第三十二話「種凪」
名取戦の朝は、憎らしいほど晴れた。
山頂の雲海が朝日で金色に染まり、その真ん中に天逆鉾が黒く立っている。鉾を挟んで南に黒木の面々、北に田中の兵。八千の兵が崖下から中腹まで鈴なりになって、九州でいちばん高い見物席を埋めていた。宗典が全軍に観覧を命じたのだという。名の勝負とはどういうものか、兵に見せるために。
「——間に合うたわい」
前の晩に浜へ入った早船から、玄水と真鶴が夜通し山を登って駆けつけてきた。玄水の母御と姪っ子は、麓の集落の椎葉の家が預かってくれているそうだ。玄水は俺の顔を見て、それだけ言って、黒木側のいちばん前に座った。細かい報告はあとだ。座る場所が報告の代わりだった。
「琉太」
真鶴が追い抜きざま、拳で軽く俺の胸を叩いた。
「あんたは、あたしの弟弟子。——それだけ憶えてなさい」
「ああ」
千歩と甲斐が並んで立ち、寧々は立会いの祝方として鉾の傍らに控えている。鉾を挟んだ向かいには、田中の陣僧。寧々が自分から願い出た、あの副立会いである。岩丸は寧々の膝の上だ。名取戦は名と名の一対一、相棒でも手出しはできない。岩丸は不服そうに「がう」と鳴いて、それきり石の置物のふりをした。
◇
日高翁が、鉾の前に進み出た。
神官長の声は、老人のものとは思えない張りで雲海に通った。
「これより、名取戦を執り行う。負けたる側の名は、神の帳より消える」
しゃらり、と鈴が鳴る。
「両名、そして見届ける皆々も心得よ。——この儀を破る者は、兵に討たれるのではない。名の神に討たれる。神前の誓いは、天下のどの判よりも、どの帝の号よりも古い。破った名がどうなるかは、誰も知らぬ。知った者が残らぬからじゃ」
崖下の八千が、静まり返った。
宗典が緋色の陣羽織を脱いだ。下は洗いざらしの筒袖である。日本号を軽々と担いで、鉾の北に立つ。
「比嘉琉太」
「なんだ」
「よう逃げなんだ」
「あんたこそ」
それが、果し合いの前の口上の全部だった。
◇
開戦の鈴が鳴った。
一合目。日本号の穂が、視界の外から来た。見えたのは剣で受けた後だ。腕が痺れる。
(重っ——受けるな、流せ。師匠の型を思い出せ)
槍という武器は、間合いの外から人を殺すための道具である。それを八尺越えの大身槍で、畑を耕す男の膂力で振るうとどうなるか——答えは、受けた俺の踵が三寸滑ったことだ。
二合目、突き。半歩で外す。三合目、石突きの薙ぎ。跳んで越える。
「…………」
崖下の一角が、妙に静かになった。賭場のあたりだ。誰かが呆けた声で呟くのが、風に乗って聞こえた。
「……おい。三合、超えたぞ」
「うそだろ。日本号を三度受けて、立ってるぞ」
「賭けはどうなる。おい、賭けはどうなるんだ」
「知るか。……つうか、あいつ本当に五尺か」
悪いな。あんたらの銭は、もう帰ってこない。
「千代金丸——井上」
井桁の紋が灯り、刀身が流水に変わる。四合目からは、受けの質を変えた。剛で受ければ腕が壊れる。なら水で受ける。穂先の力を刃の面で滑らせ、逸らし、流す。金城の型に井上の水刃。師匠と玄水、二人分の受けだ。
崖下がどよめいた。
「剣が……水になったぞ」
「なんだありゃ」
「井上の水刃だ。おれ、琉球で見た。あれに舵を斬られた」
黒木側の最前列では、玄水が腕を組んで唸っていた。
「……儂の水刃より、筋がええのう」
「悔しそうね」
「悔しいわい。じゃが、ようやりよる。穂先を受けとらん、水に滑らせとる」
「受けてるのは型のほう。いまの半歩、うちの父様の足さばきよ」
真鶴は腕を組んだまま、目だけは一瞬も琉太から離さなかった。
「ほう」
宗典が、初めて声を出した。
「受けが練れておるな。黒木の広間で武者五人を投げた、という報せは都まで届いておったが——噂より上だ」
「受けた回数だけ上手くなるんでな」
「なら——これは、何度受けた」
日本号の石突きが、地を突いた。
地面が、蠢いた。
