第二十三話「盟は白紙がいちばん重い」
その夜、書庫が談判の場になった。
黒木側は千歩、甲斐、日高翁。こちらは俺と寧々、玄水。板壁の棚に古い綴りがぎっしり並んで、囲炉裏の火が背表紙を舐めるように照らしている。書庫を談判の場に選んだのは千歩だという。——三百年ぶんの記録の前で、盟を語れ。そういうことらしい。
卓の真ん中に、俺は一枚の書を広げた。琉球から携えてきた盟書——まだ白紙で、隅に父王の花押だけが入っている。
「あらためて名乗っておく。琉球国王・比嘉盛龍が名代、比嘉琉太。この紙に書き込んだ条目は、そのまま琉球の約定になる」
軽く聞こえないように、ゆっくり言った。三男坊の物見遊山じゃ、国と国の盟は結べない。花押入りの白紙を荷に積むということは、条目のすべてを俺に委ねるということだ。……食えない親父だと、あらためて思う。
「では、条目を」
玄水が帳面を開いた、その時だった。
「その前に。——それがしは、この盟に反対でござる」
甲斐だった。
崖道で予告された通りの言葉が、予告された通りの静けさで、卓に置かれた。場が固まったのは黒木の側だ。千歩だけが動かない。袖の先の不知火も、揺れない。姫は知っていて、この場に上げたのだ。反対ごと聞くつもりで。
甲斐は千歩に一礼し、それから真っ直ぐ俺を見た。
「黒木は三百年、隠れて守り抜いた国にござる。盟を結び、湊に船が通えば、道ができ申す。道は、味方だけが歩くものではない。……琉球どのの誠は疑わん。だが盟は、黒木の『隠れ』を殺す」
三百年の武士団長の、これ以上ない正論だった。
「甲斐殿の言う通りだ」
だから俺は、頷くところから始めた。
「隠れは黒木の鎧だ。脱がせる気はない。条目を先に言う。——一つ、琉球と中村の船は黒木の湊に入らない。繋ぎは沖で小舟を替える。二つ、黒木の兵は黒木の外に出さない。援軍の義務はこちらが負い、黒木は負わない。三つ、この盟は、田中が攻めてくるその日まで公にしない」
「……それでは、琉球どのに得がなさすぎ申す」
「あるさ。黒木の名乗りと——山の道だ」
俺は卓の上に九州の絵図を広げた。
「黒木の猟師は、山づたいに福岡の裏まで歩けるんだろう。船も街道も使わずに。田中の物見が海と道を見張っている間、山を歩ける味方がいる。これ以上の得はないよ」
甲斐はしばらく黙り、それから深く息を吐いた。
「……湊を開けと、言われると思うており申した」
「開けたら黒木じゃなくなる。俺は黒木と結びたいんであって、黒木だった何かと結びたいわけじゃない」
「なれど——まだ、腑に落ち申さぬ」
甲斐の目は、絵図から動かなかった。
「琉球は海の彼方にござる。黒木が落ちたとて、琉球の痛みは知れたもの。名乗りと山道ごときのために、援軍の義務まで負うと仰る。……なにゆえ、そこまで」
「痛むんだよ。時間差でな」
俺は絵図の九州を、指でぐるりと囲った。
「田中は去年、琉球に来て、負けて帰った。なら次はどうすると思う? 九州を全部固めてから、もう一度来る。福岡と熊本だけじゃ足りない。黒木も山口も中村も呑み込んで、九州まるごと踏み台にしてからだ。——黒木が立ってる限り、田中は九州を『取り切れてない』。あんたたちが三百年守ったこの崖道は、琉球の盾でもあるんだ」
「……情けではなく、算盤でござるか」
「算盤だ。それと」
少しだけ、本音を足すことにした。
「消えかけてる名前を見過ごすのが、性に合わない。尚も、井上も、黒木も。……理由なんて、本当はそれで全部なんだけどな」
甲斐はふっと息だけで笑い、千歩に向き直って頭を下げた。
「姫様。異存、なくなり申した」
そのとき初めて、千歩が口を開いた。
「甲斐」
「は」
「よく、反対してくれました」
それだけだった。武士団長は深く低頭し、袖の先の不知火が、ぽつりとひとつ、橙に近い色で揺れた。……見なかったことにしておく。
あとは細目だった。玄水が数字を詰めていく。繋ぎの小舟は月に二度、合図の火は三つ、米は豊作の年にだけ回す、山の道の案内は甲斐の家が持つ——帳面の男の筆は速い。その脇で寧々は、日高翁と額を突き合わせていた。
「盟は神前で誓うべきです。誓詞は、わたくしが書きます」
「ほう、祝の家の誓詞を。姫様、これは末代ものの盟にございますぞ」
談判の合間、玄水が黒木の日誌の端に目を留めた。『北では寄合三年、いまだ結ばれずと云う』。
「北の連中は、数え終わる前に雪が来るのう」
帳面の男はそう呟いて、また数字に戻った。
白紙だった盟書が、夜半には条目で埋まった。花押の隣に判を押せば、盟は成る。あとは神前の儀を待つだけ——のはずだった。
◇
二日目は、支度の日になった。
寧々は朝から書庫に籠もって誓詞の下書きを重ね、日高翁が古式の言い回しをひとつずつ検分していく。祝の家系の姫と神官長は、初対面のはずなのに、もう十年来の同業みたいな顔で言葉を削り合っていた。
「この一句、東翁の朱書きでは読みが違うのです」
「ほほう。都の式より古いやもしれませぬな、それは」
楽しそうで何よりである。俺はといえば、甲斐に山の道の絵図を見せてもらい、玄水と繋ぎの小舟の段取りを詰め、岩丸の鬣を磨いて一日が終わった。
嵐の前の、静かないい日だった。
◇
三日目の昼。約束通り、使者は戻ってきた。
今度はひとりじゃない。供の武者が十人。広間に入るなり、使者は報せを一枚、これ見よがしに広げた。
「田中の兵五百、国境の湊に着到しております」
そして書役が捧げ持つ黒漆の箱が、ゴトリと音を立てて床に据えられた。中身は聞くまでもない。判だ。
「さて、姫君。三日、考える時はございましたな。——おや」
使者の目がこちらに流れて、実に嫌な形に細められた。
「琉球の芋侍どのも、まだおられましたか」
……言ってくれるじゃないか。
(第二十三話・了)
次回、明日20時10分に更新します。




