第十二話「海に田は実らない」
決戦の朝は、静かに来た。
北の大浜。夜通しで築かれた大城家の三重の壁が、朝日に長い影を落とす。壁の間には金城家の金の楯衾。六千の兵。潮騒。誰も喋らない。
そして沖から、稲の匂いがした。
海を埋める浮地の道。その上を田中軍一万二千が歩いてくる。整然と鍬と槍を担ぎ、まるで巨大な田植えの行列のように。
改めて見ると、よく出来た仕掛けだ。浮地に生えているのは、ただの稲じゃない。田中の名力が育てる"名力稲"——塩を毒とせず、むしろ海水を養分に変えて育つ、術で実らせた化け物稲だ。だから真水の田んぼじゃ考えられない海の上でも、平気で穂をつける。「海に田は実らない」なんてのは、名力を知らない者の常識にすぎない。
そして兵が歩いているのは、稲穂の上じゃない。根と泥を名力で固めた、畦みたいな土手道が道の本体で、その両脇に、胸の高さまで稲穂が茂って——ちょうど、矢よけの壁になっている。踏むのは固い泥、身を隠すのは稲の壁。攻めながら進むための、動く砦だ。感心してる場合じゃないが、感心する。
開戦の直前、真鶴が本陣に来た。無言で俺の前に立ち、胴丸の紐を勝手に締め直し始める。
「……緩んでたか」
「緩んでた。ばか」
それから真鶴は、紐を結ぶ手を止めずに、ちらりと俺の顔を見た。
「……焼けたね、あんた。書庫の幽霊が、ちょっとは海の男の顔になった」
「九日も船に焼かれたからな。そりゃどうも」
結び終わっても、真鶴はしばらく、紐から手を離さなかった。それから顔を上げて、いつもの八重歯を見せて笑った。
「あんたは、あたしが守る。だから余計なこと考えないで、数字だけ読んでなさい」
返事の代わりに、俺は算盤をひとつ弾いた。……ああ、まったく。この戦、負けられない理由が、また一つ増えた。
先頭の田が浅瀬に乗り上げ、泥の根を下ろした瞬間——法螺貝が鳴った。
琉球防衛戦、開戦。
◇
前半、戦況は俺たちの目論見通りに進んだ。
押し寄せる田中兵を、第一壁と金の楯衾が受け止める。陽紋の加護を受けた琉球兵は倒れてもすぐ立つ。負傷者は後ろに送られ、兄たちの陽紋で癒されて戦列に戻る。防衛戦の教科書みたいな回転だった。
俺はといえば、本陣で軍配——ではなく算盤を弾いていた。いつもの紺の芭蕉布の上に、申し訳程度の軽い胴丸。重い甲冑は動きの邪魔だし、そもそも前線で斬り合う柄じゃない。参謀の得物は算盤で十分だ。敵の損耗、味方の損耗、矢の残数、潮の時刻。戦は数字だ。数字の向こうにしか勝ちはない。
「琉太様! 左翼、敵の第三波を撃退!」
「深追いするな、壁から出た兵は戻せ。……潮はあと半刻で引き始める。そこからが本番だ」
報せは、いいものばかりじゃない。
「第一壁、東の受け持ちで……玉城の衆が三人、還りません」
算盤を弾く手が、一瞬だけ止まった。玉城。城下の魚市で、いつも俺に烏賊を一杯おまけしてくれる婆さんの——確か、孫の家の姓だ。
……戦は数字だ。数字の向こうにしか勝ちはない。それは今も正しい。だがその数字は、一粒ずつ、全部名前でできている。
「……壁の修復を急がせろ。それと、還らなかった三人の名を、帳面に控えておいてくれ」
「は……名を、ですか?」
「頼む。あとで必ず要る」
自分の声が少し低くなったのが、自分でもわかった。
潮が引けば、浅瀬の浮地は泥ごと重くなり、沈み込む。敵の足場が一番緩む半刻。そこで井上の水読みを使い、崩れやすい田から順に水脈を抜いて、道ごと海に還す——それが俺の描いた絵図だった。
