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名字マニアの天下取り ~名字が国名の戦国で、俺は47の名を誉めて味方にする~  作者: 無名の権兵衛
第二部・九州動乱編【集めた名 四/四十七】

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第三十話「井戸の水は縛るためにあるんじゃない」

 筑後川を上る小舟の上で、井上玄水は十三年ぶりに故郷の水の匂いを嗅いだ。


 夜である。灯りは点けない。山口の早船を河口に隠し、そこから先は漁師の小舟に乗り替えた。櫓を漕ぐのは玄水、舳先には長刀を抱えた真鶴が座っている。


「ねえ。手が震えてるわよ」


「……櫓の癖じゃ」


「十三年ぶりの櫓の癖ね」


 姉弟子様は逃げ場のないことを言う。玄水は答えず、櫓を漕いだ。水は覚えていた。筑後の水は重くて甘い。井上郷の井戸の水は、この川の水が山をひとつ潜って湧いたものだ。子供の時分に何百杯と飲んだ味を、掌のほうが先に思い出している。


 ◇


 井上郷は静かだった。


 夜明け前の郷に灯りはなく、田の匂いだけがしている。玄水は畦道の途中で足を止めた。道端の道祖神——子供の頃、毎朝拝んで通った石の顔に、真新しい木札が掛けられている。


 田中郷、と書いてあった。


「……郷の名まで、書き改めたか」


「代官所はどっち」


「井戸の先じゃ。……真鶴どの。手筈どおり、手荒はなしぞ。母と儂の姪(めい)は、あくまで『お預かり』の身。斬り込めば人質になる」


「分かってる。——で、そっちは?」


 真鶴が顎で指した先、代官所の門前に、槍を持った兵がふたり立っていた。


 そのうちの一人が、こちらに気づいて槍を構え——そのまま、固まった。


「……井上、様?」


 若い声だった。玄水も、その顔を知っていた。堀(ほり)の家の千吉。玄水が田中の水軍で組頭をしていた頃、いちばん漕ぎの下手だった水夫である。


「千吉か。……大きゅうなったのう」


「い、井上様。なんで、ここに」


「母を、迎えに来た」


 千吉の槍の穂先が下がった。下げてから、慌てて上げて、また下がった。忠義と恩義が槍の先で喧嘩をしている。


「堀。——おぬし、堀の名のままか」


「……へえ。うちは水路方(すいろかた)ですけん、堀の名がないと仕事にならんと、代官様が」


「そうか。良い名じゃ。掘った者の名じゃ」


 玄水は静かに言った。


「なら、水路方の堀に聞く。この郷の井戸の水は、いま誰のものじゃ」


 千吉は長いこと黙って、それから槍を、門の脇に立てかけた。


「……見なかったことに、します」


 ◇


 代官所の奥の間で、田中主膳は起きていた。


 燭台の下、帳面を検めていた代官は、廊下の軋みに顔も上げずに言った。


「夜半に検分とは、感心な役人もいたものでござる」


「役人ではないわ」


 主膳が顔を上げた。


 濡れ縁に、玄水が立っていた。その後ろの闇に、長刀の白い刃がひとつ。


「……これはこれは。井上玄水どの。文が、届きましたか」


「二枚ともな」


 玄水は座敷に上がらなかった。濡れ縁から、静かに言った。


「母と姪を、返してもらう」


「お返しする、とは申しておりませぬ。お預かりする、と申したはず。……お預かりしたものをお返しするのは、あなたが帳面を書き改めたその時で」


 主膳は筆を置いて、袖の中から小さな判を出した。


「されど、ようございました。ご本人が来られたなら、話は早い。ここで書き改めなされ。さすれば母君も姪御も、今夜のうちに——」


 言いながら、主膳の指が文机を、こつ、こつ、と二度叩いた。


 庭の闇が、動いた。


 影が六つ。塀の上と植え込みから、音もなく湧いて出る。抜き身の刀が六本、燭台の光を鈍く返した。


「——呼んだのは六人。来たのも六人。それで全部?」


 濡れ縁から、白い影が庭へ降りた。真鶴である。長刀を担いだまま、六本の刀の真ん中へ、散歩みたいに歩いていく。


「手荒はなし、と言うたぞ」


「向こうが先よ」


 先頭の一人が斬りかかった。声もなく、踏み込みも読ませない、玄人の太刀筋——を、長刀の柄が下から巻き上げる。刀が夜空に回って、植え込みに突き立った。返す峰が二人目の胴を打ち、三人目は石畳に足を払われて転がった。


