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手袋の中



 ヤードを出た後、景はフランス地域方面へと車を走らせた。朝食用のパンを買いに行くとのことだったが、一紀はとても眠たくて、助手席に座ってうとうとしていた。

 パン屋に着いたとき、景が「ここにいてもいいけど、暗いから安全は保証できないよ」と言うため、とりあえず着いて行った。

 そして、彼が買い物を終えて、また車に乗る。シートベルトを付ける。


 そこまでは覚えていた。


 車がエンジン音を止めたところで、一紀は目を覚ました。頭がまだぼーっとしたまま、何気なく隣を見ると、ハンドルに寄りかかった景が挑発的な笑みを浮かべていた。


「おはよう。随分と気楽なことで」


 鋭い視線によって、一紀はようやく自分が寝ていたことを理解する。わざわざ迎えにまで来てもらったのに、申し訳ないことをした。


「す、すみません……なんだか考えすぎてしまって、少し疲れてしまったみたいです」

「別にいいけど、本当に疲れてたみたいだね? 俺が運転する隣で寝るなんて」


 どういう意味だろうと疑問に思ったが、怖いから聞かないでおいた。景のことだから、深い意味はないんだろう。

 いや、そんなこともない。かも。


「事務所に着いたよ。君はまだここで寝てる? それでもいいけど、大人しく待っているような俺じゃないことは、まあ分かるよね?」

 一紀はすごく馬鹿にされているような感じを覚えた。次に寝て起きたら、顔にびっしりと落書きでもされていそうだ。だが──それなら、優しい方かもしれない。


「はい、起きます。大丈夫です!」

「そっか、残念」

 不穏な単語を言い残すと、彼はさっさと車を下りる。一紀もすぐに下車し、後部座席から買ったパンを取り出す景を待っていた。

 ただ、じっと。閉めたドアに触れたままで。

 先に帰っていようとは思えなかったのだ。景はまだしも、仁にはどういう表情をすればいいか分からなかった。


 そんな一紀をちらりと見て、景は呟くように聞く。

「俺たちが言ってなかったこと、怒ってないの?」

「え」

 当然、聞かれるだろうとは思っていたが、それが景の口からとは。

 小さな驚きを抱えたまま、一紀も呟くように答える。

「怒ってない訳じゃないんですけど……それよりも、少しのショックと申し訳なさでいっぱいというか。自分、あまりにも脳天気だったなって」

 言ってくれなかったショックと迷惑かけているという申し訳なさ。

 身を寄せさせてもらっていることを、いつの間にか何でもないことのように思っていた。


「前、仁さんに『巻き込んでる』って言われたときは、何のことかさっぱり分からなかったんですけど……結局、そうしているのはむしろ自分だったんだなって」

「……ふーん」

 景は視線を地面に投げたまま、軽く相槌を打った。

 つまらない話だっただろうな、と一紀は少し気が滅入りそうになる。彼を気にしても無駄だとは思うのだが、今はどうしても割り切れなかった。

 今までの強い当たりも、おそらく自分のせいだったのだろう。


「はぁ……」

 悲しげに吐かれた一紀のため息を聞いて、景は車に鍵をかけて歩き始めた。一紀もとぼとぼと後ろを着いていく。建物の間から見える太陽の光が突き刺さって痛い。


「……あのさ」

 事務所までたどり着かない階段の途中で、景は立ち止まった。ゆっくりと振り返り、日の光に目を細めながら、言葉を続ける。

「少なくとも、仁は君に言わなくてもいいと思ってた。必要になる危険な場面に巻き込みたくはないからね。だから別に、信じてないから言わなかったとかではないよ」

「そう、ですよね。なんか、すいません。しんみりしちゃって」

「謝るのはやめてくれる? 俺、今は責めてるわけじゃないんだよ」

「あ、すいません……癖ですかね」

「不便な癖だね」

「あはは、困っちゃいますね」

 一紀は自然に笑みを浮かべる。


 景なりに気を遣ってくれたのだ。人のフォローなどと慣れないことをした上で、照れ隠しをしていたのも珍しく、ちょっぴり彼の微笑ましいところを見つけた。


「さ、調子戻ったみたいだし、事務所に帰るよ」

「はい」

 仁はどんな様子で待っているのだろうか。構えてしまいそうになるが、なんとか平然を装っていく。

「ただいま、仁」

「おう」

 中に入ると、キッチンで何かを炒めている音が聞こえてきた。景に続いて入った一紀は、仁の姿を視界に入れてから挨拶をする。

「ただいま戻りました」

「おかえり」

 一紀の顔を見て、彼はふっと笑う。なんか、怖い──と失礼ながらにも思ってしまった。


 しかし、あぁそうだと一紀は気を引き締める。炒めたキャベツなどを皿に移している彼の手には、白い手袋がなかったのだ。


「悪いが、ソファに座っててくれ。もうすぐ終わる」

「はい、待っています」

「景」

「分かってるよ」

 景は飲み物の準備をしつつ、仁に耳打ちをする。何が話されて何が伏せられたままなのか、エマから言われたことを伝えているようだった。

「はい、お茶。とりあえず飲みなよ」

 まず先に、景がコップを持ってくる。そういえば、しばらく飲んでいなかった。

「いただきます」

 ゴクリと麦茶を一杯飲みきってしまうと、景が苦笑を浮かべながら追加を仁に呼びかける。「俺かよ」とため息を吐いた仁であるが、彼はボトルをしっかりと持ってきてくれた。人柄が表れるのはこういうところだ。普段通りで安心する。


