第三十一話「検証回は転生者のたしなみ②」
潔斎、と聞くと座って身を清める七日間を思い浮かべるだろうが、条目を読むとそうでもない。慎むべきは争いの手と、酒と殺生と、薬石。稽古と工夫は慎まなくていい。
つまり七日ある。
(反魂丹も駄目か。……まあ、飲まされて勝った勝ちなんて、誉めるに値しないしな)
俺は新しい力を得たら、まず数字を取る主義だ。名力は理屈で動く。理屈は、試した回数だけ味方になる。琉球の浜でもやった。岩丸でもやった。なら名取戦の前にやることは、ひとつ。
「寧々、帳面を頼む。今日から七日、俺を計り倒す」
「はい。……琉太様、少し楽しそうですね」
「久しぶりの検証回だからな」
◇
一日目。まず切替を計った。
黒木城の前庭。井上の水刃を出しては消し、火嘉の焔に持ち替える。寧々が数を読む。
「——一呼吸と、半分です」
遅い。五島の沖で名無しの船を相手にした時は気にならなかったが、相手が宗典なら話が別だ。一呼吸半あれば、あの槍で三度突ける。
ただし、庭で素振りの持ち替えがいくら速くなっても、それは畳の上の剣術だ。本番では、あの日本号がこっちの命を取りに来る。体が竦んだ状態でも半呼吸で切り替えられなければ、稽古の数字に意味はない。
つまり、本気で怖い「武」の側が要る。
「甲斐さん、頼めるか。俺を射ってくれ」
「それがしが、比嘉どのを射るのでござるか」
「外してくれていい。ぎりぎりに」
「……黒木の弓は、外すほうが難しゅうござるが」
甲斐は嫌そうな顔をして、それでも矢筒を担いだ。この人は頼まれると断れない質である。
結果から言うと、地獄だった。矢が耳元を掠めるたび、水と火を持ち替える。三十本目で転び、五十本目で紋の切替が半呼吸を切り、百本目で俺は前庭に大の字になった。
「……いま、何呼吸だった」
「半呼吸を、少し切りました」
寧々が帳面に書き込む。がう、と岩丸が俺の腹の上で審判みたいに鳴いた。お前はそこに乗るな。
◇
二日目。重ね掛けを計った。
水刃を保ったまま火嘉の焔を灯す。二つの名の同時掛け。これがきつい。井桁と焔の紋がふたつ灯った途端、体の底から名力が倍の速さで抜けていく。
「三十——そこまでです。お顔が真っ白です」
三十数える間が限界だった。桶の水をかぶって、もう一度。三十二。もう一度。二十八。数字は正直で、根性では伸びない。
「琉太様。ひとつ、試したいことがあります」
寧々が帳面を閉じて、居住まいを正した。
「言祝ぎを受けながら、やってみてください」
寧々の声が、誉め言葉の形に変わる。井上の井は井戸の井、水を分けた者の名——聞き慣れた由来が、祝の家の節で歌うように読まれる。腕の井桁が、ふ、と軽くなった。
「——五十一です」
寧々が目を丸くした。三十が、五十一。誉められた名は強い、とこの世界の理は言う。それが数字で出た。
「つまり寧々の言祝ぎは、燃費をおよそ七割増しにする。……あんた、戦場だとえらい強さだぞ」
「そうですか」
姫は口元を袖で隠したが、耳が赤かった。
で、ここで思いついてしまった。
「なあ。誉められて強くなるなら——自分で誉めながら使ったら、どうなるんだ」
「ご自分で、ですか?」
やってみた。水刃を出したまま、井上の由来を口にする。井の字は井戸の井。水を掘り当てて、村に分けた者の名。最初は、何も起きなかった。読み上げてるだけだからだ。だから途中から、本気で言った。玄水の顔と、井上郷の話と、井戸の水はみなのものという言葉を思い浮かべて——全身全霊で、いい名だと思いながら言った。
水刃が、化けた。
刃が勝手に三尺伸びて、庭石を豆腐みたいに両断した。斬るつもりなんて欠片もなかった。
