第三十三話「勝って、誉める」
——おらは黒木の、甚六。今日も谷におります。
——黒木の、たえ。今日も、谷に。
凪の底で、声だけが届いていた。
膝をついたまま、俺はそれを聞いている。名力はぜんぶ眠ったままだ。腕の四つの紋は暗い。それなのに、谷から上がってくる名乗りの声だけは、少しも遠くならない。
(……そうか。届くんだ、これは)
宗典が、わずかに眉を寄せた。
「民の名乗りか。……朝の習いまでは、止められんな。だが比嘉琉太、あれは名力ではない。ただの声だ。凪は破れん」
「ああ、ただの声だ」
俺は笑った。膝は震えてるのに、笑えた。
「でもな、宗典。あんた順番を間違えてる。名力があるから名乗るんじゃない。——名乗るから、名力があるんだ」
声がやまない限り、種は死んでいない。眠ってるだけなら、起こせばいい。
◇
「琉太様ーッ!」
凪を破って、声が届いた。
寧々だった。鉾の傍らで、祝の姫が立ち上がっている。歌っていない。節も付けていない。ただ、腹の底から叫んでいた。
「読めました! 朱書きの最後の一節——あれは歌詞じゃありません、空白です! 東翁はこう書き残したんです。『結びは調べにあらず、ただ名を呼べ』と!」
言祝ぎの結びは、歌じゃない。
ただ、名を呼ぶこと。
「だから呼びます! 井上! 尚! 火嘉! 黒木——比嘉琉太様!」
節のない、剥き出しの声だった。祝の家の姫が三百年の作法を捨てて、ただの女の子の声で、俺の名前を呼んでいた。
腕の奥で、何かが疼いた。
「……ほう」
宗典が日本号を構え直す。
「だが、呼び声だけでは芽吹くまい。種に要るのは、水と——」
「陽だろ。知ってるよ、畑の理は」
俺は立ち上がった。
水は谷から届いてる。民の名乗りが水だ。呼び声も届いてる。寧々の声が土だ。なら陽は——俺が出す。
この七日の検証で、一度だけ出た力。狙って出せない、と帳面に書いた力。あれの正体が、いまなら分かる。本気で誉めることだ。誉めるのに名力は要らない。凪の中でも、誉める心までは眠らせられない。
俺は、自分の腕に向かって言った。
「井上——井戸の井だ。水を掘り当てて、独り占めしなかった者の名前だ。あんたの家の婆さんは、代官に脅されても名前を守った。あんたの家の男は、いまそこで見てる。いい名前だ。誇っていい」
井桁の紋に、光が戻った。
「尚——海の彼方の王の名だ。残り数人まで削られて、それでも消えなかった。寧々、あんたの名前だ」
玉の紋が、灯る。
「火嘉——琉球の火の一族。派手で、うるさくて、あったかい火だ」
焔の紋が、爆ぜるように点いた。
「黒木——三百年、人知れず、毎朝名乗り続けた国の名だ。隠れてたんじゃない。守ってたんだ。この谷の、全部の名前を」
木の紋が、目を覚ました。
四つの紋が、種凪の中で、いっせいに芽吹いた。
「がう!」
寧々の膝の上で、岩丸が跳ね起きた。石の置物が石獅子に戻って、雲海に向かって吠える。凪に、ひびが入る音がした。
◇
「————見事」
宗典は、もう驚いていなかった。代わりに、初めて、槍を本気の高さに構えた。
「凪の中で芽吹いた種は、それがしも初めて見た。……ならば、遠慮は要らんな」
来る——と思った時には、もう来ていた。
突き。突き。薙ぎ。突き。雨だ。日本号の穂先が雨みたいに降ってくる。一本ずつなら見える。まとめては見えない。考えてたら死ぬ。だから体に任せた。水で受ける。焔で散らす。水。焔。水。焔——半呼吸の切替。甲斐の矢を百本浴びた、あの稽古の速さだ。
(数字は裏切らない——!)