 気味が悪いのは、誰も声を上げないことだった。


 打たれても、転がされても、悲鳴ひとつない。倒れた仲間を見向きもせず、残りが無言で間合いを詰めてくる。まるで痛みの届く名前が、身の内のどこにもないみたいに。


「……あんたたち、悲鳴くらい上げなさいよ」


 真鶴の声から、遊びが消えた。四人目の刀を巻き落とし、五人目の膝を柄で刈り、最後の一人は——踏み込む前に、長刀の切っ先を喉元へぴたりと据えられて、初めて止まった。


 六人を庭に転がすまで、十も数えなかった。真鶴は倒れた男の袖をめくり、左腕を検めて、小さく舌を打った。


「姓紋、なし。……海のと、同じね」


 名無しの兵。預け名の者らが、代官所の庭にもいた。


「主膳どの」


 玄水は、庭を一瞥もしなかった。濡れ縁に立ったまま、静かに続けた。


「その前に、ひとつ聞く。……おぬしの左腕の痕は、何の姓の痕じゃ」


 筆を持ち直そうとした主膳の手が、止まった。


「儂は元・田中の水軍じゃ。代官所の帳面のからくりくらいは知っておる。おぬし、代官に成り上がる前に、自分の姓を判所に預けたな。返してもらえる当てもなく」


「……何を、証拠に」


「郷の年寄りが覚えておったよ」


 闇の中から、しわがれた声がした。


 キヨである。奥の座敷から、なつの手を引いて、廊下をゆっくり歩いてくる。番をしていたはずの兵は、堀の千吉が「見なかったことに」してくれたらしい。


「三十年前、筑後川の上(かみ)の郷が、判で名を書き改められました。井手(いで)の郷と申しましてな。……堰と取水を代々預かる、水の家の郷でございましたよ」


 主膳の丁寧な顔から、色が引いていった。


「井手の、彦一(ひこいち)や。おまえ様、わたくしの祝言に、水口(みなくち)の祝いの水を汲んでくれた子じゃろう」


「————」


「大きゅうなって、名を捨てて、判を持って。……それでも顔は、井手の顔じゃ」


 主膳は、立ち上がろうとして、立てなかった。


「……その名は」


 声が、初めて役人の声ではなくなった。


「その名は、もう、無い。判所の帳の底でござる。返してもらえるのは、しまいの日だけと——」


 しまいの日。


 海で拾った名無しの兵と、同じ言葉だった。玄水は目を細めた。この男もまた、預けた側なのだ。名を取り上げる側の男が、いちばん最初に取り上げられていた。


「主膳どの。いや——彦一どの」


 玄水は懐から水筒を出した。郷に入る前、井戸で汲んできた水である。濡れ縁の板の上に、静かに置いた。


「井手も井上も、根はひとつじゃ。井の水を守る家の名よ。……おぬしは判で人を縛るとき、いつも水を止める。堰を締める。水で人を縛るのが、おぬしの十八番になった」


「……それが、代官の務めに」


「井戸の水は、縛るためにあるんじゃないわ」


 玄水は、言った。怒鳴らなかった。ただ、組頭が漕ぎの下手な水夫に教えるときの声で、言った。


「汲んで、分けて、回すためにある。おぬしの郷の堰も、そうじゃったろう。……彦一どの。おぬしの名は判所の帳の底なんぞに無い。おぬしが毎日、水を止めるたびに思い出しとる。それが名の在り処じゃ」


 主膳は動かなかった。


 長い沈黙のあと、その手が、袖の中の判を握ったのが分かった。真鶴の爪先がわずかに沈む。玄水は動かない。


 張り詰めた気配を割ったのは、小さな声だった。


「みず、のむ?」


 なつだった。キヨの袖から離れて、濡れ縁の水筒をとことこと運んで、主膳の前に置いたのである。


「おばばが言ってた。いのみずは、みなのものだって。だから、おまえさまのぶんも、あるって」


 主膳は八つの子供を見た。


 それから水筒を見て、自分の左腕を見て——袖の中の判から、手を離した。


 ◇


 夜明け前に、小舟は河口へ戻った。


 主膳は追手を出さなかった。庭に転がした六人は、縛りもせずに置いてきた。名のない兵は、命じる者が折れれば、それきり動かない。玄水たちが代官所を出るとき、代官は帳面に向かって、井上郷の頁を開いたまま、いつまでも筆を持たずに座っていた。あの帳面がこの先どうなるかは、天逆鉾の前で決まる。名取戦に琉太が勝てば、九州の判はぜんぶ宙に浮く。


「ねえ、玄水」


 早船の帆を張りながら、真鶴が言った。


「あの代官、斬らなくてよかったの? あたし、てっきり」


「斬れば、井手の名は今度こそ絶えるでな。……あれで、井手はまだ生きておる」


「ふうん。——甘いのね、井上の家は」


「水の家じゃもの」


 舳先ではキヨが、なつを膝に抱いて海を見ていた。玄水が隣に腰を下ろすと、母は息子の顔をしげしげと眺めて、それから言った。


「痩せたの」


「……島の飯は、うまいがの。母様の芋がゆには敵わん」


「帰ったら炊いてやります。……それで、玄水や。急ぐ旅なのじゃろう」


「ああ」


 玄水は南の海を見た。夜明けの水平線の向こう、二日先に、日向がある。


「若が、名前を賭けて戦うでな。——立会いに、間に合わせる」


(第三十話・了)

次回、明日20時10分に更新します。

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