第二十九話「申し込み」
その夜の軍議は短かった、出せる手が少なかったからである。
水源を力ずくで奪い返す——甲斐が言った。峡谷の民なら夜の崖を登れると。だが黒木の武士団は三百、狩人と民兵をかき集めても八百。対して堰は三つ、守りは八千。一つ獲れたとして、残り二つで田は枯れる。
中村に援軍を——日高翁が言った。だが北と東を睨まれた中村は動けないし、動けたとして間に合わない。稲の残りは四日だ。
夜討ちで大将の首を——真鶴が言った。崖の道はあたしが下りる、と。だが宗典を討っても八千と判は残る。それに闇討ちで獲った首は、獲った側の名を汚す。黒木の名で立つ限り、その手は使えない。
「……分かってるわよ」
姉弟子様は言う前から分かっている顔で、長刀を膝に戻した。それでも言ったのは、言わずに座っていられない質だからだ。
そして四つ目の手を千歩が言った。
「判を押します」
広間が静まり返った。
甲斐が何か言いかけて呑んだ。消えかけた不知火が——一度だけ甲斐のほうを向いた。
囲炉裏の火より静かな声。
「民は水を飲み、来年の種を蒔けます。三百年守った名と、いま生きている民。どちらを取るかと問われれば、当主の答えはひとつです」
袖の先で、不知火がほとんど消えかけていた。
「……それを言うために、今日まで黙ってたのか」
「同盟のお二方に、先に言えば止められますから」
止めるに決まってるだろ。俺は息を吸って、五つ目の手を出した。
「名取戦を申し込む」
◇
「正気ですかな」
日高翁が、鈴を鳴らさずに聞き返した。
「名取戦は神前の果し合い。負ければ賭けた名は神の帳から消えまする。……琉太様は、全て賭けるつもりか」
「そうだ、俺の四つ全部。井上、尚、火嘉——黒木もだ」
千歩が、初めて目を見開いた。
「預かった名を、勝手に賭けるなと言いたいだろうが——姫、判を押せばどのみち黒木は消える。なら、消える前に一度だけ、名に戦わせてやってくれ。……俺は人の名ってやつが、書き換えられて黙ってるほど弱いものだとは思ってない」
不知火が、ぽっ、と小さく色を取り戻した。姫の表情は動かない、袖の先だけが答えていた。
「琉太様」
隣で寧々が、静かに言った。
「尚も、ですか」
「……ああ」
残り数人の名だ。負ければ、今度こそ消える。俺は言い訳をしなかった。寧々の目を、そのまま見返した。
「わかりました」
姫は、それだけ言った。
「蔵にしまっておく名なら、消えても同じです。父も、そう申すと思います」
「儂の井上も、好きに使いなされ」
玄水が瓢箪の紐を結び直しながら言った。
「預けた名を惜しむようなら、はじめから預けとらんわい。……じゃが琉太どの。筑後の婆様と姪っ子には、勝ってから会いに行きなされよ」
「善処する」
「善処ではないぞ。勝てと言うとる」
「——それに勝ち負けの前に、名取戦にはもうひとつ使い道がある。寧々」
俺の隣で寧々が帳面を開いた。東翁の朱書きがびっしり入った、あの帳面である。
「名取戦の条目、第三条。……申し込みが神前で受理されてから果し合いの日まで、両家は潔斎に入ります。潔斎の間、両家は互いに『争いの手』を止めること。矢を収め、刃を鞘に納め——」
寧々は、そこで一拍置いた。祝の家系の姫は効かせ所を知っている。
「——『水路、陸路、兵糧の道を塞ぐこと、これも兵略のうちとす』。堰を止めるのも争いの手です。潔斎に入れば、田中は水を返さねばなりません」
「ひとつ確かめたい。潔斎の間は、こっちも一切手が出せないのか」
「条目が縛るのは、名を賭けた両家の名のあいだだけです。……名を預けた者や、判所の兵は、名を賭けておりませんので」
(——なるほど。筑後は、条目の外か)
広間の空気が、変わった。
「潔斎は、何日あるんだ」
「七日にございます」
「……ようも見つけなさったのう」
玄水が、感心とも呆れともつかない声で唸った。
「儂の頭の帳面にも載っておらん条目じゃ。祝の家の帳面は、儂のより古いわけよ」