十三合目を受け切った時、宗典が初めて足を止めた。
「……よう凌ぐ」
そして、槍を頭上に立てた。
日本号の長い穂が、黒く、霞んだ。
「呑み取りの槍——その名の由来、見せてやろう」
次の一薙ぎが、俺の水刃を——呑んだ。
受けたはずの水が、穂に触れた端から消えていく。慌てて焔に替える。焔も、呑まれた。銘器・日本号。酒呑みの伝説で知られた槍の本領は、酒じゃない。触れた名力を呑む。だから天下三名槍なのだ。
「琉太ッ!」
真鶴の悲鳴が聞こえた。水も火も効かない。凪は破ったのに、刃が通らない。
——いや。まだだ。まだ、全部出してない。
俺は千代金丸を正眼に構えて、息を吸った。谷から名乗りが聞こえる。朝の習いじゃない。いま、この時に、谷中の民が山に向かって叫んでいる。おらは黒木の、誰それ。おらも黒木の、誰それ。子どもの声まで混じっている。何十軒どころじゃない。国がまるごと、名乗っていた。
寧々が呼んでいる。俺も、誉めている。谷が、言祝いでいる。
なら——四つ、全部だ。
「井上ッ、尚ッ、火嘉ッ、黒木ッ——重名、四重!」
腕で、四つの紋が同時に燃えた。
検証じゃ二つが限界だった。言祝ぎありで五十一数える間。だが今この谷は、国ひとつぶんの言祝ぎの中だ。井桁の水が刀身を流れ、火嘉の焔がその上を走り、外側を黒木の青白い不知火が包む。柄の元では尚の字が、三つの力を束ねて白く輝いた。
三色の刃。
雲海が割れて、朝日が真っ直ぐ差した。八千のどよめきが、地鳴りみたいに崖を昇ってくる。
「————ッ!」
宗典が吼えた。初めて、声を上げた。日本号の全力の突きが、黒い霞をまとって俺の心臓に来る。
受けて。
水が、呑まれる先から流れ込む。呑む速さより、注ぐ速さが上回る。
流して。
焔が穂先を横に滑らせる。軌道が、指二本ぶん逸れる。
——それでも、来る。天下三名槍は、指二本の逸れくらい、力ずくで戻してくる。黒い穂先が、目の前に迫った。
(いい名前だろ、どれも——!)
井戸を掘って、独り占めしなかった井上。海の果てで消えなかった尚。派手で、うるさくて、あったかい火嘉。三百年、谷の名前を守り続けた黒木。四つ全部、天下一の名前だ。俺が保証する——!
腕の紋が、体に走った。
光が血管みたいに、腕から肩へ、胸へ、足へ。体が、嘘みたいに軽い。世界の流れがゆるやかになる。雨だった穂先が、一本ずつ、止まって見える。
(——これが、自誉か)
帳面に「再現せず」と書いた力だ。当てにしない、と決めた力が、いちばん大事な一合で来てくれた。理由なら分かる。本気で誉めたからだ。人生でいちばん、本気で。
止まった穂先の下を、掻い潜る。
一歩で、懐。宗典の目が初めて見開かれた。
「重名四重——言祝ぎ返しッ!」
三色の刃が、下から槍の柄を擦り上げた。井桁の水が黒い霞を洗い流し、火嘉の焔が握りを弾き、黒木の不知火が宗典の両手の先で燃え上がる。近づけない火に手元を封じられ、握りが、緩んだ。そこへ、尚の字が白く輝く千代金丸の峰を——全力で、打ち上げる。
天下の大身槍が——宙を、舞った。
ゆっくり回りながら朝の空に上がって、落ちてきて、天逆鉾の隣に、どっ、と突き立った。神代の鉾と天下の槍が、雲海の上に並んで立つ。
酒に賭けて主を替えた槍が、名の勝負で、また主の手を離れた。
がら空きの胴の前に、俺は三色の刃の切っ先を止めた。
同時に、種凪が——砕けた。
音が、世界に戻ってくる。風の音。雲の流れる音。谷の名乗り。八千のどよめき。ぜんぶが一度に押し寄せて、雲海の上は嵐みたいだった。
「————それまで!」
日高翁の鈴が、鳴った。
「名取戦——勝者、比嘉琉太」
◇
崖下は、しばらく声もなかった。
最初に聞こえたのは、間の抜けた呟きだった。
「……なあ。賭け、どうなるんだこれ」
「一合半に張った奴、生きてるか」
