第二十四話「由来で斬る」
「琉球の芋侍どの、と申し上げましたが」
使者は扇で口元を隠して、くつくつと笑った。
「これは失敬。正しくは——空紋の三男どの、でございましたな。七つの儀で神に見放され、こたびは物見遊山で本土まで。王家も、余った子の使い道にはお困りのようで」
背後で真鶴の気配が膨れ上がった。片手を後ろに回して、制する。落ち着け姉弟子様。挑発は買った側が払わされる。受けの型は、口喧嘩でも同じだ。
「聞けば、花押入りの白紙をお持ちだそうで」
まだ続けるらしい。よく回る扇だ。
「子どもの使いに白紙を持たせるとは、琉球には人がおらぬと見える。ああ、それとも——白紙のほうがお似合いと、父君も思われたか。空紋どのには」
空紋には、白紙。
我ながら意外なことに、腹は立たなかった。七年間、城中で言われ続けた悪口の、劣化版でしかなかったからだ。悪口にも由来と本場がある。琉球の本場物を浴びて育った俺に、都仕込みの上澄みは効かない。
「言い終わったか?」
「……なに?」
「あんたの口上が終わったなら、姫の返答の時間だ。俺への品評は、あとで暇な時に聞く」
使者の頬が、初めてぴくりと動いた。
◇
使者は気を取り直すように咳払いをして、箱の蓋を開けた。大人の拳ほどの印判が、黒漆の中に鎮座している。
「王国の御判にございます。これを押せば、黒木の民は田中の民。飢えず、攻められず、末代まで安泰。……押さねば、五百が千になり、千が万になる。それだけのこと」
使者が判を掲げた。
瞬間、広間の空気が、重くなった。
名力だ。判そのものに田中の名力が練り込まれている。押し潰すような圧が、真っ直ぐ千歩に向かう。不知火が縮んだ。姫の白い指が、膝の上でわずかに強張って——
「がう!」
岩丸が、鳴いた。
キィン、と高い音が広間に走った。判の圧が、見えない壁に当たって砕け散ったのだ。使者がよろめいて、判を取り落としそうになる。岩丸は俺の横で四足でしっかりと立って、鬣の溝を金色に光らせていた。
……そういうことか。
水も木剣も素通りさせたわけだ。お前が弾くのは、力の強さじゃない。悪意で練った名力だけか。
「な……なんですか、その石ころは!」
「石ころじゃない。魔除けだ。あんたの判が魔のたぐいだって、たった今こいつが証明した」
俺は一歩前に出た。
「なあ使者殿。あんた、田中の判で人を脅すのが仕事らしいが——『田中』って名字が、どうやって生まれたか知ってて使ってるのか」
「……何を」
「田の中に家を建てた者の名だ。水を引いて、泥に膝まで浸かって、隣の田が涸れた年は自分の田の水を回した。そうやって生きた者が、この国でいちばん多かった。だから田中は、西国でいちばん多い名字になった。——威張るための名前じゃない。生かすための名前なんだよ、それは」
使者の顔から、嘲りが剥がれていく。
「その名前を判に彫って、他人の名前を潰して回る。……あんたの判が軽いのは、彫られた田中が泣いてるからだ」
「——だ、黙れ! 者ども!」
使者の声が、裏返った。
「その芋侍の口を、止めい! 構わん、斬れ!」
武者が五人、抜刀した。
……広間で抜くか、普通。しかも五人。
先頭の斬り下ろしが来る。速いが、真っ直ぐすぎる。半歩で外して、伸び切った腕の肘を外から押さえ、体を割り込ませて投げた。板の間に背中から落ちる音。刀が手を離れて滑っていく。
二人目は横薙ぎだった。下がらない。下がれば三人目に回り込まれる。踏み込んで懐に入り、柄を握る両手ごと手首を巻く。——攻めの冴えは才で決まる。だが受けは、振った回数だけ上手くなる。師匠、あんたの型は本土でもよく効くよ。
膝の裏を刈って、二人目が転がった。
三人目の足元で、水が爆ぜた。玄水だ。濡れた床板で武者の足が滑り、たたらを踏んだところへ、白い影。真鶴の長刀の柄が武者の刀を巻き上げて、天井の梁に突き立てた。返す柄で四人目の胴を打つ。二人まとめて、三拍もかかっていない。
「広間では、抜かない」
姉弟子様が、にっこり笑った。
五人目は、いた。いたのだが、動けなかった。岩丸が転がっていって足の甲に乗り、岩になったからである。武者は悲鳴を上げてその場に座り込んだ。あとで謝っておこう。主に足の甲に。
そして——甲斐の弓が、鳴った。
番えた矢は放たれていない。弦音だけだ。だが残りの武者五人は、その一音で凍りついた。崖の国の弓は、外さない。誰もがそれを知っている顔だった。
「それ以上は」
