第三十六話「南の第五勢力」
軍議の日の夕方、谷に旅の男が来ていた。
筵の端に座って、椀の栗の酒を舐めるように飲んでいる。目の見えない座頭だった。背に琵琶を負い、腰に小さな鈴を提げている。
谷の民が名乗りの唄を歌っていた。昨夜の宴でなつが始めたあの名乗りを、朝には谷じゅうが節をつけて歌っていた。座頭はその節を、指で膝を叩きながら覚えている。
「よい唄でございましょう」
俺が隣に座ると、男は顔をこちらに向けずに言った。
「この間までは、なかった唄でございます」
「昨日の夜に生まれた」
「一夜で、これだけ人が覚える唄は珍しい。……三か月もすれば、海を渡りましょう」
「あんた、どこから来たんだ」
「東から」
男は笑った。歯の白い、感じのいい笑い方だった。
「筑紫を回って、日向へ下り、また東へ戻ります。唄を集めて歩いておりますので」
肩の上で、岩丸が小さく喉を鳴らした。唸っている、というほどでもないが鳴いてはいる。
(悪意しか弾かない、こいつは。……弾かないってことは、この人に悪意はないんだな)
それはそれで始末が悪い。悪意のない目のほうがよく見える。
「その鈴、いい音がしそうだな」
「これでございますか」
男は腰の鈴を、指の腹で撫でた。
「錫でございます。安いものでしてな。ただ、東では鈴を提げておりませんと、通してもらえぬ関所がございまして」
東。鈴。
前世の記憶の抽斗が、勝手に開いた。
(鈴木の「鈴」は、鈴なりの鈴じゃない。稲を積み上げた「すすき」——神を招くための棒の名前だ)
名前を配った神を招く棒。それを名字にした一族が、東で帝国を名乗っている。
「唄を集めてどうするんだ」
「都合よく、憶えておくのでございます」
男は椀を置いて立ち上がった。
「よい国でございますな。名がたくさん鳴っております。……東の御方も、さぞ喜ばれましょう」
「東の御方、ってのは」
「わたくしのような者に、名は明かされませぬので」
座頭は深く一礼して、杖で棚道を確かめながら霧の中へ。目が見えないはずの足取りは、この谷の人間より軽やかだった。
「……琉太」
いつのまにか、真鶴が後ろに立っていた。
「あの人、目、見えてたわよ」
「知ってる」
「斬らなくていいの」
「なんの咎もない男を斬ったら、それこそ唄になる。——東の帝国は、いい耳を持ってるってことだけ、覚えておこう」
◇
二月が過ぎた。
玄水と真鶴が筑後から戻り、寧々の帳面が倍に膨れた頃——俺たちは、黒木を発つことにした。
発つ朝、山の湯は霧の底だった。
千歩と甲斐と日高翁が、棚道の入口まで見送りに来た。三百年、誰も通さなかった谷の入口である。
「琉太どの」
千歩が、いつもの短さで言った。
「山の湯を来月から民に開けます」
「早いな」
「三百年ぶんの疲れは、当主だけのものではないと、どなたかが」
姫の袖の先で、不知火が静かに揺れた。
「それと、もう一つ。……この谷ではもう、皆がわたくしを千歩と呼びます。あなたが言い当ててくださった日から」
「呼ばれて応える名になったな」
「はい。ですが、神の帳と当主の名乗りの上では、まだ千火のままです」
そうか、と思った。呼び名は変わっても、帳簿のほうはまだ書き替わっていない。
「戦の最中に当主が名を替えれば、国が揺れますから。……いつか戦がすっかり終わったら、帳のほうも戻します」
「火から、歩にだな」
「はい。その日は、お呼びします」
「必ず行く」
隣で甲斐がものすごく真剣な顔で棚道の石を見ていた。日高翁がその背中をぽんと叩いて、にこにこ笑っている。
「祝詞は、いつでも」
「翁!」
◇
崖を下って船に乗った。
中村の湊で義親に礼を言い(そして三本立ち合わされ)、山口の湊で万里に相場の講義をされ(そして請求書を渡されかけ)、それから俺たちは南へ帆を向けた。
一度、琉球へ帰る。父上に名代の報告をして、書庫の続きを読んで、母上の飯を食う。それから次の国だ。
「琉太様。次はどちらへ」
舳先で、寧々が帳面を抱えて聞いた。
帳面はもう、旅に出た時の倍の厚さになっている。井上、尚、火嘉、黒木。それから、この旅で書き取った何百という民の名前。
いまはただの紙だ。だが、いつかこの姫が神前でこれを読む日が来る。そう思うと、抱えている紙の束が、やけに重たく見えた。
「四十七のうち、まだ五つだ」
「五つ、ですか」
「琉球、中村、黒木。それに山口は佐賀と長崎の二国だから、締めて五つ」
「四十七、ですか」
寧々が首をかしげた。
「国は四十七でも、国名になっている名字は十五ほどしかないと聞きました。佐藤だけで九カ国、鈴木で八カ国と。……琉太様が数えていらっしゃるのは、どちらです」
「四十七のほうだ」
俺は指を折ってみせた。
「同じ佐藤でも、奥州の佐藤と徳島の佐藤は、帳簿の上じゃ別の名だ。名は土地に根が生えてるからな。名の帳簿は国じゃなく、土地の座で綴られてる。連合ってのは、同じ字を名乗る座同士が血盟で束なっただけのものだ」
「では、佐藤連合を落とすには」
「九つの座を、九回」
言ってから、自分で気が遠くなった。
「……前途多難だな」
俺は北の水平線を見た。
海の向こうに本土がある。その先に中国、四国、近畿、中部、関東、東北、北海道。名字の分布図が頭の中に広がって、まだ会っていない四十二の名前が、ぜんぶそこで誰かに名乗られている。
「行きたい国が、多すぎて困る」
「では、順番に」
「ああ。順番にだ」
「がう」
岩丸が肩の上で鳴いた。賛成、という顔だった。
南の第五勢力、と天下は言うらしい。
勝手に言ってろと思う。俺は勢力なんか作った覚えはない。誉めた名前が、勝手に味方になっただけだ。
——名字マニアを、なめるなよ。
(第三十六話・了/第二部 九州動乱編・完)
第二部・九州動乱編、これにて完結です。全二十二話、お付き合いいただきありがとうございました。
七月二十六日の連載開始から四十日、一日も落とさずに更新できたのは、読んでくださる方がいたからです。
第三部・中国動乱編は、準備ができ次第この作品の続きとして開幕します。日取りが決まりましたら活動報告でお知らせします。
ブックマークしていただけると、第三部の開幕をお知らせできます。