鉾の周りの土から、緑の蔓が幾百と噴き出す。稲でも葛でもない、名力で編んだ種の蔓。見たことがある。琉球の浜で、軍船を丸ごと絡め取ったあの技——千種実。それが去年の倍の密度で、四方から一斉に襲いかかってきた。
水刃で薙ぐ。斬っても斬っても、斬り口から倍に増える。左足首に一本絡んだ。まずい。
(駄目だ、斬るだけじゃ増える。——なら、燃やす)
「——全開だ」
焔の紋が、腕で爆ぜた。
刃に走った火が刀身に収まりきらず、腕を伝い、肩を越えて、紅蓮の帯になって噴き上がる。琉球の火の一族の焔は、飾りじゃない。ひと振りごとに火の帯が輪を描いて広がり、蔓の海を端から呑んで燃やしていく。朝の雲海が、下から夕焼けみたいに赤く照った。
「うわ、火だ! 谷が燃えるぞ!」
「下がれ、下がれ!」
「……琉球の火って、あんなのかよ。うちの陣、あれと戦うところだったのか」
燃え千切れた蔓が灰になって雪みたいに降る中を、水と火を半呼吸で切り替えながら、俺は前へ出た。斬っては焼き、焼いては進む。七日の稽古の数字が、ぜんぶ体の中で働いていた。
嘲っていた声はもう、ひとつも聞こえない。
「……見事」
蔓の向こうで、宗典が言った。世辞の響きはなかった。検分の響きだった。
「名を、ようここまで練った。名を貰い集めた男は、名を使いこなせぬまま潰れると思うておったが——おぬしは、ひとつひとつ誉めて回った名で、ここまで立つか」
(……この人に誉められても、嬉しくないんだよな。刈る前の畑を見る目だから)
日本号が静かに下がった。構えを解いたのではない。穂先が地に向いた。
「ならば、それがしも——種を見せねば、礼を失する」
宗典が息を吐いた。
「真名、解放」
◇
最初に消えたのは、音だった。
風の音、雲海の流れる音、八千のざわめき。すべてが遠のいて、耳の底が静まり返る。
「——種凪」
世界が、凪いだ。
腕の四つの紋から、光が引いていくのが分かった。井上の井桁が薄れ、尚の字が翳り、火嘉の焔が細り——黒木の木の紋が、眠る。千代金丸の流水の刃が、ただの白金に戻っていく。頬を撫でていた山の風が、死んだように止んだ。
名力が——眠っている。
奪われたのでも、消されたのでもない。眠らされている。種に還されている。芽吹く前の、土の下の静けさに。
(なんだこれは、名を奪う力じゃない。名を——眠らせる力か)
鉾の傍らで寧々が何か叫んでいる。口の動きだけが見えて、声が届かない。膝の上の岩丸が、ころりと横に倒れたのが見えた。石に、戻っている。
黒木側の最前列で、玄水が掌を上に向けて、開いて閉じた。
「……湧かん。儂の水が湧かんぞ」
「ちょっと、どういうこと」
「名力が眠らされとる。あの凪、鉾の周りだけじゃないわい」
崖下の田中兵たちも、自分の腕を見てざわめいていた。
「お、おれの紋も消えてる」
「静かにしろ。……宗典様の真名だ。おれたちごと、眠らせておる」
「初めて見た……」
「案ずるな。誰の名も獲ってはおらん」
凪の中心で、宗典だけが変わらずに立っていた。
「種は、土の下で眠っておるのがいちばん安らかよ。芽吹くから刈られる。名乗るから奪われる。……それがしの畑には争いがない。この凪の中では、名はただ眠る」
日本号が持ち上がる。凪の中で、あの槍だけが眠っていない。
「名の理の上で戦え、と言うたのはおぬしだ。——これが、それがしの名の理。比嘉琉太、名も加護もないおぬしに、なにができる」
一合目。受けた。腕が軋んだ。二合目。転がって躱した。三合目——受け損ねた穂先が肩口を掠め、俺は初めて、天逆鉾の前で膝をついた。
名がぜんぶ眠っている。空紋と呼ばれたあの七年より、静かだった。
……いや。
静寂の底で、耳が拾った。遠く、谷の下から。ひとつ。またひとつ。
——おらは黒木の、甚六。今日も谷におります。
——黒木の、たえ。今日も、谷に。
民の、朝の名乗りだった。
(第三十二話・了)
次回、明日20時10分に更新します。




