第二十話「秘境の国は火を隠す」
中村を発って三日目の朝。霧の中を、船が進んでいる。
黒木国。九州の東に、山に隠れて在る秘境の小国。——俺にとっては、三つ目の国だ。
琉球、中村、そして黒木。前の人生での宮崎だ。
(そういえば、俺って前世であと二県で全都道府県制覇だったんだよな)
……別に、天下が欲しいわけじゃない。
俺が見たいのは、四十七の国だ。名字の由来をこの目で確かめて、その土地の飯を食って、その国の書庫に籠もる。それだけでいい。前世でやり残した宿題を、今度こそ最後まで解きたい。ただそれだけのために、俺はこの海を渡っている。
なのに、行く先々で名前が消えかけている。
尚は残り数人。黒木は三度、改姓の判を迫られた。見て回りたい名前が、俺が着く前に無くなっていく。
だから守る。それだけの話だ。天下だの何だのは、その後でいい。
「琉太、何ぼんやりしてんの。着いたわよ」
姉弟子様の声で、我に返った。
◇
黒木の湊は、湊と呼ぶのも憚られるほど小さかった。
石を積んだだけの船着き場がひとつ。舫い綱を掛ける杭が数本。人家は見えず、代わりに——霧だ。
海から立ち上る霧が、そのまま陸へ流れ込んでいる。谷が白く埋まって、その向こうに切り立った岩壁が幾重にも重なっているのが辛うじて見えた。石の柱を何百本も束ねて立てたような、垂直の崖。上のほうは霧に消えて、どこまで続いているのかわからない。
どこかで、滝の音がしている。ひとつじゃない。三つか四つ。姿は見えないのに、音だけが霧の中を渡ってくる。
琉球の、光の底まで透ける海とも。中村の、白い断崖と照葉樹の緑とも違う。
ここは——隠れている国だ。景色そのものが、そう言っている。
「湿気がすごいわね。髪が言うこときかない」
「梅雨だからな。にしても、この国たぶん一年の半分は霧の底だぞ」
真鶴が髪をかき上げ、寧々は逆に霧の匂いを吸い込んで目を細めていた。
「……いい匂いです。水と、木と土の」
「わかるのう。うまい水がある土地の匂いだ」
玄水が即答した。利き水の男は霧まで利くらしい。
◇
船を降りて十歩も歩かないうちに、霧の中から声が飛んできた。
「そこまで。名を名乗れ」
低い声だった。姿は見えない。
真鶴の手が長刀に伸びる前に、俺は片手を上げて止めた。敵意の声じゃない。あれは怖がっている者の声だ。
「琉球比嘉国、比嘉琉太。中村国の紹介状を持っている。黒木の当主に会いに来た」
しばらく、返事がなかった。
やがて霧が薄れ、崖の中腹——そんな所に道があるとは思えない岩肌に、人が立っているのが見えた。若い男だ。弓を持っているが、番えてはいない。
「……重名の魔人が、なぜこんな国に」
「その呼び名、本土じゃそんなに広まってるのか」
「三尺の鬼が来ると聞いた」
「縮んでるじゃないか。前は八尺だったのに」
男は笑わなかった。代わりに値踏みするような目でこちらを眺めて、それから短く名乗った。
「甲斐 峻。黒木の兵をまとめている。——千火様のもとへ、案内する」
——甲斐。
名字マニアの血が、静かに騒いだ。
「いい名字だな。『甲斐』ってのは、もともと峡——山と山に挟まれた谷って意味だ。この国そのものの名前じゃないか」
弓を持つ手が一瞬止まった。
◇
案内された道は、道と呼べる代物ではなかった。
崖に沿って刻まれた幅二尺ほどの道。片側は岩壁、片側は白い霧の底。落ちたらどこまで行くのか、霧のおかげでわからない。わからないほうがありがたい。
「これ、軍勢は通れないな」
「通れませぬ」と甲斐。「ゆえに、我が国は三百年、誰にも攻められておりませぬ」
「飯はどうしてる。この崖で、田なんか作れるのか」
「山の上の湧きから、水路が三本走っております。谷にへばりつくように、棚田が上から下まで」
なるほど。さっきから聞こえている滝の音は、あれは水路の落ち水か。水が上から下へ一本道——この国は、崖と水で出来ている。
「……なのに今、瀬戸際なんだよな」
甲斐の背中が、答えなかった。
◇
黒木の城は、城というより岩に埋まった砦だった。
崖の窪みをそのまま使い、前面だけを木と石で塞いである。屋根に赤瓦はない。杉の皮と苔。琉球の朱塗りの正殿を見慣れた目には、ずいぶん質素に映る。だが、この地形にこの構えは堅い。攻める側の目で見れば、それがよくわかった。
通されたのは、板張りの広間だった。
そして——先客がいた。
緋色ではない。だが見覚えのある意匠の陣羽織。畳んだ扇を膝に置き、悠然と座っている中年の男。その背後に、書役らしき者が二人。
田中の使者だ。
(軍じゃなく、まだ使者か。三度断られたら四度目は軍——寧々の言った作法の、その外にいる使者だ。それだけ田中は、兵じゃなく判でこの国を取りたいらしい。——なんにせよ、間に合った、ってことだ)
「四度目でございます、千火様」
男は俺たちが入ってきたことに気づいていながら、目もくれずに続けた。
「判をひとつ押していただければ、それで済む話。黒木の民は田中の民となり、飢えることもなく、攻められることもない。——三度もお断りになる理由が、この使者にはわかりかねる」
そして、その向かいに。
黒木の姫が、座っていた。
◇
背筋が、まっすぐだった。
夜のように黒い髪をひとつも結わずに背へ流し、黒地の衣の裾には、炎の形の模様が緋色で染め抜かれている。歳は俺より二つ三つ上だろうか。
だが何より目を引いたのは——表情がまるで動かないことだった。
怒ってもいない。怯えてもいない。使者の言葉を、風の音でも聞くように受け流している。
その周囲に青白い火がいくつか浮いていた。
燃えているのに、熱がない。揺れているのに、風に流されない。夜の海に立つという怪火——不知火。話に聞いた通りのものが、姫の周りを静かに漂っている。
「理由なら、三度とも申し上げました」
姫が初めて口を開いた。低くて、静かで、よく通る声だった。
「黒木は、黒木でございます。それ以上でも以下でもございません」
「千火様。それが理由になりませぬな」
「あなたにならないだけです」
使者の扇がぱちりと鳴った。
その音を潮に、姫の目が——初めてこちらを向いた。
目が合った瞬間、周囲の不知火がふっと大きく揺れた。
感情が動かない人だと思った。訂正する。顔が動かないだけで、火のほうは正直なんだ。
「……琉球の、比嘉の若君」
姫は俺の名を知っていた。
「名を重ねる魔人と聞いております。四十七の名を集めておいでとか。——そちらの使者どのが、道々あなたの話ばかりなさるので」
「集めてるっていうか、まあ、成り行きで」
「では、お聞かせください」
不知火がまた揺れた。今度は、俺のほうへ一歩近づくように。
「あなたも——わたくしの名を、欲しがりに来たのですか」
広間が静まり返った。
田中の使者が面白そうにこちらを見ている。
……なるほどな。この姫にしてみれば、俺も同じ穴の狢ってわけだ。名を寄越せと迫る使者と、名を集めて回る魔人。どっちも「黒木」を欲しがっている、と。
だから俺は腰を下ろして、まっすぐ答えることにした。
「いや。——誉めに来た」
(第二十話・了)
次回、明日20時10分に更新します。




