幕間七「名を書き改める朝」(井上キヨ視点)
役人は、朝のうちに来る。
筑後の井上郷では、この一月ですっかりそういうことになった。日が高くなってからでは百姓が野へ出てしまうので、朝餉の匂いが残っているうちに戸を叩く。よく考えられている、と井上キヨは思う。人を役所へ呼び出すのではなく、役所のほうから家へ来る。呼び出せば逃げる者が出るが、家に来られては逃げようがない。
キヨは今年で六十四になる。この郷に嫁いで四十六年、井上を名乗って四十六年である。
表の通りを、帳面を抱えた男が三人、朱肉の箱を持った小者を連れて歩いていく。
隣の家の戸が開いた。
「井上の甚平どのじゃな。——本日、改姓の儀にまいった」
「……へえ」
「田中の姓を賜る。ありがたく思われよ。年貢は据え置き、田は今のまま。判さえ押せば、明日から御領民じゃ」
紙の擦れる音がして、しばらくの間があって、それから、とん、と軽い音がした。
判の音である。
この一月で、キヨはこの音を数えるのをやめた。三十を過ぎたあたりまでは数えていた。郷は八十七軒ある。
◇
「井上のキヨどの」
戸口に立った役人は、まだ若かった。声に張りがなく、目を合わせない。この仕事を何十軒とやっていれば、そうもなるだろう。
「本日、改姓の儀にまいった」
「うちには、判がございません」
「爪でよい」
役人は帳面を開いた。井上、井上、井上と並んだ名の上に、細い筆で線が引かれ、その脇に田中と書き足されている。線の引き方が、ずいぶん上手くなっていた。ひと月前はもっと震えていた、とキヨは思う。
「キヨどの。……お聞きになっておられよう。郷はもう、あらかた済んでござる」
「へえ」
「残っておるのは、あんたの家だけじゃ」
台所の陰から、なつが顔を出した。八つになる孫である。なつの父——玄水の弟も、その嫁も、三年前の流行り病でいなくなって、それきりキヨが育てている。
なつは役人を見て、それから、キヨの袖を掴んだ。
「おばば。田中になるの」
「ならんよ」
キヨは、なつの手を握り返した。皺の手と、まだ小さい手である。
「うちには井上を名乗っておる者が、もう一人おりますでな。あれが帳面に残っておるうちは、わたくしが先に消えるわけには参りません」
役人の目が、初めてこちらを向いた。
「……玄水どのは、田中の陣で捕虜になられたと聞いておるが」
「南の島におります」
「島?」
「便りが来ました。冬の前に一度、それから梅雨の前にもう一度。字が下手なのは昔からで、こればかりは治りませんでした」
役人は帳面に目を落として、それきり黙った。
◇
昼過ぎ、代官が来た。
田中主膳という。五十がらみの、身なりのよい男である。歩き方が丁寧で、言葉づかいも丁寧で、キヨに向かって深く腰を折った。郷の者はこの男を怖がる。怒鳴らないからだ。
「ご老母。無理を申しておるのは承知しております」
「はあ」
「されどの。郷の名がひとつ揃わぬというのは、帳面が閉じられぬということでござる。帳面が閉じねば、わたくしの覚えが悪くなる」
自分の都合を、隠しもしない。
「それに——井上ひとつが残っておりますと、この郷の者らが、いつまでも『元は井上だった』と思い続けます。それがいちばんいけません」
主膳は、そこだけ声の調子を変えた。
「捨てた名を憶えておるのは、身の毒でござるよ。わたくしはよう知っております」
キヨは、この男の腕を見た。左腕は袖の下で、見えない。
「……代官さまは、もとは何と申されましたか」
主膳の丁寧な顔が、ほんの一瞬だけ、剥がれた。
剥がれて、すぐ戻った。
「文をお書きなされ。息子どのに」
役人が、硯と紙を運んできた。
「ご帰郷の上、ご自身の手で書き改められよ、と。——それだけでよい。お預かりするのは、それまでの間のことでござる」
なつが、キヨの後ろで息を詰めているのが分かった。
キヨは筆を取った。
断れば、なつが連れて行かれる。この男はそれを言わない。言わないから、断れない。
◇
夕方、井戸端に人が集まっていた。
郷でいちばん古い井戸である。井上の家が代々、浚って守ってきた。石組みの縁に文字が彫ってあって、長いあいだ苔に埋もれている。
「なあ、ここに何と彫ってあったか、覚えとるか」
桶を提げた男が、隣の男に聞いていた。今朝、判を押した甚平である。
「……なんじゃったかのう」
「井の字が入っとったのは、覚えとるんじゃが」
二人は、しばらく縁を撫でていた。それから顔を見合わせて、なんとなく笑って、水を汲んで帰っていった。
キヨは離れたところで、それを見ていた。
三日前まで、あの二人は井上だった。
彫ってある字を教えてやろうかと思って、やめた。教えたところで、明日にはまた忘れる。名を書き改めるというのは、そういうことらしい。忘れるのではない、忘れてよいことになる。
なつが、袖を引いた。
「おばば。あの井戸、なんて書いてあるの」
「井の水は、みなのもの」
キヨは、孫娘の頭に手を置いた。
「うちの人が、そう教えてくれたんよ。井上というのは、井戸を掘り当てた者の名ではない。掘り当てた水を、独り占めしなかった者の名だと」
「ひとりじめ、しなかったの」
「せんかった。だから、上に立つと書いて井上」
なつは、しばらく井戸を見ていた。
「じゃあ、なつも井上でいい」
キヨは返事をしなかった。返事の代わりに、孫娘の髪を撫でた。
西の空が、暗くなり始めている。
あの子の字の下手な便りが、南の島から届くまでに、あと幾日かかるだろう。
(幕間七・了)
次回、明日20時10分に更新します。




