第十九話「師匠の名は」
問題は、そのあとだった。
歓声が引き、人がまばらになった広場の隅。真鶴が仁王立ちしていた。木剣を持ったままだ。目が完全に据わっている。
「……今の、最後の崩し」
「あー、うん」
「肘で殺してから、重心の下に潜るやつ。あれ、父上の型よね」
言い逃れは三秒だけ考えた。三秒で諦めた。この幼馴染に小細工が通じたことは、十五年間で一度もない。
「しかも、癖まで同じ。手首を返す前に肘で殺す——それ、父上の癖なの。あたしが物心ついた頃から、何万回も見てきた癖。教わった型は嘘をつけても、癖は嘘をつけない」
……さすがは娘、と言うべきか。
「ふぅ、、八年前からだ。夜明け前の裏庭で、おまえの親父さんに教わってた」
真鶴の目がゆっくり見開かれていく。
「命名の儀で紋が出なかったあと、独りで木剣を振ってたら、ある朝ふらっと現れてさ。『紋は神が選ぶ。だが武は、人が選べる』——それから毎朝だ。誰にも内緒で。重臣家の当主が空紋に肩入れしてると知れたら、城が割れるからな」
「お父さんらしい、、、」
真鶴の声が震えていた。
◇
日が傾くまで、真鶴は広場の石段に座り込んでいた。
「あたし、あんたが日なたで独りで変な動きしてるのずっと笑ってた。『また変な動きしてる』って。……独りじゃなかったんだ」
「独りだったよ、日中は。夜明け前だけだ、二人だったのは」
「そういうことじゃない!」
叱られた。そういうことじゃないらしい。
「あんたが苦しんでたの、なんっにも気づかなかった。——幼馴染失格でしょ、こんなの」
膝を抱える姫武者の隣に、俺は少し考えてから座った。
「あの人は俺の紋のない七年を、誰より本気で埋めてくれた人だ。黙ってたのは俺を守るためで、お前に嘘をつくためじゃない」
「……わかってる。わかってるけど、悔しいの」
膝を抱えた背中が小さく見えた。この幼馴染がこんなふうに縮こまるのを、俺は初めて見た気がする。
だから、言うことにした。
「なあ。ひとつ訂正させてくれ」
「……なによ」
「さっき、日中は独りだったって言ったろ。あれ、嘘だ」
真鶴が顔を上げた。目のふちが、赤い。
「あんた、毎日書庫に乗り込んできただろ。飯食えって怒鳴って、外に引っ張り出して、変な動きしてるって笑って。——八年、一日も欠かさずだ」
「そ、そんなの、ただの、、、」
「ただの、なんだよ」
「……ただの、おせっかいでしょ」
「おせっかいで、人は独りじゃなくなるんだよ」
真鶴が言葉に詰まった。
「夜明け前は親父さんが、昼間はあんたが。俺の八年は、金城の親子に二人がかりで面倒を見られてたんだ。気づかなかったんじゃない。逆だよ。あんたはずっと、俺の隣にいた」
空紋の七年を思い出す。紋が出なかった日から、城の連中の目が変わった。哀れむ目、値踏みする目、いないものとして通り過ぎる目。その中で一人だけ、俺を「琉太」と呼び続けて、遠慮なく引っ張り回した奴がいる。
「だから、失格なんて言うなよ。あんたがいなかったら、俺は本当に独りだった」
しばらく、返事がなかった。
やがて真鶴は、膝に顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。
「……ずるい」
「なにが」
「そういうこと、真顔で言うところが」
顔を上げないまま、腕でぐいと目元をこすっている。見なかったことにしてやった。
勢いよく顔を上げたときには、もう目元は乾いていた。出た。切り替えの早さは琉球一の女である。
「決めた。あんた、あたしの弟弟子ってことでいいのね?」
「は?」
