第十四話「名字マニアの天下取り」
俺は、炎の剣を提げて、壁の縁を蹴った。
落ちていく視界の端で、六千の姓紋が光の海になって、俺を見上げていた。
着地の衝撃は、火が食った。日輪の刃が泥の道に触れた瞬間、固めた畦が内側から爆ぜ、燃える波紋が扇形に走る。
正面、槍衾。ざっと三十本。
——恐くない、と言えば嘘になる。だが、視える。井上の水読みが槍兵の足元の水脈を、火嘉の火読みが泥の下の火脈を、同時に教えてくる。二枚の地図を重ねた戦場は、もう攻略本の一頁だ。右の畦は二歩で崩れる。三間先の根が浅い。稲の壁の向こうに伏兵が六。
俺は日輪を、横薙ぎに振るった。
刃から溢れた炎が稲穂を舐め、敵の矢よけの壁が、一瞬で敵自身の目隠しに変わる。悲鳴。崩れる足場。水脈を抜かれ、根を焼かれた「道」が、端から海へ還っていく。
斬り結んだのは、数合だけだった。斬るまでもなかったのだ。道そのものが崩れて、敵の陣形を海へ溶かしていく。豊穣の術は、火と水の前では、よく燃える藁束にすぎなかった。
——そこから先の光景を、琉球の民は後々まで語り草にした。
壁の上から飛んだ空紋の三男が、太陽の炎の剣を提げて浮地の道に降り立ったこと。
振るった炎の刃が稲穂の海を走り、敵の「道」を端から焼き割っていったこと。
炎に呼応するように琉球軍六千が壁から打って出て、光る姓紋の波が、田中軍を浜から押し返していったこと。
俺自身の記憶は、もっと具体的だ。火脈——水脈と同じ理屈で、地と海の下を走る熱の筋——が視えたこと。井上の水読みと火嘉の火読みを重ねると、浮地の根の在り処が丸見えだったこと。
千種実の根は、確かに海を縛っていた。だが根というのは、焼かれれば土に還る。
敵の道が三本とも焼け落ちたとき、旗艦の楼上で、田中宗典が軍を止めた。
意外なことに、彼は撤退の鐘を鳴らす前に、楼から声を投げてきた。戦場の端と端、名力で張った声だった。
「壁の上の若武者に問う! 見事な火よ! ——だが小僧、焼いた田がどうなるか、田中の民として教えてやろう! 焼け跡は、次の実りの土になる! 我らは必ず戻るぞ!」
だから俺も、腹から声を張った。
「知ってるよ! 焼き畑って言うんだろ、そういうの!」
楼上の宗典が、一瞬固まったのがわかった。
「だったらこっちも農法で返す! 次に来るときは鍬だけ持ってこい! 田中の田は、奪う田じゃなくて分ける田だろう——『田の中に、皆で住まう』! それがあんたらの名の始まりだ! 由来に恥じない使い方をしやがれ!!」
返事は、なかった。
ただ、撤退の鐘が鳴る前に、確かに聞こえた。緋色の陣羽織の男が、低く笑った声が。
「……比嘉琉太。覚えたぞ、その名」
一万一千の軍が、夜の海へ引いていった。
……千しか損じていない軍が、なぜ退くのか。不思議に思うだろうか。
答えは簡単だ。俺たちが折ったのは、兵の数じゃない。渡ってくるための「道」と、一万の軍を海の上で食わせる「実り」と、切り札の「千種実」——侵攻という商売の元手を、三つまとめて焼いたのだ。浮地を失った一万一千は、もう軍じゃない。海に浮かんだ、腹を減らす一万一千人だ。
それに、宗典は根っからの農夫だ。農夫は、実らないとわかった田に種を蒔かない。あの撤退は敗走じゃない。——見切りだ。
だから、わかっている。次に来るときは、もっと周到に来る。
琉球防衛戦——勝った。
◇
浜から引き上げる途中、瓦礫の壁の陰で、大城豪が座り込んでいた。
石紋を持つ大城家の嫡男は、この戦、最後の壁で必死に戦った。俺は、ちゃんと見ていた。傍らに転がっているのは、大城家伝来の金砕棒——城守。「振るえば崩れた城壁がひとりでに積み直る」という逸話を持つ、守りの銘器だ。豪はそれで岩の礫を放ち、崩れる壁を石で支えた。確かに、武将の器だった。……ただ、その彼をもってしても、届かなかったのだ。俺が壁の上でやってみせた、あの光景には。
俺が通りかかると、豪はのろのろと顔を上げた。
「……まやかしだと、言ったな。俺は」
「言ったな」
「馬鹿を見た。あんな……あんなもの、まやかしで出せるものか」
豪は、自分の右肩の石紋を見下ろした。濃い、立派な紋だ。生まれつき与えられた、大城の武の証。
「俺はずっと、この紋があれば充分だと思っていた。紋のない者を、下に見ていた。だが……お前は、無いところから始めて、今日、六千の名を灯した。俺は、生まれ持ったものにあぐらをかいていただけだ」
