第23話 つかの間の休息
暗く湿った地下の奥深く、死と隣り合わせの闇から無事に地上へと生還を果たしたウォルターを待っていたのは、英雄としての称賛でも、盛大な祝賀の宴でもなかった。
彼に突きつけられたのは、分厚い書類と、「一ヶ月の謹慎処分」という冷酷な通達だった。
理由は明白である。立ち入りが厳しく制限されている深層エリアへの無許可での侵入、および未承認の危険生物群との交戦。結果として奇跡的に生還したとはいえ、管理組合のルールを片っ端から無視した彼の行動は、上層部の逆鱗に触れるには十分すぎたのだ。本来なら採掘ライセンスの剥奪もあり得た状況だったが、過去の功績が考慮されたのか、一ヶ月間の一切の採掘活動禁止と、地下への立ち入り禁止という処分に落ち着いた。
しかし、ウォルターにとってこの謹慎は、物理的な苦痛や生活の危機を伴うものではなかった。なぜなら、彼が深層の奥底から命がけで掘り当てた二つの魔導石が、彼の当面の生活を完全に保証してくれていたからだ。
その魔導石は、手のひらに収まるほどの大きさでありながら、内部に宇宙の星雲を閉じ込めたかのような深い輝きを放っていた。正規の鑑定士に持ち込んだ際、その老練な鑑定士がルーペを落としそうになるほど驚愕した純度と質量。結果として、二つの石はウォルターの口座に、一般市民が一ヶ月は遊んで暮らせるほどのお金をもたらした。当面の生活に心配はなかった。
それでも、ウォルターの心は満たされていなかった。
「やっぱり陽の光は良いわねぇ……。地下の湿気た空気も悪くないけど、たまにはこうして全身で光を浴びないと、心がカビ生えちゃうわ」
平日の昼下がり。ウォルターの借りているアパートの一室。南向きの大きな窓から差し込む柔らかな春の陽光を全身に浴びて、イブリンが恍惚とした声を上げた。
窓辺に置かれたアンティーク調のプランター。そこに植えられているのは一見するとただの観葉植物だが、その葉の隙間から立ち上る淡い光の粒子が、空中で一人の少女の姿を形作っている。それがイブリンだ。
彼女はホログラムのような半透明の体を持ち、物理的な質量を持たない。過去の不可解な事件によって肉体を失い、植物をベースとしたこの奇妙な形態に魂を定着させて生き長らえている存在だった。
今日の彼女は特にご機嫌だった。肥料をたっぷりとしみ込ませた土を、彼女の本体である根が存分に味わっているからだ。ホログラムの輪郭はいつもより鮮明で、豊かな金色の髪や、エメラルドグリーンの瞳の輝きまでがはっきりと見て取れた。
「……ぼくは暇で仕方ないんだが」
部屋の床に車座になって座り込んでいたウォルターは、重いため息をついた。
彼の周囲には、分解された採掘用の機材が散乱している。使い込まれたチタン製のピッケル、魔力駆動式のランタン、岩盤を穿つための小型の振動ドリル、そして命綱となる特殊繊維のロープ。
「久々に道具の手入れを隅から隅までやってみたけど……もう、本当にやることがない。ランタンのガラスは曇り一つないし、ピッケルの刃は髭が剃れるくらいに研ぎ澄まされている。各部のグリスアップも完璧だ。……だが、これを使う場所がない」
「たまにはゆっくり休むのもいいじゃない。命の洗濯ってやつよ。あんた、ここ数ヶ月ずっと地下に潜りっぱなしで、砂と泥の匂いが染み付いてたんだから。こうして安全な部屋で、温かい紅茶でも飲みながら過ごす贅沢を噛み締めなさいな」
「石を掘ってないと落ち着かないんだよ」
ウォルターはピッケルの柄を握りしめ、仮想の岩壁に向けて軽く振ってみせた。
「硬い岩盤を叩き割る感触。未知の鉱脈の気配を感じ取った時の、あの背筋がゾクゾクする感覚。ツルハシが魔導石の原石に当たった時の、あの高く澄んだ音……。あそこには世界がある。ここにあるのは、ただ時間が過ぎるのを待つだけの退屈な箱だ」
「……ほんと、救いようのない採掘中毒よねぇ……」
イブリンはホログラムの肩をすくめ、呆れたように首を振った。
