第二十七話「緋色、再び」
その夜、俺はよく眠れなかった。
商館の廊下に出ると、奥の一室だけ灯りが点いていた。障子を開けると、古賀惣次が算盤と帳面に埋もれている。矢立の墨は乾きかけ、目の下の隈は、昼に見た時より一段濃くなっていた。
「……お客人。おやすみくださいまし」
「あんたが寝てないだろ」
「これが仕事にございます」
卓には湊の商家の名を書き連ねた紙が広げてあった。名の脇に、赤と黒で細かく印が付いている。黒は賛成、赤は反対、ということらしい。赤のほうが、まだ多い。
「万里様が三日と申されました。三日で十七軒。ならば、朝までに残り九軒でございます」
当主が樽の上で吠えた三日を、この男が一晩に詰めている。
「……古賀さん。あんたの名字、いい名だな」
古賀の筆が、止まった。
「『こが』は河処だ。川が曲がって、流れが淀んで、土砂と物がぜんぶ溜まる、低いところのこと。九州の北にはこの名が濃い。……万里さんが景気よく撒いた銭を、下流で全部拾ってるのが、あんただろ」
番頭は、しばらく黙っていた。
「……よくご存じで」
「歳はいくつだ」
「二十二にございます」
「その歳で大番頭か」
古賀は筆を置いて、初めてまっすぐに俺を見た。値の付かない客を見る目つきは、もうしていなかった。
「古賀の家は、三代、この湊の帳面を握っておりました。……が、父が潰しました。南蛮の生糸に賭けて、船ごと沈めまして」
淡々としていた。数字を読む声だった。
「借銭が家の値を越えました。こういう時、この国では姓を手放します。判所に預ければ、扶持は出ますので」
……預ける。
昨日の海で拾った十一人の、何もない左腕を思い出した。
「だけど、万里様が肩代わりなさいました。値もつけず、証文も取らず。——ただ一言、『古賀の帳面が無くなると、この湊が困る』と」
古賀は帳面に目を落とした。
「わたくしは、あの方の算盤が嫌いでございます。石の獅子にまで値を付けられる。……ですがあの方は、一度だけ、値を付けませんでした」
だから「万里様」なのか。ドン・バルトロメオとは、死んでも呼ばないわけだ。
「万里様は、湊のためなら夜でも走られるお方です。……走りすぎるお方でもある。誰かが後ろで帳面を締めねば、この湊は三日で沈みます」
「だろうな。でも——あんたが後ろで締めてるから、万里さんは走れるんだよ」
古賀は答えなかった。ただ、赤い筆を取り上げて、紙の上のいちばん硬そうな名に線を引いた。
「……残り九軒、四軒に減らします。朝までに」
◇
夜明けとともに、寄合が開かれた。
商館の大広間に、十七人。皺の寄った顔ばかりが並んでいる。絹の羽織を着た者もいれば、水夫と変わらぬ筒袖の者もいた。この国では家柄より銭が速い、というのは本当らしい。ただし、速いのは銭だけだ。人の頭は、どこの国でも遅い。
「田中に弓を引く、ということでございましょうか」
最初に口を開いたのは、江口の隠居だった。入り江の口を四代預かる、この湊で最も古い荷改めの家である。
「弓を引けば、南蛮との商いが止まる。止まれば、この湊は死にまする」
「弓は、もう引かれております」
古賀が、静かに帳面を開いた。
「この一月で沈んだ四隻。荷と船を合わせて、二千七百貫。このまま半年続けば、出商いは三割減り、南蛮の船は堺へ回ります。——弓を引かずとも、この湊は死にます。ただ、ゆっくり死ぬだけで」
数字は、声を荒げない。だから広間が静まった。
その静けさの中へ、古賀は小者に目配せして、空の水樽と船板の切れ端を卓に載せさせた。
「拿捕した賊船の樽にございます。木口は豊前の杉——水を積んだ湊は、田中領にございます。そしてこの板の継ぎは縄縫い。南の海の船大工は、こうは組みませぬ」
証が、卓の上に並んだ。爺たちが首を伸ばして、樽の木口を代わる代わる覗き込む。
だが江口の隠居は、鼻から息を抜いて言った。
「惣次どの。おぬしは良い番頭よ。……だがな、その上に立つお方が、わしは信用ならん」
扇の先が、上座の万里に向いた。
「万里様は、名を軽んじられる。異国のお名を面白がって名乗られ、あげく——名も無い女子を、山口の家にお入れになった」
広間の空気が、変わった。
俺は上座を見た。ドン・バルトロメオ山口の顔から、初めて笑いが消えていた。怒っているのでも、恥じているのでもない。ただ、消えていた。
「——議は、湊の損得にございます」
割って入ったのは、古賀だった。声の高さは、さっきと寸分も違わない。
「江口様。ご当主の家内の話は、帳面に載りませぬ」
これがこの男の言い方だ。庇っているのに、庇っていないふりをする。
(……そういうことか。この当主は、湊で一番いい笑い方をしながら、たぶん一番、名前の重さを知ってる)
「——ひとつ、いいか」