実際、上手くいったのだ。途中までは。
引き潮とともに、俺は浜に出た。海に手を浸し、井桁の紋を燃やして、浮地の下の水脈を掴み抜き崩す。一枚また一枚、敵の先鋒三百が田ごと海に呑まれて後退していく。
琉球側の陣から、初めて歓声が上がった。
——そのときだった。
沖の旗艦から、鐘の音がひとつ、響いた。
澄んだ、涼しい音だった。戦場に似合わない、祭りの朝みたいな音。
そして海が、実った。
そうとしか言いようがなかった。崩したはずの浮地が、海面下からいっせいに稲穂を噴き上げ、倍の厚さで浮き直したのだ。それだけじゃない。田と田の間の海面に次々と新しい田が芽吹き、道が面になっていく。
「な……っ」
水脈を読もうとして、脳が焼けるかと思った。読めない。水の中に根が、無数の根が張り巡らされて水脈そのものを縫い止めている。
沖の旗艦——その甲板の上に組まれた、物見と采配のための高櫓を「楼」という。その楼の上に、緋色の陣羽織が見えた。
田中王国南征軍総大将・田中宗典。
手にした大身の槍が、真昼の光を弾いた。日本号——「呑み取りの槍」と呼ばれる天下三名槍のひとつ。酒を呑めば呑むほど冴えるという豪槍で、宗典はその石突きで、とん、と楼の床を突いた。まるで祭りの音頭でも取るように。
その両腕に浮かぶ姓紋は、田の字——ではなかった。田の字の中央に、芽のような一画が加わった、見たことのない紋。
「……先輩、あれは」
いつの間にか隣に来ていた玄水に説明を求める。
「南征軍の切り札。宗典公が『千種実』と呼ぶ奥義よ。田中の名力の奥の手。……儂も見るのは二度目だ。一度目は、九州の国がひとつ、あれで地図から消えた」
千種実。千の種を、一度に実らせる力。
それは軍隊のような術だった。田が兵を運び、稲穂が矢を受け止め、根が海を縛る。豊穣という言葉の一番恐ろしい使い方。
——真名だ。直感が告げた。あれは真名そのものじゃないにせよ、真名の縁に触れた者の力だ、名の本質を半分覗いた者の。
防衛線が、軋み始めた。
第一壁が破られたのは昼過ぎ。倍に増えた敵の道は、もう一本の浜ではなく、扇形に広がって三方向から壁に取り付いていた。第二壁の上で長兄の陽紋が燃えるように輝き、兵を癒し続ける。それでも追いつかない。
夕刻、第二壁が抜かれた。
長兄が肩に矢を受けて下がった。金の楯衾は半分が砕け、大城の壁は最後の一枚。その向こうはもう、那覇と首里へ続く街道だ。逃げ遅れた民の列が、街道に見える。
本陣に、敗色という名の沈黙が降りた。
「……琉太。策は、まだあるか」
陣中に運ばれた長兄が、血の気のない顔で俺を見た。七年間、俺を「空紋」としか呼ばなかった長兄が、最後の札を俺に聞いた。
あるよ、と俺は答えた。
「最初から、一枚だけ。……派手で、無茶で、この世界の誰も見たことのない札が」
俺は本陣の幕を上げた。外には、約束通りの二人が待っていた。
長刀を担ぎ直す真鶴。
そして——白い祝の装束に着替え、十一代分の祝詞と、あの布に巻かれた太刀を胸に抱えた、尚寧々。帯には、小さな守り刀がひと振り。
昨夜の口説き文句への、彼女の返事は保留のままだった。「勝算を見せてから言いなさい」と。
勝算? 上等だ。
見せてやるよ、この世界の理の外から。
「行こうか。——壁の上まで」
絶体絶命。……ですが、琉太にはまだ一枚だけ札があります。明日、切ります。




