第二十五話「南蛮の銭には名がない」
黒木を発った船は、九州の南をぐるりと回って西へ向かった。
北回りなら二日は縮む。だが北の海は田中の水軍が張る海——関門から福岡の沖だ。梅雨明けの空はどこまでも高く、追い風が帆を鳴らしていた。
行き先は山口家、二国を束ねる南蛮貿易の海洋国家である。前の人生での佐賀と長崎だ。
先触れは黒木を出るときに走らせてある。中村の義親公の花押と盟の写しを添えて——琉球比嘉家の名代が山口家当主に目通りを願いたい、と。名代が挨拶もなしに湊へ乗りつけるのは、判を持たずに国境を越えるのと同じくらい行儀が悪い。
舳先では寧々が海に向かって短い祝詞を上げていた。海の道を守る三柱の女神への手向けだという。祝の家系の姫は船旅ひとつでも仕事が多い。
「ねえ、あれ」
真鶴が水平線を指した。焼け焦げた板が波間に浮かんで流れていく。船板だ。それも一枚じゃない。
「……この先の海、、荒れてるのかのう」
玄水が呟いた。海賊か、時化か。焦げた板は、そのどちらともみえない。
◇
長崎の湊は色が多かった。
まず船が違う。帆柱が三本もある南蛮船が沖に二隻、腹の膨れた唐船が桟橋に並ぶ。石畳の坂には見たこともない色の外套が行き交い、香辛料と煙草と潮の匂いが混ざり合って、風まで異国の味がした。
琉球も交易の島だがここは桁が違う。世界の玄関が九州の西に開いている。
「反魂丹、反魂丹はいらんかね〜。越中富山の反魂丹、名力の回復にようく効くよ〜」
雑踏の中を大きな薬箱を背負った行商人が売り歩いていった。越中……富山か、ずいぶん遠くから来たもんだ。あの薬箱ひとつで戦国の国境を越えて回るんだから、商人ってのは大したものである。
昼時だったので湊の酒場で腹ごしらえをすることにした。
酒場からして異国だった。床几じゃなく卓と椅子。筒袖の水夫に交じって、南蛮のシャツを着た男や、髭の赤い異人まで同じ卓で飲んでいる。運ばれてきたのは鯨の炒り焼きと、山盛りの小魚と米の飯——の横に、ふわふわした小麦色のかたまり。
「ぱん、というやつです」
寧々が帳面片手に教えてくれた。俺は知ってる。前世で毎朝食ってた。だがこの世界で麦の焼き物に再会するとは思わなかったので、うっかり拝みそうになった。真鶴は鯨に夢中で、玄水は葡萄酒を一口含んで「……ぶどうの、酒か?」と首を捻っている。
んで、酒場というのは、どこの国でも噂の湊だ。
「——また出たとよ。五島の沖」
「これで四隻目やろう。時化でも海賊でもなか、船だけが沈んで荷が浮かんどる」
「荷を獲らん海賊がおるか。ありゃあ呪いばい」
隣の卓の水夫たちが声を落として言い合っている。荷を獲らない、船だけを沈める何か。……海賊の仕事じゃないな、それは。誰かの戦の仕事だ。
と、考え込んでいるところへ表の戸が乱暴に開いた。
「おお——おお! いた! いたいた! 噂の重名の魔人どのー!」
酒場が、静まり返った。
匙を持つ手が止まり椀が置かれ、五十人ぶんの首がいっせいにこちらを向く、「魔人」。今この湊でいちばん出してほしくない単語である。
「……魔人?」
「あの、八尺の?」
「琉球の、名喰いの——」
ざわりと潮が引くように人が下がった。俺の卓の周りに丸く空きができる。奥の卓で子どもが泣き出し、母親が慌てて口を塞いだ。かと思えば桶を抱えた老婆が両手を合わせて拝み始める。斬られるのか拝まれるのかどっちかにしてほしい。
「……ちっこかね」
「思ったより、ちっこかー」
安堵と落胆の混ざった声が、あちこちから漏れた。うるさい悪かったな、五尺と少しで。
戸口に立っていたのはビロードの南蛮外套を着た男だった。
歳は三十代半ば。襟に白いレース、腰に天秤と算盤、指には異国の銀貨を潰した指輪。そして長崎の夏にその外套はどう考えても暑い。現に汗だくだ。
男は場の空気などまるで意に介さず大股で寄ってきて、両腕を広げた。
「ようこそ長崎へ! 山口家当主、山口万里——いや、ここはひとつ、ドン・バルトロメオ山口とお呼びいただこうか!」
……当主。
