夜空の星
その日の夕飯は景のオムライスで、一緒に仁が作ってくれていたスープを飲んだ。安定した旨い味と温かさが、疲れた身体にほっと染み渡る。いつも以上に至福の時だった。
食器洗いを手伝いながら、一紀は事務所内を見回した。
「あれ? 仁さんは……」
「んー。たぶん、屋上だと思うよ」
「ああ、たばこですか」
「そう。今日は仁の好きな空だから」
「そうなんですか?」
手を拭いて、デスク側の大きな窓から外を眺めてみる。曇天模様の多いこの場所にしては珍しく、雲のないスッキリとした夜空が広がっていた。
何も考えることなく、自然な動きで窓を開けた。スッと入ってくる空気は、澄んでいて心地がいい。
「星は、無条件に綺麗だからね」
机を拭きながら、景はそれとなく呟く。深い意味があるのかないのか――それは一紀には読み取れなかったが、その言葉通りであることは分かる。
「そうですね。空気も綺麗ですし、自分も今日みたいな空は好きです」
「その空気は今現在、上で汚されているけどね」
「ハッ。言われてみれば、確かに」
景も一紀の隣に来て、窓の外を眺める。少し冷えた風が二人の間を通った。
「気持ちがいいね。今日はよく眠れそう」
「寝付きは良いほうですか?」
「どうだろうね。どっからが良い判定か、それを――」
「そういうのはいいです……自己基準で」
「じゃあ、良いほうかな。寝れないって思ったことないから」
「スって寝てそうですよね」
「それでスッと起きるタイプだよ」
「さすがですね」
「まあ、本当かどうかは想像に任せるけど」
「えぇ……」
一紀が眉にしわを寄せると、景は楽しそうに笑ってから再び空を見上げた。
今までになく、彼と普通に話せている。警戒も何もかも、風が攫ってしまったようだ。
「君は?」
「寝付きですか?」
「そう。俺が言ったんだから、次はそっち」
「絶対、興味ありませんよね?」
「興味であの話振ってたの?」
「え」
思わぬ所を突かれ、一紀は一瞬固まる。やっぱり怖いという印象が拭えないが、今それを態度に出したら全てが台無しだ。気を晴らすため、わざとらしくコホンと咳払いをする。
「えっと……自分は、割とコロッと寝ます」
「どこでも寝れそうだもんね」
「そう見えます?」
「ここに来た初日、普通に寝れたんでしょ?」
「まあ……。いや、でも、あの日は……仁さんのおかげで気分がスッキリしたことで、安心して寝れたというか」
「ふーん。仁、ねぇ」
その先に言葉を続けることなく、景は後ろにある仁のデスクに腰を掛けた。ほったらかしにされているボールペンを取り、クルクルと回して眺めてみる。
「…………」
途切れた会話を惜しみつつ、取り残された一紀は窓枠に肘を置いて頬杖をつく。窓の外を覗いていると、遠くの方から女性の叫び声が聞こえてきた気がした。
「景さん、今の聞こえました?」
「女性の声? 聞こえたけど……」
それが何か? とでも続きそうな言い方だったが、上から聞こえる仁の声によって見事に遮られた。カンカンカンッと階段を駆け下りる革靴の音が響いてくる。そして間もなく、事務所のドアがバンッと開かれた。
「景、声聞いたよな」
「聞いたけど」
「こっちに向かってるらしい。出るぞ」
「……やっぱり。本当に仁は」
景が振り返って言い返そうとしたところ、その瞳に映ったのは仁のジャケットだけだった。
「ああ、もう」
珍しく慌てた様子で、景は仁を追いかけていく。
「あ、あの!」
不安そうな声で一紀が呼び止めると、彼は振り返って「ヤードに連絡しといて」とだけ告げていった。告げていったのだが、何と伝えれば良いのだろう?
電話に手を伸ばしては、デスクの周りを行ったり来たりする。
そのうち、助けを求める女性の声がはっきり聞こえてきて、彼らが接触することに確信が持てた。勇気と受話器を持って、ダイヤルを回す。
「あ、もしもし、探偵事務所です。今、ひったくりと思われる男性と事務所の者が接触してます。あの、引き取りに来てくれますか? ……ありがとうございます、よろしくおねがいします」
受話器を置き、一段落したと溜息を吐く。
すると、ドンッという何かが硬い物にぶつかった音と共に、例の男性が痛がるような声が聞こえてきた。一紀は「ご愁傷様です」と窓の外の暗がりに向かって手を合わせる。
続いて、ドスッという音がした。男はもう一人居たようで、また違う唸り声まで聞こえてくる。
一紀は思わず眉尻を下げた。前に仁の戦い方を見たことがあるが、容赦なく拳や棒状の物を振り回していた覚えがある。ヤクザというか、不良のそれというか……豪快で漢らしいというか。
景の方は見たことがないが、あの景のことだ。きっと、仁以上に容赦ないだろう。言葉にさえ殺傷能力があるのだから。
そんな二人と対峙してしまった名も知らぬ男たちに同情する。
もう二度と、この地域で暴れたりはしないだろう。学ぶような人たちであることを祈るばかりだ。