甲斐が静かに言った。
「黒木への戦と、みなし申す」
◇
使者はといえば——青白い火に、囲まれていた。
不知火が輪になって、袖の先で揺れている。燃やさない。ただ、そこにいる。姫は座ったまま、静かに使者を見ていた。
「広間で刃を抜いたのは、田中の側です」
千歩の声は、どこまでも平坦だった。
「三百年、黒木の広間で刃を抜いた客はいませんでした。あなたが初めてです。——誇りなさい。歴史に残ります」
地味に、一番怖い台詞だった。
使者が真っ青な顔で武者たちを下がらせたのを見届けて、千歩は立ち上がった。
(条目の三——『田中が攻めてくるその日まで』。広間で刃が抜かれた今日が、その日だ)
「お聞きなさい。黒木は一昨日、琉球比嘉家と盟を結びました。比嘉家は中村家と結んでいます。——黒木は黒木のまま、二つの家と共に立ちます。判は、永遠に押しません」
「ば……馬鹿な。芋侍と、山猿の小国が、束になったところで……!」
往生際の悪い男だった。だから最後に、ひとつだけ聞いておくことにした。
「そういえば使者殿。あんた、五度もこの国に通って——一度も名乗ってないな」
「な……」
「名前を扱う王国の使いが、名無しで仕事してるのか。名乗れよ。俺は名字マニアでな、あんたの名前も、ちゃんと聞いてやる」
使者の口が、開いて、閉じた。名乗れば俺に何か言われる。名乗らなければ、この場で名無しになる。どちらも選べずに、扇を握る手だけが震えている。
「……く、蔵田……」
絞り出した声は、入ってきた時の半分の大きさもなかった。
「蔵田。——蔵の田を預かる、いい名字だ。米蔵の勘定を任された、几帳面な家の名だよ。あんたの名前は、ちゃんと仕事をしてる」
俺は、心の底から誉めた。誉めてから、言った。
「名前は仕事をしてるのに、中身が仕事をしてないな」
広間の隅で、武者の誰かが噴き出した。味方じゃない。田中の武者がだ。
蔵田は耳まで赤くなり、判の箱を抱えて、転がるように広間を出ていった。敷居につまずいて、箱を落として、拾って、もう一度つまずいた。三百年、客人が転ばなかった敷居かもしれない。歴史がまたひとつ増えた。
◇
その日の夕、山頂の鉾の前で、盟の儀が執り行われた。
寧々の誓詞が、夕焼けの雲海に響く。祝の家系の声が古い言葉で条目を読み上げ、日高翁の鈴がしゃらりと鳴った。花押の隣に、千歩が黒木の判を——田中に三度突っぱねたあの判を、押す。続いて甲斐が進み出て、深々と誓った。
「黒木の武士団、末代までこの盟を守り申す」
ちなみに、である。俺はここで、気づかなくていいことに気づいてしまった。
千歩の不知火は、寧々の荘厳な誓詞にもぴくりとも動かなかったのに——甲斐が誓ったその一言にだけ、ぽっ、と橙に色づいたのだ。
姫の表情は、今日も動かない。火だけが、正直に動く。
……見えてしまったものは、仕方ない。目を上げると日高翁と視線が合った。翁はにんまり笑って、口の形だけで言った。祝詞は、いつでも。
——神官長、あんたも見えてるのか。俺は何も見なかったことにして、鉾に向き直った。
そして、儀が終わると。
「比嘉琉太どの。……いえ」
千歩は言い直して、ほんのわずか、口の端を緩めた。
「琉太どの。当主が代々誓いを立てるこの場所で、黒木千歩の名において、あなたに黒木の名乗りを許します。——わたくしたちの名を、預けます」
差し出された白い手を、握り返す。
その瞬間、腕の空白の枠のひとつが、熱を持った。
浮かび上がったのは、一本の木の紋だった。飾りのない、皮のままの、真っ直ぐな木。井上の井桁、尚の字、火嘉の焔の隣に、四つ目の紋が静かに灯る。
井上。尚。火嘉。——黒木。
「預かった。……絶やさせない。この名前も、あんたの国も」
「ええ。誉められた名は、強いのでしょう?」
千歩の後ろで不知火が、まるで笑うみたいにひとつ跳ねた。表情は今日も動かない。だが、もういい。この国では火を見ればいいと、俺はもう知っている。
肩の上で岩丸が「がう」と鳴き、雲海の向こうに、次の海が光っていた。
南蛮の銭が行き交う海洋国家——山口。九州めぐりの、次の目的地だ。
(第二十四話・了)
四つ目の名は、黒木でした。
物語は九州編の後半へ入ります。次回、明日20時10分に更新。第二部・九州動乱編は9月3日(木)に完結予定です。
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