印
アイザックが探偵事務所に連絡を入れる三十分ほど前のことだ。
ヤードの本部に着いた後、一紀は一室に案内された。取り調べにでも使われているような、小さな部屋だった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
一紀が引かれた椅子に座ると、机を挟んで、エマも椅子に腰掛けた。ティーセットを持ったアイザックも部屋に入り、空いている椅子に腰を落ち着ける。
彼が紅茶を用意し終わった後、エマが話を始めた。
「まず、君は『印』や『鍵』といった言葉を聞いたことがあるか?」
「いえ、どちらもないです」
「そうか」
伏し目がちに、エマは呟いた。軽く殺気を感じるのは気のせいだろうか。
だが、彼女はそれを振り払うことなく、白手袋に触れ、右手の素肌をさらした。
「……!」
一紀は声が出せなかった。いや、息が止まったと言ってもいいかもしれない。とにかく、それを見せられて驚き、視線が釘付けになった。
「これが印だ」
エマが一紀に見せた手の平には、緑色の紋章が刻まれていた。王冠と剣が掛け合わさったようなマークで、確か、ヤードのマークとなっていたものと同じだ。
「これは私や他の者が故意に刻んだものではない」
「持って生まれるものってことですか?」
「ああ。そして、これが能力の証だ。君が巻き込まれた能力の、な」
「巻き込まれた……。鍵ってもしかして」
「そう、世界と世界を繋ぐための扉を開く鍵だ。つまり、君はこの鍵で開かれた扉をくぐってきたのだろう」
「そう、ですね。扉はくぐりました。ということは、二人のどっちかがそれを持っているんですね?」
ふと、一紀は確信した。扉の先に彼らがいて、彼らに保護されて──それに、どちらも手袋をしている。おそらく、それを隠しているのだろう。もしかして、どちらもなのか……?
「持っているのは、ジンの方だよ」
首をかしげて考えていると、エマがスッと答えを差し出してきた。知っていたらしい。
「一人なんですか?」
「印と鍵は一カ国につき一つだ。シキザキ・ケイが手袋をしている理由は知らない」
「へぇ」
「ここまでは、そこまで動じていないようだな?」
「まあ、何かあることは感じていたので」
「なるほど」
エマは一度話を切ると、何か覚悟を決めるようにさりげなく深呼吸をする。右手に再び白手袋を着けなおすと、机の上に手を置いて口を開いた。
「イツキ」
「はい?」
「……当然、代償についても知らないだろう?」
「代償……能力の代償ってことですか?」
「うむ。私たちが繋ぐ世界は、4倍の速さで進む世界だ。それもあってか、印を持つ者は必ず何らかの障害を抱えている」
「……っ」
一紀は言葉を飲み込んだ。背筋がぞわっとし、鳥肌が立っている気がする。しかし、ここまで来て聞かないわけにもいかず、続ける言葉をなんとか紡ぐ。
「その、障害というのは……?」
「感覚器官だ。それぞれ、どこかの感覚に支障をきたしはじめる」
「きたしはじめる──それは、元からないわけではなく、徐々に失っていくと……?」
「その通りだ。私たちがあちらの世界に干渉すればするほど、感覚はどんどん失われていくのだよ」
「じゃあ、もしかして、自分のせいで……」
「あり得なくはない、だろうな」
一紀の頭の中が真っ白になった。今まで、何を呑気に生活していたのだろうか。
しばらくの間、沈黙の刻が流れる。
「一人に、してもらってもいいですか」
机に突っ伏して、外界を遮断する。もう、自分がどういう表情をしているか分からなかった。
「……分かった。出るぞ、アイザック」
「はい……」
アイザックは唇を噛み締めた。
何もできない。止められなかった。何をしたらいいのか分からない。近づくことさえできない。
部屋を出る前に見た一紀は微動だにしなかった。
「アイザック」
「なんです?」
「探偵事務所に連絡を入れておけ。あの様子だと、帰れないだろう」
「僕、送ります」
「私が話したい」
「なるほど」
「では、私は業務に戻る。どっちが見えたら連絡してくれ。おそらく、ケイだろうが」
「了解」
スタスタと歩いて行ってしまう彼女の背中に、アイザックは情けない視線を向ける。自分を含め、みんなが何を思っているのか見当もつかない。
「……ハァ」
頭がぐちゃぐちゃになったのは久しぶりだ。最高に気持ちの悪い感覚である。
柄になく色々と考えるんじゃなかった……との後悔が浮かぶものの、答えが出なかったことの方が悔しい。
こんなんで友達になりたい、なんて楽観的すぎるだろうか。