周りの水夫たちが今度は別の意味でざわついた。当主が湊の酒場に自分の足で来る、というのはこの国でも異例らしい。
と、その後ろからもう一人が転がり込んできた。
痩せた若い男である。まだ二十歳そこそこに見えるのに、矢立と帳面を胸に抱えた恰好だけが妙に所帯じみていて、目の下の隈が濃い。
「……万里様、商館でお待ちいただく手筈にございました」
「待てんかった」
「今月、三度目にございます」
男は帳面を開いて、赤い筆で何かを書き込んだ。当主のほうは、まるで聞いていない。
「……どん?」
「南蛮の商人にもらった、ありがたい異国の名よ。響きがいいだろう」
「あんた、名前を大事にするこの世で、自分から名前を増やすんじゃない」
「がっはっは! 名を四つも重ねた御仁に言われたくないなあ!」
……言い返せなかった。この男、初手から食えない。
「ひとつ聞かせてくれ、なんで俺だとわかった」
名乗る前に当てられたのが、どうにも気持ち悪い。万里は懐から折り畳んだ紙を出して、卓に広げた、人相書きだった。それも三枚。
「あんたの人相書きを、この一月で三枚買った。一枚は八尺の鬼、一枚は角の生えた化生。——三枚目だけ、肩に石の獅子を乗せた若い男と描いてあってな。銭を出した甲斐があったというものだ」
岩丸が卓の上で「がう」と鳴いた。この相棒、目立ちすぎである。
「先触れは受け取っておられたのか」
「三日前にな、中村の花押つきで黒木の盟の写しまで添えて。おかげでこちらも支度ができた」
万里は椅子を引き寄せて、どっかりと腰を下ろした。当主が、湊の安酒場の椅子にである。
「本来なら商館で待つのが礼儀だ。だが待ちきれなくてな——うちは今、少々きな臭い。田中を退けた御仁が来ると聞けば、湊まで走りもする」
声の調子は変わらないまま、目の奥だけが笑っていなかった。
(歓迎じゃない。……こっちが客だと思ってたが、向こうは俺が薬になるかもと思って呼びに来たな)
◇
城——というより商館だった。石造りの倉が並ぶ屋敷の広間で、俺たちは歓待を受けた。
出てきたのは、黄金色の四角い菓子である。
「カステーラ、と申してな。南蛮渡りの卵と砂糖の菓子よ。さ、遠慮なく」
ひと口でわかった。これは、駄目なやつだ。ふわりと甘くて、底がじゃりっと香ばしい。前世の記憶が「懐かしい」と泣くのと、今世の舌が「なんだこれは」と叫ぶのが同時に来る。真鶴は三切れ目に手を伸ばし、寧々は一切れを大事そうに三口で食べ、玄水は「卵をこう使うか」と唸っている。
岩丸だけが、卓の上で拗ねていた。石なので食えないのだろう。
……と、思っていた。
真鶴が面白半分に、カステラの欠片を岩丸の鼻先へ置いた。岩丸はそれをふんふんと嗅いで、口を開けて——食った。
もぐ、もぐ、と音まで立てて、飲み込んだ。
卓の全員が固まった。
「食った」
「食いましたね」
「食ったわね」
俺は岩丸を持ち上げて、ひっくり返して耳の横で振ってみた。石である。どこからどう見ても石で、腹があるようには見えないし、音もしない。カステラはどこへ消えた。
「……玄水。これ、どういう理屈だ」
「儂に聞くな」
帳面の男が匙を投げた。初めて見た。
ちなみに岩丸は二切れ目を要求してきた。よく見ると鬣の彫りがさっきより艶々している。うまい物を食うと艶が出るらしい。
(理屈はさっぱりだが、うまい飯で元気になるのは俺と同じか)
……まあいい。相棒ってのはそういうもんだ。
「ほほう、噂の石獅子。……いくらだ? 百貫出すぞ」
「非売品だ」
「がう!」
「二百貫」
「値を上げるな」
背後で、赤い筆が走る音がした。
「万里様。石の獅子に二百貫は樽船一艘の値にございます」
「夢がないぞ、惣次」
「夢は帳面に載りませぬので。……後で締めます」
万里は残念そうに算盤を仕舞った。この男、万物に値を付けないと気が済まないらしい。そして帳面の男が、もう一人ここにもいた。
「古賀惣次と申します。この家の帳面を預かっております」
名乗る声は当主の半分の音量で、二倍しっかりしていた。歳は俺と十も違わないだろうに、話し方だけが四十を過ぎている。