「仕事熱心というかなんというか。時間に余裕が出来たんだし、少しは街の娯楽でも楽しめばいいのに」
「そういうガラじゃないことは、君が一番よく知っているだろう」
ウォルターはピッケルを床に置き、ふと思いついたように顔を上げた。
「そういえば、イブリン」
「なに? また地下の採掘話なら聞かないわよ」
「いや、違う。あのゴーレムの件だよ」
ウォルターの言葉に、イブリンのホログラムがピクリと反応した。
「ついこの間、君が言ってたじゃないか。あのゴーレムを解析して、自分の身体を取り戻す手がかりを得たかもしれない、って」
あの時、彼らが深層で命からがら逃げ延びた巨大な岩石のゴーレム。イブリンは特有の魔力感知能力を用いて、あの動く彫像の回路を読み取っていたのだ。肉体を取り戻す方法を模索し続けている彼女にとって、無機物を思い通りに動かすゴーレムの技術は、大きなヒントになるはずだった。
「そう! それよそれ!」
ウォルターが話を振った瞬間、イブリンのホログラムが雷に打たれたように激しく揺らめき、パァッと明るく発光した。
「忘れてたわけじゃないわよ! むしろ、あんたがいつ聞いてくるかずっとウズウズして待ってたんだから!」
「なら自分から言えばよかっただろ……」
「こういうのはタイミングが大事なの! いいから、ちょっといくつか食器を持ってきてくれる?」
「食器を……?」
ウォルターは訝しげに眉をひそめた。身体を取り戻す話と食器がどう結びつくのか全く理解できなかったが、彼女の自信満々な様子に気圧され、素直に立ち上がってキッチンへと向かった。
シンクの横の棚から、日常的に使っている食器をいくつか見繕う。銀色のスプーンとフォーク、朝食で使った陶器の平皿、そしてガラスのコップ。それらを適当に手につかみ、テーブルの上に並べた。
「これでいいか?」
「ええ、十分よ」
イブリンはプランターから少し身を乗り出すようにして、テーブルの上の食器を見つめた。
「よく見てなさい。私の天才的な魔力操作とゴーレムの術式を融合させた新技術を! ……さあ、立ち上がるのよ……!」
イブリンが両手をかざし、精神を集中させる。
彼女の指先から、淡い青色の魔力の糸が紡ぎ出された。それは意思を持っているかのように空中を漂い、テーブルの上の食器へと絡みついていく。
カチャリ、と銀色のスプーンが微かに震えた。
するとなんということだろう。まるで目に見えない職人が組み立てているかのように、食器たちが自律的に動き始めたのだ。
ガラスのコップが中央に立ち、それを胴体とするように、二本のスプーンが腕として両脇にピタリとくっつく。下部には二本のフォークが脚として接合され、最後に陶器の平皿が、まるで顔のようにコップの上に鎮座した。
完成したそれは、高さ十五センチほどの、食器でできた不格好な小人だった。
「……なんだこれは」
ウォルターが唖然としていると、食器の小人はカチャカチャと軽快な金属音を鳴らしながら、テーブルの上でステップを踏み始めた。右へ左へ、滑らかな動きでタップダンスのようなものを踊っている。フォークの刃先がテーブルを叩くリズミカルな音が部屋に響き渡った。
「見て! ゴーレムを作る魔法よ!」
イブリンは胸を張り、ドヤ顔で言い放った。
「あのゴーレムの術式をデコンパイルして、私の魔力波長に最適化してみたの。今はまだこのサイズが限界だけど、完全に制御できてるわ!」
「……これがどうかしたのか?」
ウォルターの反応は、氷のように冷たかった。
「ちょっと! もっと驚きなさいよ! 無機物に仮初めの命を与えて自律行動させてるのよ? これって魔法史を覆すレベルの大発見なんだから!」
イブリンは不満げに口を尖らせ、プイッとそっぽを向いた。
「いい? よく聞きなさい。この魔法のすごいところはね、単に自動で動かすだけじゃなくて、私の意識を同調させることができるってことなの」
「意識を同調?」
