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名字マニアの天下取り ~名字が国名の戦国で、俺は47の名を誉めて味方にする~  作者: 無名の権兵衛
第二部・九州動乱編【集めた名 四/四十七】

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幕間七「名を書き改める朝」(井上キヨ視点)

 役人は、朝のうちに来る。


 筑後の井上郷では、この一月ですっかりそういうことになった。日が高くなってからでは百姓が野へ出てしまうので、朝餉(あさげ)の匂いが残っているうちに戸を叩く。よく考えられている、と井上キヨは思う。人を役所へ呼び出すのではなく、役所のほうから家へ来る。呼び出せば逃げる者が出るが、家に来られては逃げようがない。


 キヨは今年で六十四になる。この郷に嫁いで四十六年、井上を名乗って四十六年である。


 表の通りを、帳面を抱えた男が三人、朱肉の箱を持った小者を連れて歩いていく。


 隣の家の戸が開いた。


「井上の甚平(じんぺい)どのじゃな。——本日、改姓の儀にまいった」


「……へえ」


「田中の姓を賜る。ありがたく思われよ。年貢は据え置き、田は今のまま。判さえ押せば、明日から御領民じゃ」


 紙の擦れる音がして、しばらくの間があって、それから、とん、と軽い音がした。


 判の音である。


 この一月で、キヨはこの音を数えるのをやめた。三十を過ぎたあたりまでは数えていた。郷は八十七軒ある。


 ◇


「井上のキヨどの」


 戸口に立った役人は、まだ若かった。声に張りがなく、目を合わせない。この仕事を何十軒とやっていれば、そうもなるだろう。


「本日、改姓の儀にまいった」


「うちには、判がございません」


「爪でよい」


 役人は帳面を開いた。井上、井上、井上と並んだ名の上に、細い筆で線が引かれ、その脇に田中と書き足されている。線の引き方が、ずいぶん上手くなっていた。ひと月前はもっと震えていた、とキヨは思う。


「キヨどの。……お聞きになっておられよう。郷はもう、あらかた済んでござる」


「へえ」


「残っておるのは、あんたの家だけじゃ」


 台所の陰から、なつが顔を出した。八つになる孫である。なつの父——玄水の弟も、その嫁も、三年前の流行り病でいなくなって、それきりキヨが育てている。


 なつは役人を見て、それから、キヨの袖を掴んだ。


「おばば。田中になるの」


「ならんよ」


 キヨは、なつの手を握り返した。皺の手と、まだ小さい手である。


「うちには井上を名乗っておる者が、もう一人おりますでな。あれが帳面に残っておるうちは、わたくしが先に消えるわけには参りません」


 役人の目が、初めてこちらを向いた。


「……玄水どのは、田中の陣で捕虜になられたと聞いておるが」


「南の島におります」


「島?」


「便りが来ました。冬の前に一度、それから梅雨の前にもう一度。字が下手なのは昔からで、こればかりは治りませんでした」


 役人は帳面に目を落として、それきり黙った。


 ◇


 昼過ぎ、代官が来た。


 田中主膳(しゅぜん)という。五十がらみの、身なりのよい男である。歩き方が丁寧で、言葉づかいも丁寧で、キヨに向かって深く腰を折った。郷の者はこの男を怖がる。怒鳴らないからだ。


「ご老母。無理を申しておるのは承知しております」


「はあ」


「されどの。郷の名がひとつ揃わぬというのは、帳面が閉じられぬということでござる。帳面が閉じねば、わたくしの覚えが悪くなる」


 自分の都合を、隠しもしない。


「それに——井上ひとつが残っておりますと、この郷の者らが、いつまでも『元は井上だった』と思い続けます。それがいちばんいけません」


 主膳は、そこだけ声の調子を変えた。


「捨てた名を憶えておるのは、身の毒でござるよ。わたくしはよう知っております」


 キヨは、この男の腕を見た。左腕は袖の下で、見えない。


「……代官さまは、もとは何と申されましたか」


 主膳の丁寧な顔が、ほんの一瞬だけ、剥がれた。


 剥がれて、すぐ戻った。


「文をお書きなされ。息子どのに」


 役人が、硯と紙を運んできた。


「ご帰郷の上、ご自身の手で書き改められよ、と。——それだけでよい。お預かりするのは、それまでの間のことでござる」


 なつが、キヨの後ろで息を詰めているのが分かった。


 キヨは筆を取った。


 断れば、なつが連れて行かれる。この男はそれを言わない。言わないから、断れない。


 ◇


 夕方、井戸端に人が集まっていた。


 郷でいちばん古い井戸である。井上の家が代々、浚(さら)って守ってきた。石組みの縁に文字が彫ってあって、長いあいだ苔に埋もれている。


「なあ、ここに何と彫ってあったか、覚えとるか」


 桶を提げた男が、隣の男に聞いていた。今朝、判を押した甚平である。


「……なんじゃったかのう」


「井の字が入っとったのは、覚えとるんじゃが」


 二人は、しばらく縁を撫でていた。それから顔を見合わせて、なんとなく笑って、水を汲んで帰っていった。


 キヨは離れたところで、それを見ていた。


 三日前まで、あの二人は井上だった。


 彫ってある字を教えてやろうかと思って、やめた。教えたところで、明日にはまた忘れる。名を書き改めるというのは、そういうことらしい。忘れるのではない、忘れてよいことになる。


 なつが、袖を引いた。


「おばば。あの井戸、なんて書いてあるの」


「井の水は、みなのもの」


 キヨは、孫娘の頭に手を置いた。


「うちの人が、そう教えてくれたんよ。井上というのは、井戸を掘り当てた者の名ではない。掘り当てた水を、独り占めしなかった者の名だと」


「ひとりじめ、しなかったの」


「せんかった。だから、上に立つと書いて井上」


 なつは、しばらく井戸を見ていた。


「じゃあ、なつも井上でいい」


 キヨは返事をしなかった。返事の代わりに、孫娘の髪を撫でた。


 西の空が、暗くなり始めている。


 あの子の字の下手な便りが、南の島から届くまでに、あと幾日かかるだろう。


(幕間七・了)

次回、明日20時10分に更新します。

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