第二十八話「刈らずに、枯らす」
黒木の湊は、相変わらず湊と呼ぶのも憚られる小ささのままだった。
石積みの船着き場に舫って、そこから先は徒歩で山に入る。半月ぶりの峡谷は、夏の緑で膨れ上がっていた。柱状節理の岩壁が、両側から空を細く切り取っている。
三百年、この道を敵は上がってこなかった。幅二尺の棚道が、そのまま国の門である。
その門を、甲斐峻が塞ぐように立っていた。
「——比嘉どの」
琉球どの、ではなくなっていた。盟を結ぶというのは、呼び名が変わるということでもあるらしい。
崖の国の弓取りは、半月前より痩せていた。目の下が落ちて、顎の線が硬い。
「来ていただけるとは、思っておりました。……ですが、遅うございました」
盟の条目——援軍の義務はこちらが負う。黒木は負わない。あの一筆を、三百年よそに頼らなかった国の武士団長が、誇りを曲げて待っていたのだ。遅うございました、は責め言葉じゃない。待っていた、の裏返しだ。
「敵はどこだ」
「谷の外に。——ただ、一歩も入って参りませぬ」
俺は眉を寄せた。囲まれているのならまだ分かる。攻められているのなら、なおさら分かる。
「入ってこない?」
「ええ」
甲斐は、崖の上を仰いだ。
「川上を、押さえられました」
◇
黒木の館は静かすぎた。
人がいないのではない。声がないのだ。廊下で行き違う侍女も、庭を横切る足軽も、みな口を利かない。喋りたくても喋れないという顔をしていた。
広間に通されると上座に千歩が座っていた。不知火が、袖の先で小さく縮こまっている。半月前に見た、あの張りのある青白い火ではない。
「琉太どの」
姫の声は、変わらず平坦だった。
「山口との盟、成りましたか」
「成った。中村と合わせて三国だ」
「……ようございました」
それだけ言って、千歩は一度だけ目を伏せた。表情は動かない。この国では火を見ればいい、と俺はもう知っている。ただし、火が疲れていた。
「状況を」
答えたのは、日高翁だった。
「初めに参ったのは、旗のない一隊にございました。五日前の夜、海から。……上流の三つの堰は、その晩のうちに押さえられており申した」
「旗のない……」
名無しの船。海で沈められた四隻と、同じ手口だ。公然と豊前に上がった本隊より先に、名を消した一隊が闇で仕事を済ませていた。
「本隊八千が船で着いたのは、一昨日にございます。谷の外に陣を敷いて、……一度も、攻めて参りませぬ」
翁が広げた絵図に俺は目を落とした。
黒木の国は、峡谷に沿って細長い。米は棚田で作る。棚田の水は、山の上の湧きから引いた三本の水路で回している。谷が深いということは、水が上から下へ一本道だということだ。
その一本道の、いちばん上を握られた。
「田は」
「昨日から、色が変わり始めました。……今年の稲は、もう」
「飲み水は」
「谷底の井戸がまだ、ですが数が足りませぬ。民は一日に、椀に三杯」
あの顔の理由が分かった。
荷に入りきらないほど貰った椎葉の干し椎茸も、戻す水がなければ、ただの軽い木切れである。
「井戸を掘れないのか」
「岩でございます」
甲斐が、短く言った。
「三百年、この国を守ってきた岩でございます」
……そういうことか。
攻められない国というのは、要するに、出られない国だ。幅二尺の棚道は、敵を通さない代わりに、食糧も水も人も通さない。三百年ぶんの誇りが、いま国民の首を絞めている。
(この国は、鍵のかかった蔵だ。……宗典は、扉を叩きもしないで、外から鍵をかけ直しただけだ)
◇
翌朝、俺は谷を下りた。
供は玄水と真鶴だけ。寧々は千歩の側に残した。祝の家系の姫が井戸端で言祝ぎをすると、水が少しだけ長持ちするらしい。少しだけ、というのが今の黒木の全部だった。
「あんた正気? 八千の真ん中に、三人で歩いていくのよ」
「戦じゃない、使いだ」
