幕間四「緋色の将は種を蒔く」(田中宗典視点)
北へ帰る海は、凪いでいた。
旗艦の楼上で、田中宗典は筆を執っている。都の宗家に送る、敗戦の報せである。
一万二千で渡り、一万一千で帰る。損害だけを見れば、敗戦と呼ぶのもおこがましい小競り合いだ。だが宗典は、書き出しの一行にこう記した。
——南征、成らず。琉球、恐るべし。
◇
誤算は三つあった。
一つ。中村攻めが陽動だと、渡海の前に見抜かれていたこと。先鋒の玄水が敗れた時点で、疑うべきだった。
二つ。浮地の道を、こちらの術者よりも正確に「読む」者が敵にいたこと。水脈を抜かれ、育ちかけの地を三百人分、海に還された。あれは井上の術だ。なぜ琉球に井上の術者がいる。
そして三つ目。
筆が、止まる。
あの夕暮れの浜を、宗典は生涯忘れないだろう。歌が聞こえた。古い、名を呼ぶ歌。壁の向こうで六千の姓紋がいっせいに灯り、夜の浜が星空になった。
そして壁の上から、炎を纏った小僧が降ってきたのだ。
千種実の根を、火脈を読んで焼き割った。こちらの術の理を、初見で解いた。それだけでも化け物だが——本当に肝が冷えたのは、その後だ。
小僧は叫んだ。田の中に、皆で住まう。それがあんたらの名の始まりだ、と。
田中の由来。宗家の書庫の、そのまた奥の系譜にしか残っていないはずの言葉を、海の果ての小僧が知っていた。
◇
「総大将。あれは、何者なのでしょうな」
傍らの老将が問う。宗典は筆を置き、少し考えて、答えた。
「わからん。だが兵どもは、もう名をつけておるぞ」
帰りの船倉で、兵たちがひそひそと囁いているのを、宗典は聞いていた。
——空紋のくせに、紋を三つも灯しておった。
——名を重ねる化生よ。じゅうめい、と読むんだと。
——重名の魔人。琉球に手を出すと、名を喰われるぞ。
噂というものは、種に似ている。風に乗り、勝手に飛んで、思わぬ土地で芽を吹く。この噂は港々で酒と一緒に転がり、半年もすれば本土の四強すべての耳に届くだろう。
佐藤は警戒するだろう。鈴木は調べるだろう。山本は海の値踏みをするだろう。そして都の田中宗家は——あれを、欲しがるだろう。
「よい、な」
宗典は、ひとりごちて笑った。
敗けた将が言うことではない。だが、あの小僧の言葉は——二十年、他国の田を焼き、田中の名に植え替えてきた、この征服者の胸に、妙な種をひとつ落としていった。焼いて奪う。それが宗典の知る、ただひとつの戦だった。
奪う田ではなく、分ける田。由来に恥じない、名の使い方。
……次に会うときまでに、答えを用意しておこう。あれの言う「農法」とやらで返すのが、武人の礼儀というものだ。
宗典は筆を取り直し、報せの末尾に一行を加えた。
——比嘉琉太。この名、覚えて損はなし。
種は、蒔かれた。
芽吹くのは、次の春だ。
これにて第一部・琉球動乱編、全編完結です。種は、蒔かれました。
第二部・九州動乱編は、すでに開幕しています。毎日20時10分更新、9月3日(木)に完結予定です。次の話は下の「次へ」からすぐ読めます。
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