「そう。つまり、この魔法を使えば、実体のあるアバターを遠隔で動かせるようになるってこと。私が直接それに乗り移って、物理世界に干渉できるようになるのよ。これなら、ホログラムのままじゃできないことも色々できるようになるわ」
イブリンの言葉に、ウォルターはゆっくりと頷いた。
「なるほどな。言いたいことは分かった」
「でしょ!? 私の天才っぷりが――」
「だが」
ウォルターは容赦なく言葉を遮った。
「結局、それは『人形』を操っているだけってことだよな? お前自身の元の身体、つまり人間の生身の肉体には戻れていないじゃないか」
「う……」
「それに、その実体のあるアバターとやらは、どこから調達するつもりだ? この食器みたいに、その辺のガラクタをくっつけて動くつもりか? それとも、精巧な球体関節人形でも特注して、それに乗り移るのか? どっちにしろ、不便極まりない上に、周りから見ればただの気味の悪い呪いの人形だぞ」
ウォルターの冷静すぎる正論の矢が、イブリンの胸に次々と突き刺さる。
「なによ、ロマンの塊もない男ね!」
イブリンは顔を真っ赤にして、怒りの抗議の声を上げた。
「いいじゃない! 可愛いお人形に乗り移って、あんたの肩に乗ってお出かけしたり、直接あんたの頭を叩いてツッコミを入れたりできるなんて、すごく楽しいじゃない!」
「はいはい。君が現状に満足しているならそれでいいさ」
「なによその反応! 心のこもってない『はいはい』はやめなさい!」
テーブルの上では、主の怒りを代弁するかのように、食器のゴーレムがフォークの脚をジタバタさせて激しく抗議のダンスを踊っていた。
ウォルターは小さく息を吐いた。期待して損した、というのが正直な感想だった。
人間の肉体を取り戻す画期的な方法を見つけたのかと思いきや、ただ高度な人形遊びができるようになっただけではないか。どうやらしばらくの間、イブリンは人間に戻ることはできそうにない……し、なんなら本人はこのアバター遊びに夢中で、本気で元に戻る気も少し薄れているのではないかとさえ思えた。
ウォルターがそう結論づけ、床に散らばった道具の片付けを再開しようと腰を浮かせた、その時だった。
硬質で事務的なノックの音が部屋に響き渡った。
ウォルターの動きがピタリと止まる。
イブリンもホログラムを揺らすのをやめ、窓際から玄関の方角へと視線を向けた。テーブルの上の食器ゴーレムも、魔法の供給が途絶えたのか、ガシャリと音を立ててただの食器の山に戻った。
二人は無言のまま顔を見合わせた。
平日の昼下がり。ウォルターの交友関係は極めて狭く、この時間にふらりと訪ねてくるような友人は皆無だ。宅配便を頼んだ覚えもないし、もしそうならもっと気の抜けたノックをするはずだ。
この、明確な意思を持って扉を叩くような響き。歓迎されざる客の気配が、ドアの向こうから濃厚に漂ってきていた。
ウォルターは音を立てずに立ち上がり、ピッケルを手近な場所に隠すようにして、ゆっくりと玄関へと歩み寄った。ドアスコープを覗き込む前に、外から声が掛かった。
「ウォルターさん、いらっしゃいますか?」
低く、感情の起伏を感じさせない、しかし確かな威圧感を伴った男の声だった。
ウォルターの心臓が、嫌なリズムで跳ねた。
「警察の者ですが……。少し、お話を伺えますか?」
警察。
その二文字が、ウォルターの脳内を駆け巡った。
――まさかイブリンの存在がバレたのか?
ドアの向こう側から伝わってくる重苦しいプレッシャーが、部屋の温度を急激に下げていくように感じられた。
退屈で、安全で、光に満ちた午後。
つかの間の安穏な生活が、いま、まさに終わりを告げようとしていた。ウォルターは無意識に息を詰め、ゆっくりとドアノブに手を伸ばした。
最後まで読んでくださってありがとうございました!
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