「東翁の朱書きに、しるしがありましたので」
寧々がほんの少しだけ、胸を張った。
稲の残りは四日。潔斎は七日。
まずは、申し込みが受理されたその日に——水が戻る。
「勝つための名取戦じゃない。まず、水を取り戻すための名取戦だ。勝ち負けはその後でいい」
甲斐が低く唸り、日高翁が初めて鈴を鳴らした。しゃらり、と。
「……神官長として、立会いをお受けいたしまする。神前は天逆鉾の前。あれ以上の神域は、九州にございませぬ」
「決まりだな」
「がう」
岩丸が、軍議を締めるみたいに鳴いた。張り詰めていた広間の空気が、それでほんの少しだけ緩む。
「あんたが返事してどうすんのよ」
真鶴が笑って、軍議は終わった。
◇
出立がひとつあった。
玄水である。井上郷は筑後——宗典の兵糧を集めている、まさにその代官領だ。山口の早船が日向の浜まで来ている。それで西へ回り、筑後川を上る。
「済まんの、琉太。いちばん大事な時に」
「あんたの大事な時でもあるだろ」
それから俺は、真鶴を見た。
「姉弟子様。ついてってやってくれ」
「……あんたの傍を離れるのは、心配なんだけどね」
真鶴は長刀を担ぎ直して、玄水の隣に並んだ。
「でも、お婆ちゃんと子どもの救出でしょ。あたし向きだわ。——ねえ琉太。あんた、あの槍とやるのよね」
「やる」
「勝ちなさいよ。あたしの弟弟子なんだから」
夜の浜で、早船の帆が上がった。帳面の男と姉弟子様が、暗い海へ出ていく。井戸の水は縛るためにあるんじゃない——それを代官に教えるために。
◇
翌朝、俺はまた谷を下りた。供は寧々と、肩の岩丸だけである。
陣門で「名取戦の申し込みに来た」と告げると、今度はさすがに、すぐには通されなかった。
待たされる間に、柵の内側へ人垣ができた。
「おい、あれが噂の魔人サマか」
「八尺の鬼って聞いたぜ」
「どこがだ。五尺あるかも怪しいぞ」
兵たちの笑い声が遠慮なく飛んでくる。昨日来た時は、目で数えられるだけだった。今日は口が付いている。名取戦の申し込みなんて酔狂を届けに来た使いは、客じゃなくて見世物らしい。
「琉球の芋侍が、宗典様と果し合いだとよ」
「槍の長さだけで、もう負けてらあ」
「おう、賭けようぜ。何合もつか」
「三合」
「気前がいいな。俺は一合半に張る」
銭の音がじゃらじゃらと鳴り始めた。頭に来るより先に感心してしまった。囲みの最中でも賭場が立つ。どこの国でも、兵ってのは元気だ。
「がう」
肩の岩丸が、低く鳴いた。首の後ろを撫でて黙らせる。
(怒るなよ相棒。……ぜんぶ利子を付けて、返してもらうさ)
寧々だけが、まっすぐ前を向いて立っていた。祝の家系の姫は、雑音なんぞ清めの前の埃ほどにも思っていない顔だった。
やがて陣の奥がざわつき、僧形の男が二人、小走りに出てくる。軍目付と陣僧——判の国は、戦にも帳面方を連れている。
「な、名取戦とは。異なことを申される」
陣僧が、扇で口元を隠して笑った。
「名取戦は同格の家柄の儀式。琉球の若君と田中一門の将では、家格が釣り合いませぬ。作法に適わぬ申し込みは、受理いたしかねる」
「家格の釣り合いは、名の数で計ると古式にあります」
寧々が、静かに前へ出た。
「祝部の古式、第一条。『名取戦は名と名の果し合いにて、家と家の果し合いにあらず』。田中宗典様の名はひとつ、比嘉琉太様の名は四つ。釣り合わぬと言うなら、釣り合わぬのはそちらです」
「な……どこの田舎作法を」
「田舎作法ではありません。都の神祇官が三百年前に定めた本式です。写しは黒木の書庫にございます。……お疑いなら、都に早馬を立てて確かめられますか。潔斎の起算は、申し込みの日ですが」
陣僧が、扇で口元を隠すのも忘れて黙った。
「……なれば、立会いは」
最後の一手のように、陣僧が言った。
「日高家は黒木の神官。祝の姫も、そちらの陣。審く者が揃って向こう側では、公正とは申せませぬ」
「古式が求めるのは、神職であることだけです」
