第十話「黒潮の夜」
海の上の九日間は、長い。
特に、追われながらの九日間は。順風なら首里まで五日の航路だ。それを、哨戒船を撒くための遠回りと、五日目の嵐とで、倍近くまで引き延ばされた。無事に着くだけで御の字、という航海だった。
出航二日目の朝、後方の水平線に帆が三つ現れた。田中軍の哨戒船だ。中村の港から関船が飛び出したのを見て、本隊への注進と、あわよくば撃沈を狙って追ってきている。
「振り切れます?」
「普通に走れば、無理ですね」
海図を広げた寧々は、こともなげに言った。
「向こうは三隻で風上を分け合って、こちらの逃げ道を扇形に塞いでいます。教本通りの追い方。……教本通りというのは、教本を書いた側には隙だらけ、ということですけれど」
没落の姫は、不敵に笑った。最近わかってきたが、この人は海の上だと三割増しで生き生きする。
寧々の指が、海図の上をすっと走る。十一代分の書き込みの中から、一本の細い流れを拾い上げる。
「ここ。この時期だけ、島陰に潮の裏道が立ちます。尚の水主が『抜け潮』と呼んだ流れ。狭くて、浅くて、暗礁だらけ。教本には『避けよ』と書いてある道です」
「入ったら、追ってこれない?」
「腕のない船は、入ったら死ぬだけです」
中村が出してくれたのは、最速の関船——といっても、大艦じゃない。速さのために舷を低く削った小回りの利く快速船で、身を乗り出せば指先が波を切れるほど、海が近い。追撃を振り切るにはうってつけで、俺が水に触れて水脈を読むにも、都合が良かった。
で、その船の水主は中村の腕利き、読み手は尚家十一代の海図、そして——
「琉太殿。浅瀬の水崩れは貴様が均せ。井上の水読みなら、竜骨の下の岩が視えるはずだ」
「了解、井上先輩」
「先輩言うでない」
技術顧問(捕虜)の指導のもと、俺は船べりから海面に手を突っ込んだ。井桁の紋が熱を持つ。……視える。水の厚み、岩の背、潮の筋。水脈を読む力は、海の上ではこう使うのか。
抜け潮に船体を滑り込ませる瞬間は、全員が声を失った。左右の岩礁まで、腕を伸ばせば届きそうだった。
……ただし、格好がついていたのは水読みの部分だけだ。正直に書いておく。
狭い水路を、潮の暴れ馬みたいなうねりに乗って抜けるのだ。船は右へ左へ跳ね、俺の胃袋も右へ左へ跳ねた。
「うっ……げぇっ」
「琉太殿、集中せよ! 岩が!」
「わかって……おぇっ……わかってる!」
片手で船べりを掴み、片手を海に突っ込み、口からは朝食を海に還しながら、それでも俺は水脈を読み続けた。吐いても、視線だけは岩の背から離さない。ここで気を抜けば、船底が裂けて全員が魚の餌だ。
「……よく、吐きながら手が止まらんな」
感心とも呆れともつかない声で、玄水が言った。
「名字マニアを……なめるな……趣味に人生かけた男は……こういう時の……粘りが違う……うっぷ」
「意味がわからん」
真鶴が背中をさすってくれたのだけが、救いだった。姫武者に介抱される王子。威厳もへったくれもない。だが生きて抜けたのだから、勝ちだ。勝ちということにしておく。
半刻後——俺たちは島陰の向こうの外海にいて、哨戒船の帆は、二度と見えなかった。俺の顔色も、たぶん帆みたいに真っ白だった。
◇
三日目の夜。凪いだ甲板で、玄水がぽつりと言った。
「小僧。宗典公という御方をな、儂は一度だけ、間近で見たことがある」
「……聞こう」
「落とした国の検分よ。焼けた田の前で、あの御方は馬を降りた。焼け土をひと掴みして、口に含まれた。それから兵たちの前で、こう言うたのだ。——『良い土だ。三年で実る』と」
玄水は、自分の掌をじっと見た。
「非道な御方ではない。約定は守るし、降った民は殺さん。だがあれは……国というものを、田としか見ておられん。奪った民の数も、種籾の勘定で数える御方だ。緋色の陣羽織が戦場に立つと、兵は皆こう囁く。——刈り入れが始まるぞ、とな」