俺は座を進んだ。十七人の目が、いっせいにこちらを向く。八尺の鬼を期待した目が、五尺と少しを見て、いつもの落胆をする。もう慣れたがな。
「昨日、海で兵を十一人拾った。誰も名乗らなかった。……腕に、姓紋がなかったんだ」
広間が、ざわついた。
「焼いた痕も切った痕もない。ただ無い。名を取り上げられてる。あの男たちはたぶん、去年までどこかの湊で荷を担いでた人足だ」
俺は江口の隠居を見た。
「あんたたちの船子と、何が違う」
隠居の扇が、止まった。
「船を沈めてる誰かは、人から名前を剥がして兵にしてる。名前を剥がすってのは、酔狂でできる仕事じゃない。銭と、それを命じる誰かが要る。——そういう相手と、商いは続けられない。値の付け合いってのは、お互いに名前があるから成り立つんだろ」
誰も答えなかった。
「俺は山口の名を貰いに来たんじゃない。残しに来た。……この湊が、三代先も『山口の湊』と呼ばれるようにしに来た」
しばらくの沈黙のあと、江口の隠居が、ふん、と鼻を鳴らした。
「……口の回る芋侍よ」
そして、皺だらけの手を挙げた。
◇
賛成、十四。反対、三。
万里が立ち上がって、久しぶりに、あの声を出した。
「山口家、琉球比嘉家との盟に参ずる! 船も湊も銭も出す! ——おい惣次、書け!」
「既に書いてございます」
「さすがだな」
「昨夜のうちには」
古賀は盟書を差し出し、それから一度だけ、ちらりと俺を見た。目が合ったのは、たぶん一瞬だ。
花押が並び判が押された。山口家の判は、思ったより小さくて、縁がすり減っていた。三代ぶんの手垢である。
海で拾った十一人は、山口家が預かることになった。名乗らない者を裁く法が、この国にはまだ無い。「飯を食わせて、様子を見る」と万里は言った。値を付けない預かり方を、この男はちゃんと知っている。
「ときに魔人どの。うちの名乗りは、やはり要らんのか」
「要らない」
「がっはっは。——では、後払いにしておこう」
万里は算盤を一つ弾いて、それきり値を言わなかった。
◇
同盟の宴で美味い飯を食う予定だったんだがな……
海が報せを運ぶ速さを、俺はこの日はじめて知った。
朝のうちに一報。田中第二陣の船団、豊前の湊を出て豊後水道を南へ。昼に二報。筑後の代官所が人と米を集め、兵站を固めているという。夕に三報——船団の行き先は、日向。それと、もうひとつ。旗のない船が幾隻か、先んじて南へ下ったのを見た者がいる。
「黒木だ」
海図に指を置いて、俺は言った。
盟を公表したのは黒木だけだ。中村は北と東を睨まれて動けない。山口は今日ようやく判を押したばかりで、船を回すのに数日かかる。三百年攻められなかった峡谷の国が、いま九州でいちばん目立つ的になっている。
「玄水。日向まで船で何日だ」
「潮に乗れば、三日」
「二日にしろ」
「無茶を言いなさる」
言いながら、帳面の男はもう水桶の前にいた。
湊を出る時、古賀が桟橋まで見送りに来た。相変わらず帳面を抱えて、隈も相変わらずだ。
「お客人。……いえ、比嘉琉太様」
「なんだ」
「河処の話でございますが」
古賀は少しだけ言葉を探して、それから言った。
「淀んだ水にも、いずれ流れ出る先がございます。……父が沈めた分は、まだ返し終わっておりませぬ。ですので、しばらくは沈みませぬ。ご安心くださいまし」
番頭が、初めて笑った。笑い方が、下手だった。
◇
二日と半日で、日向灘に入った。
「半日は、潮にまけてもらったわい」
と玄水は言った。誰にまけてもらったのかは、聞かないでおく。
夏の朝の海は凪いでいて、陸の緑がやけに近く見える。峡谷の国の入口——霧の切れる、あの狭い平地に、それはあった。
陣である。
旗の数が、多い。多すぎる。黒木が三百年で迎えたどんな客より、たぶん多い。
そして、その中央に。
朝日を受けて、緋色が燃えていた。
陣羽織だ。一年前、琉球の浜で見たのと同じ色。あの時より、色が濃く見えるのは、たぶん俺の気のせいじゃない。
「琉太様、あれ……」
寧々が舳先で息を呑んだ。緋色の傍らに、一本の槍が立っている。穂の刃が長い。異様に長い。日を受けて、水面みたいに白く光っていた。
「……日本号じゃ」
玄水の声が、掠れた。
「都の宝じゃぞ。呑み取りの槍。琉球の負け戦のあと、宗家が召し上げたと聞いておった。……それをまた持たせたということは——宗家が、あの男に本気を出させたということじゃ」
俺は舷を掴んで、陸を睨んだ。
緋色は、まだこちらに気づいてもいない。兵を見る目でも、城を見る目でもなく——畑を見る百姓の目で、じっと谷を測っていた。
それが、いちばん怖かった。
悪いが宗典、刈り入れはさせない。あんたの鎌より先に、俺が谷に入る。
(第二十七話・了)
次回、明日20時10分に更新します。




