ってる……」と呆れていた。
その揚げかまぼこに、黒木の武士団が群がっていた。山の国の人間は魚の練り物を知らない。ひと口食って目を丸くして、二つ目に手を伸ばして、樽が半分になるまで誰も喋らなかった。
「甲斐さん、食い過ぎだ」
「これは……その、味の検分にござる」
「六つ目の検分か」
山口からは商い船で、南蛮の赤い酒が届いた。ついでに万里の文も付いていた。
『祝いの品に値は付けん。ただし忘れるな、九州の相場はこの一戦で全部変わった。次の商いはうちを通せ。——追伸。赤い酒は女子衆に。南蛮では祝いの席の酒だ』
「祝いの文まで商いだわ」
「あの人はそれでいい。銭の言葉があの人の祝詞なんだ」
南蛮の赤い酒は、寧々を一口で真っ赤にした。真鶴は平気な顔で二杯目を注いでいる。強いのはどっちも同じだが、強さの種類が違うらしい。
◇
「がう」
「がう?」
庭のほうで、岩丸が小さい子に追い回されていた。
なつである。八つになる、玄水の姪だ。麓の椎葉の家から、キヨさんに手を引かれて谷を上ってきたのだと聞いた。
岩丸は石獅子である。子どもに追われたら逃げる。逃げるが、本気では逃げない。廊下の角で振り返って、追いつかれる寸前でまた逃げる。あれは遊んでやっている。
「岩丸、そこまでだ。転ばせるなよ」
「がう」
岩丸が足を止め、なつが正面から抱きついた。石獅子は抱きしめられたまま、しっぽを一回振った。
「かたい。あったかい」
「石だからな。日向にいると温まるんだ」
「なんで石なのに、うごくの」
「名前をもらったからだ」
なつは首をかしげて、それから、自分の胸を指した。
「なつも、なまえある」
「知ってる。なつだろ。井上の、なつ」
その名前を言ったとき、なつの顔が、ぱっと明るくなった。
この子は一月のあいだ、大人たちが自分の家の名前を消していくのを見ていた。八つの子どもは、大人が思うよりずっと、何が起きているか分かっている。
「おばばが言ってた。井上は、水をひとりじめしなかった人のなまえだって」
「ああ、そのとおりだ。よく覚えたな」
「なつも、井上でいい?」
俺は、しゃがんで目の高さを合わせた。
「いいに決まってるだろ。——というか、なつが井上でいてくれないと困る。なつが名乗ってる分だけ、井上は強くなるんだからな」
「なつが、つよくするの?」
「なつが名乗るのが、いちばん効くんだ」
なつは、しばらく口を開けたまま俺を見ていた。
それから、いきなり庭の真ん中まで走っていって、雲海の向こうの空に向かって、腹の底から叫んだ。
「——井上の、なつ! ここにおります!」
黒木の民が、一斉に笑った。笑ってから、一人が立ち上がって「黒木の、権助! 今日も谷におります!」と返し、そこからは止まらなくなった。庭じゅうの大人が順番に名乗りを上げて、そのたびに拍手と歓声が上がる。祝いの席が、いつのまにか名乗りの大会になっていた。
(……この国の宴、いいな)
「琉太様。あれは、そのうち唄になりますよ」
隣に座った寧々が、頬を赤くしたまま帳面を開いていた。名乗った名前を、片端から書き取っている。
「祝の家の血だな」
「職業病です」
◇
「比嘉の若様」
振り返ると、キヨさんが手をついていた。慌てて止める間もなく、深く頭を下げられる。
「井上のキヨでございます。……このたびは、うちの倅と、この子と、それから郷を」
「頭を上げてくれ。玄水にはこっちが借りっぱなしなんだ」
顔を上げたキヨさんは、六十四には見えない目をしていた。役人に判を押させられても、この目は下げなかったんだろうと思った。
「ひとつ、聞いてもいいか。あんた、井上を名乗って何年になる」
「四十六年になります。嫁いでから、ずっと」
「四十六年」
俺は、その数字を口の中で転がした。
