事件の起きた日
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「それって、仁さんがヤードをやめたきっかけですか?」
一紀は冷めた緑茶をぐいっと飲んで、仁に尋ねた。アイザックから聞いた「きっかけ」──ジン先輩と親しかったある人が殺された事件。
「ああ、そうだな。俺が思ってたよりも事が重大で、異例だったんだ」
「印と鍵は一カ国に一つ──ですね」
仁はゆっくり頷く。
そのときの持ち主──先代と次代。たいてい二〇歳近く離れるはずだが、その差がほとんどない状態。
「最初は何の機能もなかったからよ。色も薄くて、なんだこれってな」
「……今は何色に見えます?」
「意地の悪ぃこと言うな。あん時よりは濃いさ」
仁もコーヒーをぐっと飲んだ。じっと、切なく揺らす瞳で右手を見つめる。
「これはオレンジなんだろ? この色、俺はほとんど見れてねえんだ」
いよいよだ。一紀は居住まいを直して、真剣に聞き入った。
*
仁がヤード入りして一年ほど経ったとき、宗司はヤードを辞めた。
ゆかりと店をやりたいからだの、景と事務所で探偵をしたいからだの色々と言いながら、彼は笑顔で去った。だが、ちょくちょくと顔を出してきて、正直言えば少し和んだのは堂々と言いたくない案件である。隣に奴──景がいない時に限ったが。
当初の仁と景は、仲が悪いことで有名だった。ヤード内でバッタリと会うと、無言で不穏な空気がいつも漂い、宗司だけが穏やかな表情をしているという異様な光景がよく見られた。
景と宗司は親戚同士である。母方の従兄弟らしい。似ていることは……あんまない。
それから二年ほど経ったある日、事件が起こった。
その日は仁が非番の日だった。
『今日の天気は曇り。午後は中央のイギリス地域に近づくほど、雨が降りやすいでしょう』
ラジオから聞こえる音を背に、何もないからと部屋を綺麗に片付ける。一段落したところで、アフタヌーンティーとやらをするかと立ち上がったとき、
「……っ」
突然、視界がぐらっとした。どこか調子が悪かっただろうか、と身に覚えのない不調に首を傾げる。今まで、目眩など殆ど起こしたことがなかった。
「……なん、だ……っ」
だんだんと、その異変は大きくなっていった。目が、眼球が、そして頭が痛い。どんと異常が響く。ついには立っていられなくなり、その場に座り込んで荒い呼吸をしはじめた。
「はぁ……っ」
そんな最悪なときに、誰かがノッカーを鳴らした。そして、一番会いたくない奴の声がする。
「もしもし? いるよね、黒須くん?」
「志木崎……?」
「うん、声が聞こえた。鍵は……開いてないね。それじゃ失礼して」
「すんじゃ、ねえ……開けるから」
何とか立ち上がり、鍵を開ける。住んでいるのがイギリス地域で、玄関に段差がないのが救いだった。土足禁止のルールにはしていたが。
扉を開けると、もう保たなかった。視界に景の姿が入ったところで、仁はパタリと意識を失った。
目を覚ますと、灰色の天井。だが、見覚えがある。ベッドで横になったときの景色だ。
溜め息を吐きながら、自分の右手を見た。そして「マジかよ」と呟く。景を見たときから、確信していた。あのむかつくほどの色合いが、全く見られなかったのだ。
「おはよう、仁くん」
「ああ……運ばせて悪ぃな」
「いいよ、別に」
仁はちらりと時計を見る。紅茶を淹れようとしてから、おおよそ一〇分ほど……眠っていたのは、せいぜい五分くらいだろう。
「七分だよ、君が寝ていたのは」
「ありがとな……おい」
「ん?」
優雅にカップを傾ける。この香りは、紅茶だ。アイザックから貰った、ユニオンジャックではないか?
「なに勝手に飲んでんだよ」
「紅茶ができたから」
「じゃねえよ。なんで勝手に淹れてんだ」
「そこに美味しい紅茶があったから。俺、この紅茶、好きなんだよねぇ」
「知るか」
「君も飲む?」
「もともと俺のだろ……淹れてくれ。ストレート」
「お任せを」
景が淹れてきたカップの中を見て、仁はまた溜め息を吐く。茶色の紅茶はもはや、透明度の高いコーヒーと変わらない。
右手の印も……薄い灰色だったものが、少しだけ濃くなっているくらいにしか見えない。
「なあ、志木崎。これ、何色になってる?」
「印だったら、オレンジ色になっているよ。見えない? その色」
「そのようだ。色がまるで分からん」
「視覚の、それも色彩感覚の障害とはね」
「ああ。だが……普通、視界が白黒なんて有り得ねえだろ」
「ほー。色覚異常は色の見え方や感じ方が他人とは異なって、赤と緑などの混同が起こるもの……君、ほんとにイレギュラー多いね」
「知らねえよ」
紅茶を口にする。温かさが染み渡った。
そしてふと、志木崎景がここにいる意味を考えてみる。一度も来たことのないこの家に、ご丁寧なことに靴を脱いで上がり込み、まるで足止めでもしに来たような……。
「…………」
印の色が変わった。代償の負荷が掛かってきた。これは──一カ国に一つである鍵が、仁のものになったことを示すのではないか。それはつまり……。
「おい、宗司は? 久野宗司はどうした」
「へぇ。確かに、変なとこで勘が鋭いね。宗司くんが言ってた通りだ」
「答えやがれ」
「察してるんでしょ? 俺も今の状況はまだ把握してないけど、そういうことだと思うよ」
「ちっ……」
ベッドから飛び出し、外に出ようとする仁を景が止める。手首を握りしめるその黒い手は、全力かと言うほど力が籠もっていた。
「そんな状態で行っても、ただ邪魔なだけ。これはイレギュラーなんだよ」
「分かってる。だが、こうしちゃいれねえだろうが!」
「とにかく待って。もう少し……それで情報が入ってくる。彼が有能ならね」
「誰のことだ?」
「情報屋だよ。彼が仕入れる情報を待つのが一番早い。だから、君はまだ動くべきじゃない。この状況で、最も危険な立場なのは君なんだから。ね、お荷物さん」
「…………」
お荷物さん──その呼び方で、一気に頭が冷える。
冷えたところで、ノッカーの音がした。
「ああ、黒須さん、初めまして。おれは葉隠桐、よろし……」
「早く情報寄こせコラ」
「面と向かうと、噂より物騒っすねオタク!」
「葉隠くん、情報」
「景さんまで……分かりましたよ。そのために急いでここまで来たんすからね」
「早く」
「はいはい……久野宗司、ヤード内で刺される。犯人はほぼ間違いなくヤードの人間だが、明らかになるかどうか。久野宗司は現在、病院に搬送されたが……」
「だめだね、もう」
「え、アンタ……冷たすぎねえっすかねぇ」
「別に。人はいつか死ぬんだから」
凍える闇のような瞳で、景は言い放った。それがどこまでを意味するのかは、誰も知らなかった。ただ、それどころではなく。
「とにかく、病院に向かってみるぞ」
「そうだね。行こうか」
景と視線を交わらせ、見慣れた町を駆ける。見慣れ、住み慣れた場所であるのに、まるで違う場所であった。
そして……病院に着いたとき、妻のゆかりは泣き叫んでいた。