凪いだ海の先、琉球のある方角を、俺は見た。
二十万人の、種籾の勘定。
……させるかよ。
◇
五日目の夜、嵐が来た。
避けられない類の嵐だと、寧々は夕方には見抜いていた。だから俺たちは正面から突っ込んだ。帆を落とし、船首を波に立て、ひたすら耐える。
その間じゅう、寧々は艫に立ち続けた。雨に打たれながら、波の間隔を数え、水主に舵の指示を出し続けた。十一代分の海図が頭に入っている人間は、彼女しかいないからだ。
嵐が峠を越えたのは、夜半過ぎ。
俺が白湯を持って艫に上がると、寧々はずぶ濡れのまま、まだ海を睨んでいた。
「交代。寝ろ。あんたが倒れたら全員迷子だ」
「……もう少しで潮境を抜けます。それまでは」
「白湯だけでも飲め。ほら」
湯呑みを受け取った手が、思ったより冷え切っていて、少しひやりとした。
しばらく、波の音だけがあった。
「——わからないのです」
ぽつりと、寧々が言った。
「あなたのことが、わかりません。比嘉の三男。王家に疎まれ、空紋と蔑まれ、厄介払いで海に出された。……なのになぜ、琉球のために、こんなに必死になれるのですか」
直球だった。嵐の夜というのは、人を素直にするんだろうか。
俺は少し考えて、白状することにした。全部は無理でも、芯のところは。
「前世の話をしていいか」
「まえ?」
「……昔の話だ。昔の俺は、名前を集めるだけの男だった。名前の由来を調べて、記録して、感心して。それで終わり。集めた名前で、何かをしたことは一度もなかった。誰かを守ったことも、何かを変えたことも」
過労で死んだ夜、机の上には調べかけの名字の資料が積んであった。あの資料は、誰の役にも立たないまま、たぶん処分されただろう。
「今の俺は、名前を重ねられる。集めるだけじゃなく、使える。……だったら今度こそ、集めた名前で誰かを守らないと、な。二度目まで棒に振ったら、さすがに神様も呆れる」
寧々は長いこと黙っていた。
それから、湯呑みに口をつけて、小さく言った。
「……変な人」
二度目のそれは、初対面のときと同じ言葉のはずなのに、ずいぶん違って聞こえた。
「寧々殿はさ。尚の名が戻ったら、何がしたい?」
「決まっています。祖廟を建て直して、系譜を書き直して、散った旧臣を探して——」
そこで彼女は言葉を切って、初めて、少しだけ笑った。
「……本当は。名前を呼ばれたいだけ、なのかもしれません。『尚の姫』と。誰かに、蔑みではなく」
波音。
「じゃあ約束しよう。全部終わったら、俺が真っ先に呼ぶ。利子もつける」
「利子とは何ですか、利子とは」
東の空が、わずかに白み始めていた。
◇
九日目の明け方。
「首里が見えたぞ!」
物見の声に、船内が沸いた。間に合った。大潮まで、まだ一日ある——
そう思った、次の瞬間だった。
「琉太殿!! 北東の海!!」
玄水の声が轟いた。
朝靄の向こう。水平線を埋めるように、帆が並んでいた。数えるのが馬鹿らしくなる数の、帆が。
そして、その手前の海面が——盛り上がっていた。
泥と稲穂の色をした「島」が、海の上に、一枚、また一枚と生まれていく。まるで巨人が海に苗を植えていくように。
よく見れば、船団は浅瀬の縁で錨を下ろし、そこから先へは進んでいない。……玄水の言った通りだ。深い海は船で渡り、浅い海に入った途端、田を撒く。ここから先、奴らは船を降りて——歩いて来る。
浮地。
田中王国南征軍、一万二千。
大潮を、待ってすらいなかった。船と浮地の術者が、宗典の見込みより早く揃ったのだろう。あるいは——こちらが中村で何かを掴んで走ったことを、あの男は、嗅ぎつけていたのかもしれない。
「——総員、櫓を出せェッ!! 港まで漕ぎ勝負だ!!」
琉球動乱、最終局面。
俺たちの帰郷は、敵の先鋒と、ほぼ同着だった。
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