「あんたの名前は、生まれつきのじゃない。四十六年かけて、自分で井上にした名前だ。……郷の井戸の縁に彫ってある字を、いまも読める人が何人いる」
「……もう、二人か三人でしょう」
「なら、あんたが四人目だ。ずいぶん強い名前を持ってるよ、あんた」
キヨさんは、しばらく黙っていた。
それから、袖で目を押さえた。押さえて、すぐに顔を上げて、しれっと言った。
「……若様。芋がゆ、召し上がりますか」
「いただこう」
膳の真ん中に、土鍋がひとつ置かれた。椎葉の家の囲炉裏で炊いてきたのだという。
一口食って、俺は動きを止めた。
うまい。何の変哲もない、芋と粥である。だが、この一杯には四十六年ぶんの手つきが入っている。飯は名力を回すと言うが、こういうのを言うんだと思った。
「おいちゃん、おかわり、あるよ」
「……ん」
玄水は何も言わずに三杯食べた。三杯目のとき、少しだけ下を向いて食べた。誰も何も言わなかった。それでいい。
◇
「なつ、これ持ってごらん」
真鶴が長刀を横にして差し出すと、なつは両手で受け取って、そのまま重さに負けて尻もちをついた。
「おもい!」
「でしょ。これ振り回せるようになったら、あんた九州でいちばん強い八歳よ」
「なる!」
「言ったわね。あたし、覚えとくから」
姉弟子様は、こういうところが強い。適当に褒めない、宿題を出す。
寧々のほうでは、なつが帳面に筆を入れさせてもらっていた。
「これが、井。ここに、たてを二本」
「……できた!」
紙の真ん中に、震えた井の字がひとつ。寧々はその横に、自分の細い字で「なつ」と添えた。
「これで、帳面の中の井上が一人増えました」
寧々が本気の顔で言うので、俺は笑ってしまった。祝の家の姫にとって、名前を書くというのは、たぶん本当にそういうことなのだ。
◇
「このたびの勝ち戦——」
宴の半ば、甲斐が居住まいを正して、千歩に向き直った。
「琉太殿のお力はむろんのこと、それがしは……姫様が谷の民を信じて、朝の名乗りを絶やさせなかったこと、それこそが、その」
武士団長は誉め言葉の途中で詰まった。詰まったまま、耳まで赤くなった。長湯のせいではないと思う。
「……堅い」
千歩は短く言った。顔は少しも動いていない。
だが、袖の先の不知火が、ふわりと桜色に明るんだ。
「祝詞は、いつでも」
日高翁が、にこにこと杯を傾けた。
「翁」
「なんじゃな」
「……なんでもありません」
(見なかったことにするのも、客の作法だよな)
俺は猪汁をすすった。この国の火は、口より正直だ。
◇
宴のあと、俺はこっそり広間を抜け出して、もう一度山の湯に浸かった。毎日風呂に入りたい男が、天下一の湯を一日一回で済ませるわけがない。
夜の湯は、また別物だった。
湯気の向こうに星が出ている。雲海は月の光で銀色だ。湯の中で腕を見ると、四つの紋が、ゆるんで淡く灯っていた。井上も、尚も、火嘉も、黒木も、湯の中では紋というより、ただの温かい模様に見える。
名前も、肩書も、湯の中では脱いだままでいい。
当主も家臣も、姫も若君も、湯上がりはただの人だ。湯上がりの名は、ほどけている。……この国の神様は、いい湯の沸かし方を知っている。
「琉太どの。長湯はのぼせますよ」
岩場の上から千歩の声がした。見回りらしい。
「もう少しだけ。……なあ、千歩さん。この湯、いつか民にも開けないか。三百年ぶんの疲れは、当主だけのものじゃないだろ」
少し間があった。
「……考えて、おきます」
声は短かった。でも、湯気の向こうの不知火は明るかった。
明日からは、九州の判の話をしなきゃならない。宙に浮いた名前たちの話だ。玄水の帳面も、山口の相場も、田中の出方も、全部待っている。
でも、それは明日だ。
俺は鼻まで湯に沈んで、目を閉じた。
「がう」
いつの間にか付いてきた岩丸が、縁の石の上で丸くなっていた。
(第三十四話・了)
次回、明日20時10分に更新します。