庭が、静まり返った。甲斐は弓を取り落としかけ、寧々は帳面を抱いたまま固まっている。騒ぎを聞きつけた日高翁が駆けつけて、真っ二つの庭石を見て、俺を見て、掠れた声で言った。
「……いま、ご自分で言祝ぎながら、使われたか」
「まずかったか」
「まずくはござらん。まずくはござらんが——誉め手が使い手を兼ねるなど、聞いたことがない。言祝ぎは祝の家の業。使い手は使い手。三百年、別の担い手にござった」
面白い。すぐもう一度やってみた。
……何も、起きなかった。十回やって、十回ただの水刃だった。読み上げでは駄目らしい。本気で誉めた一度きり、それも狙って出せない。
「帳面には、なんて書きます?」
「『自誉・一度きり・再現せず』で頼む」
寧々は書きながら、ちらりと俺を見た。
「琉太様。これ、たぶん、とんでもないことですよ」
「だろうな。……だから、明日は当てにしない」
当てにできるものだけ持って行く。それが検証の作法だ。でも帳面の隅のその一行が、妙に熱かった。
◇
三日目と四日目は、黒木の名に使った。
拝領して日が浅い四つ目の名は、まだ体に馴染んでいない。井上の水、火嘉の焔のような「これ」という働きが、黒木にはまだ見えない。紋を灯らせても、何も起きないのだ。
「千歩さん。黒木の名の力ってのは、何なんだ」
立ち会ってくれた姫は、少し考えてから答えた。
「攻めの形をしていません」
「というと」
「黒木は三百年、隠れて守った家です。名の力も、その形をしています。……霧と火。隠すものと、脅かして近づけないもの。どちらも人を打つ形をしていない」
試しに千代金丸に黒木の名を通してみた。
刀身に青白いものが揺らいだ。焔じゃない。熱のない夜の海に立つという怪火の色。不知火だ。——揺らいで消えた。三度やって三度消えた。
「……安定しないな」
「黒木の名が、まだあなたに馴染んでないのですね」
千歩は袖の先の不知火を見てから言った。
「急がないことです、不知火は呼ぶものではなく灯るものですから」
切り札にはまだ遠い。帳面には「不知火の刃・未完」とだけ書いてもらった。
◇
五日目、日高翁が面白いことを言った。
「琉太様。名を使う稽古ばかりなさるが——名を聞く稽古は、なさらんのか」
「聞く?」
「明け方、谷へ下りてごらんなされ」
言われた通り、六日目の夜明けに谷へ下りた。
霧の底で声がした。畑に出る年寄りが山に向かって名乗っている。おらは黒木の誰それ、今日も谷におります。ひとつ済むと、また別の家の前でひとつ。三百年分、毎朝続いてきた声だそうだ。
しゃがんで、しばらく聞いた。
名力ってのは、この声の積み重ねなんだと、頭では知っていた。名乗る民の数が名の強さだと、最初から知っていた。だが谷の霧の中で聞く名乗りは、数じゃなかった。一人ずつだった。一人ずつが、今日もここにいると言っていた。
(……俺が明後日賭けるのは、この声か)
紋でも、加護でも、刃でもなく。
岩丸が肩の上で、静かに「がう」と言った。同感、という顔をしている。
◇
七日目の夜。最後の検証を終えた帳面を、寧々が読み上げた。
「切替、半呼吸。重ね掛け、言祝ぎありで五十一。燃費、刃を絞れば倍。不知火の刃は——未完です」
「上出来だ」
「未完が上出来ですか」
「未完て書けるのは、検証した奴だけだからな」
寧々は少し笑って、帳面を閉じ、それから真顔になった。
「琉太様。わたくしの新しい言祝ぎも……まだ、未完です。東翁の朱書きの、最後の一節がどうしても読めません。ですが」
祝の家系の姫は、まっすぐに俺を見た。
「明日までに、間に合わせます」
夜明けが近い。谷の下では、もうすぐ最初の名乗りが始まる。
(第三十一話・了)
次回、明日20時10分に更新します。