俺は少し考えて、言った。柄にもなく、真面目に。
「あんたの石、最後の壁で三回、味方を守っただろう。俺、本陣から見てた。あれは、あんたの紋にしかできないことだ」
豪が、はっと顔を上げた。
「名は、優劣じゃない。向き不向きだ。あんたの石は、守るのに向いてる。俺の紋は……まあ、色々だ。それだけの話さ」
豪は長いこと黙って、それから、ぶっきらぼうに立ち上がった。
「……次は、負けん」
「おう。次があったら、壁は任せる」
すれ違いざま、豪が小さく舌打ちしたのが聞こえた。だがその舌打ちは、城門で会ったときのものとは、少し違う音がした。
——悪くない。敵をひとつ減らすより、味方をひとつ増やすほうが、たぶん、ずっと難しいのだから。
◇
勝ち戦の浜には、それでも、還らない名があった。
六千のうち、三百十七人。俺は本陣の帳面でその数字を確かめて——それから、数えるのをやめた。代わりに、名前を読んだ。玉城、我如古、瀬長、比嘉、金城、大城……。戦は数字だと、俺はずっと言ってきた。訂正する。数字ってのは、名前を束ねた呼び方にすぎない。
三日後の浜で、寧々が弔いの言祝ぎを謡った。国誉めと同じ節の、ずっと静かな歌。還らなかった三百十七の名を、一人ずつ、夜明けまでかけて呼び終えた。名を呼ばれるたび、浜のどこかで家族が泣いた。
……前世の俺は、死というものを、画面の向こうでしか知らなかった。数字で流れてきて、翌日には忘れる死しか。だからせめて、この世界では覚えていよう。俺の絵図の向こうで消えていった名前を、全部。
名前を武器にして戦う人間の、それが最低限の礼儀というものだろう。
◇
後始末やら祝賀やらの騒ぎが一段落した夜、玉座の間で、父上は俺に言った。
「琉太。……七年前の事を、儂はお前に謝らねばならん」
「やめてください、調子が狂う」
「言わせよ。……紋が出なんだ夜、泣きもせぬお前を見て、儂は思うたのだ。この子は、儂らとは違う何かを見ておる、と。恐ろしゅうてな。遠ざけた。——だが違った。お前が見ておったのは」
父上は、少しだけ笑った。初めて見る顔だった。
「儂らと同じ、この国だった」
……ずるいだろ、そういうの。返す言葉を三つくらい飲み込んで、俺はただ頭を下げた。
広間の外に出ると、月見台に二つの影があった。真鶴と寧々が、泡盛が注がれた酒器を挟んで何やら盛り上がっている。嫌な予感しかしない組み合わせだ。
俺に気づいた寧々が、何か言いかけて——そのまま、言葉を忘れたみたいに、俺の顔を見た。
「なんだ」
「……いえ。……その」
寧々の視線が、俺の顔の輪郭を、ゆっくりとなぞる。書庫の幽霊と呼ばれた白さは、九日の海と、あの夕暮れの浜の炎が、とうに焼き落としていた。
「……月が、綺麗だと思っただけです」
「ああ、満月だしな」
「…………そうですね!」
なぜか寧々は勢いよくそっぽを向き、真鶴は酒器を置いて「あちゃー」と天を仰いだ。なんだよ。
「あ、そうだ琉太! 聞いてよ、寧々ってば壁の上の『名乗ってやる』のとこ、酒器三杯目からずーっと同じ話——
「真鶴!! それは!! 言わない約束です!!」
顔を真っ赤にした尚の姫に袖を掴まれながら、俺は月の下で笑った。
——こうして、琉球動乱は幕を下ろした。
だが、わかっている。これは終わりじゃない。
田中は俺の名を覚えた。戦の顛末は、早晩、本土の四強すべてに知れ渡る。「琉球に、複数の姓紋を灯す男がいる」と。理の外の力は、必ず狙われる。座して待つのは悪手だ。
なら、どうするか。決まってる。
——こっちから、行く。
四十七の名が争う本土へ。名を重ね、真名を暴き、この馬鹿げた「名前の戦争」の一番深いところまで。
俺の腕には今、三つの紋がある。井上、尚、そして火嘉。
残りの枠は、まだまだ、たくさんある。
名字マニアの天下取りは、始まったばかりだ。
(第一部・琉球動乱編 完/第二部・九州動乱編へ続く)
第一部・琉球動乱編、完結です。ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます。物語はこのあと幕間を挟み、第二部・九州動乱編へ続きます。第二部は毎日20時10分に更新中です。ブックマークしていただけると、続きをお届けできます!