俺は懐の白紙盟書を叩いた。琉球国王の名代は、盟った国のために口を利く。それが仕事だ。そしてこの世界の陣は、使いを斬らない。使者を斬れば「田中は使者を斬った」と名が汚れる——名前がすべてのこの世で、それは矢の千本より高くつく。
……もっとも、黒木の広間でその作法を破りかけた奴を、俺はつい先日見たばかりだ。だがあれは蔵田の質の話で、この陣の主は、蔵田じゃない。
「……作法は分かったけど」
真鶴は長刀を担ぎ直して、俺の半歩後ろについた。
「作法を破る奴は、どこにでもいるわ。その時はあたしが作法よ」
姉弟子様は頼もしい。
谷の出口の平地に、陣はあった。
柵も、堀も、櫓も、きちんと組んである。だが陣中は妙に静かで、兵たちは槍を持たずに、鍬と桶を持って歩いていた。八千の兵が、名力を使いながら畑を作っていた。
「……長居する気じゃな」
玄水が呻いた。
陣門で使いを告げると、思ったより早く通された。槍衾も目隠しもなし。すれ違う兵たちの目だけが、じっとこちらを数えている。
「通りが良すぎるのう」
「ああ。向こうも、俺に用があるってことだ」
中央の床几に、緋色が座っていた。
田中宗典は、こちらを見ても立ち上がらなかった。膝の上で稲の穂を一本、指で扱いている。琉球の浜で見た時より日に焼けていた。
「比嘉琉太どの」
「一年ぶりだな」
「息災で何より」
傍らの地面に、槍が突き立ててある。穂が異様に長い。日を受けて、水面みたいに白い。日本号だ。近くで見ると、穂の根元に古い金象嵌が入っていて、それが妙に静かだった。
肩の岩丸も、静かだった。悪意の名力だけを弾く魔除けが、天下の大身槍を前に、鳴きもしない。……この男の得物には、悪意が無いということだ。それが、いちばん怖い。
「単刀直入に聞く。なんで攻めない」
宗典は稲を扱く手を止めて、初めて顔を上げた。
「刈らずに、枯らす」
「……なに」
「畑を潰すのに、刀は要らん」
この男の声は、一年前とまったく同じだった。低くて急がなくて、土の匂いがする。
「稲というものは、水を止めれば四日で色が変わり、七日で立たなくなり、十日で二度と起きぬ。今日で六日目だ。——刈り取れば、根は残る。翌年また生えてくる。だが枯らせば、根まで死ぬ」
「……国を、そうやって殺すのか」
「殺さぬ」
宗典は、ゆっくり首を振った。
「枯れた田は、判を押す。押せば水が戻り、民は水を飲み、来年の種を蒔く。——誰も死なずに、黒木が田中になる」
背筋が、冷えた。
この男は、脅していない。本気で「そのほうが良い」と思っている。八千の兵に槍を置かせて鍬を持たせているのは、そのためだ。占領した後の畑を、いまから作っている。
「……あんた、変わったな」
「ああ」
宗典は、稲の穂を膝から落とした。
「琉球で、負けて考えたのよ。——名を賭けて戦えば、勝った者だけが名を得る。ならば、賭けねばよい。誰の名も奪わず、誰の名も賭けず、ただ田の水を握る。それだけで、国は名を替える」
「あんたが琉球でやったのは、名取戦ですらなかったな。判と兵で、名を潰しに来た」
「あれは高くついた。兵は判より高く、判は水より高い。……水は、安い」
名を賭けない戦。
神前で名を賭け合う名取戦は、この世界の正式の果し合いだ。だが思えば、俺はまだ一度もやっていない。琉球のあれは判と兵の征服戦で、黒木の広間のは只の乱闘で、海のは名無し相手の追い払いだ。名の理の上で戦う日が来る前に——この男は、名の理ごと戦から降りてしまった。
名取戦の外側。俺が積み上げてきた理屈の、ぜんぶ外側だ。
長崎で名無しの銀貨をつまんだ時と、同じ冷えが背中を走った。名前の外側は、海の向こうだけじゃない。目の前の床几にも座っている。
「宗典どの」
俺は前に出た。
「あんたの言う通りだ。それで黒木は落ちる。誰も死なずに落ちる。……で、その後は」