寧々は即答した。
「ですが、もっともなお申し出です。——では、そちらの陣僧様に副立会いをお願いします。神前で祝詞を上げられる方なのでしょう」
「そ、それがしが」
「お嫌でしたら、都に早馬を」
陣僧は、扇を取り落とした。
確かめる間も、潔斎は進む。突っぱねれば作法違反はそっちになる。祝の家系の姫は、帳面の国を帳面で詰みに来ていた。
(……寧々って、怒らせちゃいけない人だったんだな)
◇
床几の宗典は、話を全部聞いてから、長いこと黙っていた。
「……断れば、どうする」
「あんたの算盤で言うよ。——値段の話だ」
俺は、昨日この陣で聞いた言葉をそのまま返した。あんたは戦のやり方を、正しさじゃなく値段で選ぶ。なら、断った時の値段も勘定に入れてもらう。
「兵は判より高く、判は水より高い。——なら聞くが、『田中は名の勝負から逃げた』って評判はいくらだ。田中が名の果し合いから逃げたって話は、九州中の湊と酒場を、銭より速く回るぞ」
宗典の手が、膝の上でゆっくりと握り込まれた。
「名を賭けない戦をするあんたに、名の理の上まで戻ってきてもらう。それが俺の申し込みだ。……あんたは琉球で、一度もこれをやらなかった。判と兵で来た。今度は水で来た。——一度くらい、名と名で決着つけようぜ。宗典」
長い、長い沈黙のあと。
宗典は立ち上がり、日本号を地から抜いて——穂先を、天へ立てた。
「——受ける」
柵の内の笑い声が、ぴたりと止んだ。
陣僧が何か言いかけて、一睨みで黙った。
「そちらは、何を賭ける」
俺は聞いた。ここを曖昧にしたら、勝っても何も動かない。
「田中の名、ただ一つ」
宗典は、即答した。
「ただし——それがしがこの九州で押させた判の、全て。これに付ける」
息を呑んだのは、俺じゃなかった。柵の内側の、八千のほうだ。
(……この人、自分の名だけじゃなく、九州ぜんぶを卓に載せたな)
「なぜそこまで」
「名を失うた家が、その名で押した判を握っておっては、理が通らん。……勝てば、おぬしの四つが同じ扱いになるだけのことだ」
賭けは、釣り合った。俺の四つの名と、あの人の名ひとつ、そして九州の判ぜんぶ。
「呑む」
「宗家には、それがしから書を送る。潔斎は今日より七日。堰は日暮れまでに開く」
「こっちからも、ひとつ通しておく。潔斎の間に井上の者が一人、筑後へ帰郷する。得物は帯びるが、戦じゃない。——母親を、迎えに行くだけだ」
宗典の眉が、わずかに動いた。代官所の文のことを、知っているのかいないのか。読めない間があって、それから短く言った。
「筑後は、それがしの陣の外だ。代官の帳面まで、それがしは預からん。……好きにされよ」
管轄の外。つまり——あの代官は、この男の統制の下で動いているわけじゃない。頭の隅に、書き留めておく。
それから宗典は、俺をまっすぐに見た。
「比嘉琉太。七日後、天逆鉾の前で——それがしの畑の種を見せる」
種。
その言葉の重さを、俺はまだ知らない。
◇
日暮れ前に、谷の上から音がした。
最初は風かと思ったが違った。三つの堰が順に開いて待ちわびた水が、涸れた水路を駆け下りてくる音だった。
棚田に水が渡る。泥が黒く潤んで、傾いた稲が少しだけ首を持ち上げる。
民が水路に群がって、子供らが笑い、大人は泣いていた。千歩は棚田の縁に立って、いつもの平坦な顔でそれを見ていた。ただ、袖の先の不知火が——青白く、燃えるように、張りを取り戻していた。
「琉太どの」
「なんだ」
「七日後、あなたが負けたら、わたくしたちの名は消えます」
「ああ」
「……勝ちなさい。一度目は、名乗りを許しました。二度目は——賭けることを、わたくしの名において許します」
誉められた名は、強いのでしょう——姫はそれだけ言って、水の戻った谷を下りていった。
七日後、天逆鉾の前。
名を賭けた、最初の戦が始まる。
(第二十九話・了)
次回、明日20時10分に更新します。