「全額、胴元の総取りだろ……」
嘲った銭は、誰の手にも戻らない。俺は何も言わなかった。言わないのがいちばん効くと、蔵田の時に学んだ。
そして、いちばん大声で笑っていた兵が——誰に言われたわけでもなく、いちばん深く、頭を下げた。ひとり下げると、波みたいに広がった。八千の頭が、崖の下で順々に下がっていく。
「琉太!」
真鶴が駆け寄ってきて、拳で胸を叩かれた。今朝より痛い。
「勝ったわね! 最後のあの受け、忘れないうちに何回もやらせるから」
「姉弟子様、まず労ってくれ」
「労ってるでしょ、これが」
玄水は少し離れたところで、腕を組んで笑っていた。寧々は、駆け寄る途中で足がもつれながらも岩丸と一緒に抱き着いてきた。祝の姫は今日、三百年の作法を捨てた。俺はその声に、勝たせてもらった。
◇
「比嘉琉太」
宗典は、その場に膝をついた。緋色の陣羽織を畳んで脇に置き、両手を地について、深く頭を垂れる。
「名取戦の理に従い——田中の名は、そなたのものだ」
しん、と場が冷えた。
負けた名は、神の帳から消える。あるいは勝者が取る。八千の兵が、自分たちの将の名の行方を、息を呑んで見ている。
俺は、しゃがんだ。膝をついた男と、目の高さを合わせた。
「宗典。あんたの『田中』は、どうやって生まれた名字か知ってるか」
「……田の、中の家であろう」
「そうだ。田の中に家を建てて、水を引いて、隣の田が涸れた年は自分の水を回した。そうやって生きた家がこの国でいちばん多かったから、田中は西国一の名字になった。——威張るための名前じゃない。生かすための名前だ」
先月、蔵田に言った口上だ。でも今日は、続きがある。
「あんたは水を止めた。だから負けた。でもな、俺はこの十日、あんたの陣をずっと見てた。八千の兵に槍を置かせて、畑を作らせてた将なんて、この戦国にあんたしかいない。……あんたの田中は、生かせる側の田中だ」
俺は立ち上がって、言った。
「だから——返す。田中の名は、あんたが持ってろ」
日高翁の鈴が、落ちそうになった。
「か、勝者が名を返すなど……前例が」
「前例なら、俺がいま作っただろ」
どよめきが崖を駆け下りていく。宗典は頭を垂れたまま、長いこと動かなかった。動かない肩が、一度だけ、小さく震えた。
「……比嘉琉太。そなたは」
顔を上げた宗典の目に、種火が——今日は、隠れていなかった。
「そなたは、勝ち方まで、誉めるのだな」
気づけば俺は笑っていた。あとで真鶴に『太陽みたいな顔だった』とさんざん言われる笑い方で——
「名字マニアなんでな。名前が消えるのが、いちばん嫌いなんだ」
◇
その日の夕刻、堰は三つとも開け放たれ、田中の第二陣は陣を払い始めた。
八千の兵が、来た時と同じように整然と、船へ戻っていく。ただし来た時と違って、去り際に谷へ向かって頭を下げていく兵が、ひとり、またひとりいた。
「琉太どの」
千歩が隣に立った。袖の先の不知火が、見たこともないほど大きく、明るく燃えている。
「黒木は、あなたに二度救われました。……褒美を、決めてあります」
「褒美?」
姫は、ほんのわずかに、口の端を上げた。
「山の湯を、お見せします。三百年、当主とその客人しか入れなかった——神の湯です」
……風呂。
戦乱に飛び込んで一年、行水と蒸し風呂を耐え抜いた俺の、風呂。
「がう」
肩の岩丸が鳴いた。今日いちばん、いい声だった。
(第三十三話・了)
名取戦、決着です。ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第二部・九州動乱編は残り四話。9月3日(木)に完結します。次回、明日20時10分に更新します。
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