「その後、とは」
「判を押した黒木の民が、来年また田を作る。作った米は誰のものになる。三百年『黒木』と名乗ってきた者が、明日から『田中』と名乗る。その時に消える名前が、いくつあると思う」
宗典は答えなかった。
「あんたは根まで枯らすと言った。……名前も同じだよ。奪えば恨みが残る。だが忘れられた名前は、根まで死ぬんだ」
風が、陣の旗を鳴らした。
しばらくして、宗典は立ち上がった。地面から日本号を抜き、穂先を空へ立てる。長い。俺の背丈の倍近くあった。
背中で、真鶴の気配が絞られた。長刀の鯉口が微かに鳴る。宗典はそちらを一度も見なかった。見ないことが返事だ。
「——比嘉どの。これは、宗家より賜った」
「呑み取りの槍だな」
「酒に賭けて取られた槍よ。名のある品が、酒ひとつで主を替えた。……名とは、そういうものだ」
「違うな」
俺は言った。
「その槍が今もあんたの手にあるのは、取った男が名を惜しまなかったからだ。賭けて渡すのは、名を粗末にすることじゃない。粗末にするってのは、水を止めて田を枯らして、名前が消えるのを黙って見てることだ」
宗典の目の奥で、火が動いた。土の下で熾きる、あの種火だ。
「……あと四日」
槍が、地に戻された。
「四日で稲は起きなくなる。それまでに、姫君に判を押すよう勧めるがよい。それがいちばん、誰も死なぬ道だ」
◇
「ねえ。あの槍に、あんた勝てるの」
谷を上がる道で真鶴が前を向いたまま聞いた。茶化す声じゃなかった。
「受けの型は、振った回数だけ上手くなる。……って師匠は言ってた」
「答えになってない」
「なってないな」
それきり姉弟子様は黙った。黙って、俺と玄水の間を歩く位置を半歩だけ狭めた。
俺はずっと考えていた。
水源は三つ。八千に守られている。棚道は幅二尺——攻める側には不利だが、こちらから討って出るにも同じだけ不利だ。奪い返すには兵が要る。中村は動けない。山口の船は日向の浜まで来られるが、船は山を登らない。
(四日。……四日で、水を返させる手を作らないと、この国の名前が消える)
館に戻ったら、まず寧々だ。黒木の書庫と、東翁の朱書きの帳面。名の理には、戦を縛る条目が必ずある。勝つ手じゃなくていい。——時を止める手を、探す。
館に着くと、日高翁が門で待っていた。
顔色が、下りる時と違う。
「琉太様。玄水どのに、文が届いております」
「文?」
「筑後の——井上郷から」
玄水の足が、止まった。
広間で文を開いた帳面の男は、一行目を読んだところで、そのまま動かなくなった。俺は横から覗き込む。
達筆だった。役人の字だ。文末に、朱の判が押してある。
——井上玄水どのへ。貴殿の母と姪、当代官所にて丁重にお預かり申し候。郷の改姓の儀、滞りなく進み居り、残るは貴殿の家のみと相成り候。ご帰郷の上、ご自身の手にて書き改められたく候。
差出人の名は、田中主膳。田中王国、筑後代官。
そして、公文の下に——もう一枚、あった。
震えた、下手な字だった。書いてあるのは公文と同じ文言。帰郷の上、書き改められたし。それだけだ。それだけを、書かされている。
「……母の字じゃ」
玄水の声は、掠れてもいなかった。ただ、平らだった。
「郷は、みな書き改めたということじゃ。井上を名乗っておるのは、母と、姪と——儂の、家だけということじゃ」
俺たちの足取りを、代官所はどうやって掴んだのか。……考えるまでもない。長崎の湊で人相書きが三枚売られる男の足取りだ。銭さえ出せば、買えない道理がない。
文を持つ手が、少しも震えていないのが、かえって怖かった。
「琉太。……すまん。儂は、行かねばならん」
水を止められた国と、名を書き換えられている郷。
(第二十八話・了)
次回、明日20時10分に更新します。