「稽古歴で言いなさい。あたしは物心ついた頃からだから十二年。あんたは八年。はい、あたしが姉弟子!」
「その理屈だと歳じゃなくて稽古歴なのか、、、まあ、いいけど」
「よろしい。じゃあ明日から朝稽古、あたしも混ぜなさい。弟弟子の面倒を見るのは姉弟子の務めだから」
ニッと笑った顔に、いつもの——夏の日差しみたいな明るさが戻っていた。この切り替えの早さは、本当に大したものだと思う。まあ、耳がちょっと赤いのは夕日のせいってことにしておいてやろう。
「ところでさ。父上はなんで、あんたを選んだの」
「それが——俺も知らないんだ。皆伝をくれた朝に聞いたら、『今は言わん』って。いつか話すべき日が来る、とさ」
「なにそれ。気になるじゃない」
「気になるよなぁ」
二人で首を傾げた。師匠、あんたの言った「真鶴が気づく日」は、思ったより早く来たぞ。なら「残りの半分」を聞ける日も——そう遠くないといいんだが。
◇
なお、この話には後日談がある。
その夜、真鶴が上機嫌で寧々に報告したのだ。あたしと琉太は同じ型を継ぐ姉弟子と弟弟子である、と。
寧々の手が帳面の上でぴたりと止まった。
「……八年」
「そ! ね、弟弟子?」
「三人で稽古したことは一度もないぞ、姉弟子」
「細かい男ね!」
賑やかな幼馴染を眺めながら、寧々はしばらく黙っていた。それから帳面を閉じてまっすぐこちらを見た。
「わたくしが琉太様に会ったのは、去年の夏です。まだ、一年も経っておりません。……けれど、わたくしはあなたの名前の中身を、誰より詳しく存じております。帳面に、全部書いてありますから」
それは自慢なのか脅しなのか。真鶴が「うわ、なにそれ怖い」と笑い、寧々が「事実です」と澄まし顔で返す。
名前を集める旅だと思っていたが、どうも俺は、それとは別種の面倒も一緒に集めているらしい。
◇
翌朝、船は黒木へ向けて出航した。
黒木国は中村国の東隣、地続きである。にもかかわらず船を選んだのには、理由が三つあった。
一つ。あいだに横たわる山地がとにかく険しい。人と荷を連れて越えれば十日、雨に降られればもっとかかる。海路なら三日だ。
二つ。陸路は目立つ。北には田中の九州二座、北東には佐藤の飛び地。琉球の旗を掲げた一団が九州の背骨を歩けば、どちらの物見にも見つかる。
そして三つ目——これが決め手だった。黒木は山に隠れた国で、内陸の道はどれも細く、他国の使者を歓迎する造りになっていない。だが海に面した小さな湊がひとつだけある。
「秘境ってのは、閉じてるんじゃない。玄関の場所がわかりにくいだけなんだよ」
玄水が「屁理屈じゃな」と言った。褒め言葉として受け取っておく。
見送りには有村隼人の姿もあった。義親が持たせてくれたのは、花押入りの紹介状と、樽いっぱいの薩摩揚げである。同盟の証と飯が同格で並ぶあたり、わかってるなぁ、あの親父。……なお薩摩揚げのほうは、初日の晩のうちに姉弟子様の手で樽の底が見えた。日持ちの心配は無用だったらしい。
甲板では、早速姉弟子様の稽古が始まっている。
「ほら琉太、腰が浮いてる! 父上ならそこ、突いてくるわよ!」
「師匠と同じこと言うんだな、姉弟子は」
「当ったり前でしょ、金城の型だもの!」
誇らしげな声が朝の海に抜けていく。隠し事がひとつ減った船は、少しだけ軽くなった気がした。
——大隅の岬を回り込み、船が舳先を北へ向けた頃。行く手の左に、霧をまとった山影が見え始めていた。
秘境の国、黒木。不知火の姫が待つ、九州でいちばん静かな国だ。
腕の空白の枠がなんだか疼いた気がした。
(第十九話・了)
次回、明日20時10分に更新します。