そして俺を見る目は歓迎でも警戒でもなかった。値の付かない客を見る目つきだった。
◇
「して——本題の前に、そちらの荷を見せてもらおうか」
宴の卓が片付くと万里の目つきが変わった。陽気なホラ吹きの皮の下から、商人の目が出てくる。俺は懐から兄にもらった袋を出した。
佐藤銭、鈴木銭、田中銭、山本銭。四強の刻銭が卓の上に並ぶ。
「ほう、良い銭を持っておられる」
「出航の時、兄が持たせてくれた。……玄水、せっかくだ、頼めるか」
帳面の男が、頷いて銭を一枚ずつ取り上げた。
「まず田中銭、縁が厚く判の字が深い。役人が数えやすいよう大きさが寸分違わず揃えてある。——判の国の銭じゃ。西日本で使うならこれがいちばん硬い」
「出航の時、兄も同じことを言ってた。いちばん硬いのは田中銭だって」
「硬さは名力の強さだけでは決まらんよ。どこで使えるかで決まる。田中銭は西日本ぜんぶの共通銭ゆえの」
次の一枚は、ひときわ古びていた。
「佐藤銭。見よ、この磨り減りよう。北の銭は代替わりしても鋳直さん、先祖の銭をそのまま使い続けるのが佐藤の流儀での。銭まで家系図の一部というわけじゃ」
三枚目は逆に真新しい。
「鈴木銭。縁がぴかぴかじゃろう、関東の銭は流れが速い。人が多く商いも多い、銭が休む暇なく回る。——それと、この刻みを見なされ」
銭の裏に、稲穂の紋が小さく打たれていた。
「鈴木の『鈴』は、もとは稲穂を束ねた祭具と聞く。帝国は銭にまで、その由来を刻んでおるのよ」
最後の一枚は、縁が波形に刻まれていた。
「山本銭。波縁は削り盗り防止での。海を渡る銭は削られながら旅をするゆえ——と、ここまでが儂の知る四強じゃ、ただし断っておくが」
玄水は銭を置いて、少し笑った。
「儂の頭の帳面は、去年の夏で止まっておる。捕虜になった男の知識じゃ。相場は、ここの御当主に聞きなされ」
「ほう、良い目利きだ」
万里が身を乗り出した。
「元田中の井上玄水どのとお見受けする。その帳面、うちで買いたいくらいだが——では当代の相場をひとつ、俺から」
万里は懐から、じゃらりと銭を掴み出して卓に撒いた。
銀色の銭だった。大きさも形も不揃いで、縁は打ちっぱなし。表には見たことのない紋章と、読めない異国の文字。
俺は一枚つまんで、裏を返して——手が、止まった。
「……名前が、ない」
「気づいたか」
この世界の銭には、鋳った国の姓が刻まれる。田中銭、佐藤銭、鈴木銭、山本銭。銭の値打ちは名力で動き、名前が銭の身元保証だ。生まれてこのかた、名前のない銭なんて見たことがない。
なのに、この銀貨には——誰の名前も、刻まれていない。
「南蛮の銭よ。イスパニアだかポルトガルだか、海の向こうの、そのまた向こうの銀でな。名前の代わりに刻まれてるのは、十字の紋と、あちらの王様の顔だ」
(名前が信用の全てのこの世界に、名無しの銭が流れ込んでる……)
「不気味だろう? だがな、魔人どの。この名無しの銭が——今、この湊でいちばん硬い」
万里は銀貨を指で弾いて、鳴らした。澄んだ聞いたことのない音がした。
「名がなくても、銀は銀。溶かせば重さだけが物を言う。名力も由来も、何もいらん。……魔人どのが集めてる『名前』の外側に、名前なしで回る天下があるのさ。海の向こうにな」
名前の外側。
背中がすうっと冷えた。四十七の名を数えて回る俺の旅の、その地図の外から来た銀が、いま手のひらの上で鈍く光っている。
「で——」
万里は算盤を、ぱちりと一つ弾いた。
「同盟の話だったな、魔人どの。あんたの申し出、値付けの前に見てもらいたいものがある」
商人の目が、初めて笑っていなかった。
「うちの海だ。……ここ一月で、船が四隻沈んだ。時化でも、海賊でもない。——沈めた奴の正体に、値が付かん」
酒場の水夫たちの噂と、同じ数字だった。荷を獲らずに、船だけを沈める何か。
湊の向こうで、南蛮船の帆柱が夕日に黒く立っていた。焼け焦げた船板が、波間に浮かんでいたのを思い出す。
次の戦場は、海らしい。
(第二十五話・了)
次回、明日20時10分に更新します。




