幕間三「敗軍の将は水を見る」(井上玄水視点)
夜の甲板で、儂は海を見ていた。
井上玄水。田中王国南征軍先鋒大将——であった男だ。今の肩書きは捕虜。いや、あの小僧に言わせれば「技術顧問」らしい。ふざけた響きだが、縄も枷もないのだから、否定のしようがない。
敗けた。
それも、完敗だった。塩の土地に誘い込まれ、水を封じられ、伏兵に断たれた。絵図を描いたのは十四の小僧だという。琉球の、空紋の若様。名を、比嘉琉太。
……いや。敗因を語るなら、正直になるべきだろう。
儂は、戦で敗ける前に、言葉で敗けたのだ。
◇
——あんたの姓は、水で攻める姓じゃない。水を守る姓なんだ。
崖っぷちで、命乞いの代わりにあの小僧が語ったのは、儂の姓の由来だった。
井戸の上に立ち、村の水を守る者。それが井上。
笑わせる、と斬り捨てるべきだった。だができなかった。儂の生家は筑後の井上郷、村でただ一つの古井戸の隣にあった。父も祖父も、日照りの年には井戸の前で寝ずの番をした。毒を盛られぬよう、涸れぬよう、誰の水も守るのが井上の家の役目だと、祖父は言った。
その井戸を、儂は三十年も忘れていた。名力を戦の道具として磨き、水を槍に変え、堤を割る術ばかり覚えた。南征軍では、落とした町の井戸を先に押さえろと教えられる。水を握れば民は逆らえぬ。改姓の判も早く進む。……守るどころか、儂は水を人質にしてきたのだ。
筑後の井上郷には、老いた母が残っている。戦で兄を亡くした、その忘れ形見の姪も。あの井戸の水で儂を育てた家だ。手柄を立て、禄を得て、いつか二人を楽にしてやる——そのつもりで、儂は水で他国の民を縛ってきた。身内の水を守るために、余所の水を人質に。……我ながら、笑えぬ理屈だ。あの小僧の一言が、三十年ぶりに、その矛盾を掘り返しよった。
腰に下げた瓢箪は、井守という。井上郷の古井戸の水を、代々一滴だけ封じて伝えてきた、井上の家の銘器だ。「涸れた井戸に注げば、必ず水が湧く」——そんな逸話を持つ。戦の道具ではない。命の水を絶やさぬための、守りの器だった。それを儂は、いつしか槍を撃つ栓に使うようになっていた。……あの小僧に会うまで、その銘の由来すら、忘れておったのだ。
それを、敵国の小僧が。会って半刻の小僧が。儂の祖父と同じことを言うのだ。
あの瞬間、槍が止まったのは油断ではない。あれは——図星というものだ。
◇
甲板の隅で、当の小僧が寝ている。
軍議の後、田中水軍の陣立てを夜半まで儂から聞き出し、帳面を三冊潰して、力尽きたように転がった。寝言まで名字の話をしている。変わった男だ。どうかしている。
だが、儂は見た。検証とやらの半日で、あの小僧の水壁が儂のそれを超えるのを。
名乗る者一人の井上が、九州何万の井上を超えた。由来に沿えば芯が通る、と小僧は言った。つまりあれは、こういうことだ——井上の名力の正しい使い方を、今この世でいちばん解っているのは、井上姓の誰でもなく、あの小僧だということ。
癪に障る。腹立たしい。そして。
……少しだけ、見てみたくなっている。あの男が、この馬鹿げた名取戦の世を、どこまで搔き回すのか。
波音の向こうに、琉球はまだ見えない。追ってくる南征軍の帆も、まだ見えない。
宗典公。あなたはまだ知らない。あなたが目隠しに使った小さな戦場で、あなたの敵が、名を、ひとつ拾ったことを。
「……先輩、か」
口の中で転がしてみた。
悪くない響きだったことは、海にだけ白状しておく。
敗軍の将の夜でした。本編は明日20時10分に続きます!