 そして、一紀の正面に二人は腰掛けた。ここに来た日と同じ光景である。


「まず、そうだな。……黙ってて悪かった」

「……っ」

 仁は膝に手を置き、深く頭を下げた。ここまで律儀にされるとは思わず、一紀は一瞬言葉を失う。

「じ、仁さん、いいんです。分かってますから……」

「そうか。なら、いいんだが」

 上体を起こした仁は、不器用に笑顔を作っていた。だがすぐに、柄にもないと頭を掻き始めた。やはり、景よりも分かりやすい。

「あーなんだ、だいたいは分かってるようだな。じゃあ、俺から話すのはエマが話さなかったことだから──」

「仁の印ともう一つの能力だね」

「ああ」

 景に対して頷くと、仁は一紀に隠していた右手の平を見せた。


 エマと同じく、そこに刻まれた紋章──仁のそれはオレンジ色をしていた。鬼の角のようなものから左右に布が揺れ、中心にある菊のような花びらを包み込んでいる。和らしいかと問われれば、和らしいと答えられなくもないマークだ。


「これが俺の紋章、日本の鍵だ」

「日本っぽいですね」

「そうか?」

 彼は自分の右手をまじまじと見る。すると、一紀はあることを見つけた。

「あの、その爪は?」

「ん、ああ、これがもう一個の能力に係わるもんだ」


 仁が改めて見せた右手の人差し指、その爪は塗ったかのように真っ黒だった。


「これは、物体転送能力の印だ。物を特殊空間に移動して、しまっておける。出すのも自由だ」

 そう言って、仁は掌を上に向けて人差し指を少し動かす。すると、手の上にぽんと日本刀が飛び出してきた。

「へぇ~。エマさんが突然物を持ったりしていたのは、こういうことだったんですね」

「そうだな」

「仁さんは日本刀なんですか?」

「ああ」

「今まで使えなかったから、拳で殴ってたんですね」

「いや……元々、拳はよく使う方だった」

「な、なるほど」

 ヤンキーですか、とは聞けなかった。決めつけはよくない。


「俺たちの世界は、おまえの世界に干渉することで発展していった。その過程で、必要かつ重要なのがこの能力であり、それぞれの国に一人が持つことになっている」

 世界を移動するための鍵で扉を開き、物体転送能力で文化を持ち帰る。そのために、感覚という代償を払っていく。

 印を隠すのは、存在と代償を隠すためらしい。一カ国につき一人しか存在しないために、鍵を見せつけるのは危険であり、かつ、印は代償を持っていることの暗示ともなる。感覚の消失がアダとなる場面は、この世界において少なくない。それが視覚や聴覚ならば、なおさら生命にとって重要になってくるのだ。


 一紀も思ってはいたことだが、あまりにも大きな話だった。

「以上だ。頭は大丈夫か?」

「混乱はしてないです。でも、仁さん、もう一つ聞きたいことが」

「代償か」

「はい」

 一紀がまっすぐな目をして答えると、仁は黙って髪をかき上げる。こればかりは知られたくないようだが、それを一紀に面と向かって言うのをためらっているらしい。


「君はそれを聞いてどうするの?」


 固まった空気に割って入ったのは、他でもない景だった。仁の様子をいち早く察して、助け船を出したのだ。

「知っておきたいんです」

「これが必要以上に関わるってことだけど、分かってる?」

「それは……」

 分かっている。彼らがそれを望まないために、今まで隠していたことも。だが、それではダメだと思った。

 けれど、それを上手く言葉で説明するのは難しかった。


「一紀」


 まだ言葉を続けようと口を開きかけた景を遮って、仁が名前を呼んだ。一紀に向かって、まっすぐな視線を向ける。

「悪いが、代償については放っておけ。おまえには関係ねえ。もし仮に、自分が来たことでっつう心配があるなら、それは気にすんな。どういうわけか、ダメージは来てねえから」

「分かり、ました」

 未練がましさを残しつつも、一紀はそう答えた。これ以上、彼らの爆弾を増やすのはよくない。


「じゃあ、最後にこれはいいですか?」

「言ってみろ」

「今度は景さんなんですが、その手袋の下は……?」

「俺? ああ、紛らわしいよね」

 景はさらりと答えると、右側の手袋を少し捲り上げた。手の平を見せるようにして、一紀の方へと向ける。

「これはっ……火傷、ですか」


 そこにあったのは、肌の色が変わってしまった火傷の痕だった。


「そう、幼い頃の火傷の痕。もう覚えてないくらいの歳のやつだから、よく分からないけどね。結構な火傷だったんじゃないかな」

 彼はさも他人事のように告げる。幼い頃のものだとしても、二十年以上経った今も鮮明に残ってしまっているほどの痕だ。当時、それを見ていた人は大騒ぎになったのではなかろうか。


「すごい強張った顔してるね? 自分で聞いておいて」

「そりゃ、しますよ。すごいものでしたから」

「まあ、何を疑ってたかは分かるけど、そもそも俺がガンホルダーなんて身に着けている時点で、その線はなくならなかった?」

「なくなると思いますけど、気になるじゃないですか」

「好奇心旺盛だね」

「オメェが言うな、景」

 くすくすと楽しそうに景は笑った。それに釣られて、一紀と仁も表情を柔らかくする。

 探偵事務所にいつもと変わらない夜が訪れた。

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